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「……ナオトよ。これを見て怖気づいておるのか?」
「いや、予想通りだよ。何か恐ろしい事情があるのは覚悟していた。じゃなきゃ、こんな簡単に魔界のナンバー2になれるなんて思わねーよ」
山盛り状態の請求書が、執務室の机の上を埋め尽くしている。それは世間知らずの魔王ナタリアが作った借金の山だった。ご丁寧に『借金を全て返さなければ魔 王としての実権を剥奪します』という内容の上書(主君・上官に対して意見を記した文書)が添えられてある。期限まであと半年ほどと書いてあった。
期限を決めている辺りに最後の良心を感じる……。これを過ぎれば容赦はしないだろう。ナタリアが上書を手に取りながら呟いた。
「ふん。実権を剥奪などとは笑わせる。すでに妾を政治の場からお払い箱にしているクセに」
「そりゃ、まぁ、普通に考えたらそうするだろ。逆に借金返したら政権復帰して良いって書き方に、寛大さを覚えるくらいだわ」
先代魔王の娘ってことで温情がかけられているのだろう。それだけ国民にとって先代魔王は英雄なのだ。(ナタリアの話を聞く限り凄まじい英雄だと思う)にも かかわらずナタリアの協力者がオレだけという状況は、彼女に対する国民の期待値がゼロであることを意味している。つまり、奇跡でも起こらない限り、ナタリ アの政権復帰はあり得ない。そういう評価だ。
「で、実際にナタリアの借金の額は……およそ100億円!? 大き過ぎて実感が湧かねーよ。よく個人でこれだけ借り入れることができたな」
「ふふふふ。それは妾じゃからな。魔界にとって妾は至高の宝石と知れ」
「その宝石に実権剥奪の上書が届いているんだけどな。つーか、誰か止めてくれなかったのかね? 城ごと売ったとしても足りないぜ」
ちなみに金銭の単位が『円』なのは、魔界の知識が日本の知識に変換されて上書きにされているからだ。召喚魔術の影響らしい。オレは日本語で話しているつも りだが、実際には魔界語を話しているとのこと。要するに脳みそを弄られたのかなーと思ってしまうが、深く考えても良いこと無いので考えるのはやめた。思考 停止も時には必要だ。
「個人で返せっていうのがまた難問だよな。借金返すまで魔王の特権が使えないから、無職の二人が事実上の戦力だ。魔王の名前にブランド力はあるけど、借金大魔王の汚名付き。いや、借金が多すぎて何をやっても焼け石に水なんだけどな」
「案ずるな。なんとかなると信じるのじゃ」
「その楽観思想が羨ましいよ。どうやったら手に入るんだ?」
「100億円で妾が売ってやっても良いぞ」
「100億円がプレッシャーだから欲しいんだけどな。本末転倒だから遠慮しておく」
「手に入れてしまえば100億円のプレッシャーも消し飛ぶぞ」
「だからナタリアの頭はクルクルパーだったのか」
ナタリアの綺麗な顔にしわができる。そんなキツイ目付きで睨んでくるんじゃねーよ。ちょっとした憎まれ口だってのに、表情が真剣すぎて怖い。免疫力が無いにもほどがある。周囲に苦言を言う人物がいなかったんだろうな。父親は甘かったようだし。
目に見えて怒っているナタリアから離れて、オレは他にめぼしい文書がないか探してみた。すると一通の手紙を見つけた。
『国境付近の警備の仕事をしてみませんか? ――ニキ・ハミルトンより』
借金関係の書状しかない中で、この一通だけは建設的なことを書いている。ニキ・ハミルトンという人物は、ナタリアに好意的な人物だと見るべきだ。オレとナ タリアの二人だけで突破口が見つからない今、無理に金銭を稼ごうとするよりも、人脈を広げたほうが可能性がある。ニキ・ハミルトンと会って話がしてみた い。
「なぁ、ナタリア。このニキ・ハミルトンっていう人だけど……って、ええ!? なんだよ、その黒い火の玉!!」
「離れるのじゃ。この不快な紙くずがあるから悪いのじゃ。全て燃やすことにした」
「やめろやめろやめろ!! それを燃やせば、オレ達の未来も燃えてしまう!」
請求書を全て燃やしちゃいました。なんてことになれば、その時点で魔王の実権が剥奪されるのは想像に難しくない。オレは手の平に野球ボール大の黒炎を浮かべるナタリアの腕を掴む。
「離すのじゃ! 手元が狂ってお主に当たると大変じゃぞ!? 黒炎の呪いは対象者の魂すら燃やすのじゃ!」
「そんな《相手は死ぬ》みたいな魔術を癇癪の発散に使うな! 我がままの道具にしちゃ危険すぎるだろ!!」
子供に刃物を渡しちゃいけないように、ナタリアに魔術を教えたら駄目だろう。先代魔王は、甘やかすばかりではなく、しっかり躾けて欲しかった。つか、魔術教えたんなら、責任を持て! 空手だって黒帯以上は凶器を持ってる扱いになるんだぞ!
「とにかく落ち着け! この請求書の山も、使いかた次第で金になる! そんな簡単なことがわからない馬鹿じゃないだろう!?」
「う……うむ、そのくらいのことは理解しておる。これは、ちょっとした戯れじゃ」
「マジかよ」
請求書が金になるわけないだろう。そんな簡単な嘘がわからない馬鹿がここにいた。しかし、癇癪が収まってくれたので、オレは黙っていることにする。本当の ことを言えば、また暴れ出しそうだし……。人間は、こうやって嘘を積み重ねていくのかもしれない。罪深いカルマを背負っていた。
「まぁ、それはいいとして、ナタリア。ニキ・ハミルトンという人物について知っているか?」
「ふむ。ニキ・ハミルトンじゃな。今は《未開拓の地》付近の国境を治めている領主じゃ」
「未開拓の地って?」
「魔界は広いゆえに開拓の行き届かぬ地があるのじゃ。未開拓の地には魔物が住んでおり、ときどき国境を越えてくる。ニキ・ハミルトンは国境を越えてきた魔 物を撃退することを生業としていて、その職務ゆえに民からは英雄視されておる。つまり、一言で申せばいけ好かぬやつじゃのう」
「お前、英雄視されているやつ全員をいけ好かないやつだと思っているだろ。先代魔王の娘なのに名声が伴なわないからといって、僻むんじゃねーよ」
ひょっとしたら、ニキ・ハミルトンも『名声が伴なわないのに何でナタリアが魔王なの?』という感じで僻んでいるのだろうか? この誘いの手紙は罠か? ……ないない。放っておいてもナタリアは自爆寸前だし、罠で嵌めるくらいなら、それこそ名声を集める努力をしたほうが良い。たぶん好意的な人物で間違いないはず。
「なぁ、ナオトよ! 先ほどから無礼な物言いが過ぎるとは思わんのか!? この無礼者め! 妾を何と心得ておるのじゃ!?」
「魔王の器が無いのに自分は魔王だって言い張る子供にしか見えねーよ。逆に聞くけど、お前はオレをなんだと思っているんだ?」
「妾と臣下の約束を交わした仲であろう? 臣下であるならば、妾を敬い礼を尽くせ!」
「勘違いするな。オレは異世界人だぞ? 臣下の立場になっただけでお前を敬う常識は無い! オレの忠誠が欲しければ、器の大きさで勝ち取ってみせろ。魔界の人間と同じだと思うな!」
まぁ、本来は敬うべきなんだろうけど。ナタリアにはこれで十分だろう。オレはお金が好きだから、ナタリアの借金が無くなって魔王の権力を取り返せば、オレ は尻尾振ってどこまでも付いて行ってやるよ。それが仕事だと思えば安いくらいだ。ナタリアは、また泣きそうな顔になっていた。
「……支えてくれると言ってくれたではないか?」
「十分に支えているじゃないか。少なくとも、目の前の問題について一緒に考えてやっている。それがお気に召すかどうかは知らんが、最低限の責任は果たしているぞ」
「……のう。妾は不安なのじゃ。安心させてたも」
「お前が不安なのと同じくらいオレも不安だ。そんな相手にすがり付くことが、愚かな行為だと思わないのか?」
「そんな……」
「ちょっと来い。確か洗面室はあっちだったな」
ナタリアの手を引いて、オレは廊下に出る。高価な壺や立派な甲冑など飾ってあって、豪華絢爛な廊下だったが、誰もいない。人の音がしない空白の城内だった。住居はその人を表すというが、まさしくその通りだ。魔王という立場でありながら、ナタリアの心には誰もいない。
オレは荒々しく洗面室の扉を開けると、巨大な鏡面の前にナタリアを立たせた。
「見てみろ。お前の、自分の顔を」
「……いや」
「すげー醜くて情けない顔だと思わないか? これが現魔王の顔なんだ」
「……やめて、ナオト、やめてたも……」
「笑っちゃうよな。涙と鼻水でグッシャグシャだ。汚ねー泣き顔。先代魔王、魔界大戦の英雄様の血を受け継ぐ娘が、この有り様だ。これじゃあ、愛想も尽かされるわな。一人ぼっちになるのも当たり前だよ」
「……うっ……くうっ……くっ! ……」
――ドン! オレを突き飛ばしてナタリアは廊下に飛び出して行った。グシャグシャの顔のまま、ドレスを引っかけて無様にはだけさせて、片方のヒールを脱ぎ落したことに気付かずに走って行った。
「あいつ……どこに行くつもりだ?」
オレは慌てて追いかけて行く。ナタリアの姿が階段を下りていくのが見えた。
「うぐ……ひく……うう……お父様ぁ……」
嗚咽するナタリアを追いかけて、気付けば地下の広場にまでやってきた。
巨大な石碑にすがりつくナタリアの姿があった。それが先代魔王の墓石なのだとわかった。ナタリアが「お父様」と呼びかけ続けていたから。そうか、先代魔王が死んだから、ナタリアが魔王を継いだのか。謎の一つが解けた。あまり良い発見の仕方ではなかったが……。
やり過ぎたのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんでくる。他にやり方があったのではないだろうか? ここまで過剰に反応するとは思わなかった。間違った ことも言っていないはず。いや、あの痛々しい姿を見て、罪悪感を抱かないなら、オレはたぶん人間じゃない。オレは間違えたんだ。余計なことをした……。
――泣き止むまで、オレはナタリアの背中を見守った。やがて静かになったのを見計らって、そっと彼女に近づくと、ナタリアは泣き疲れて眠っていた。涙の跡 が痛々しかったので、拭ってやる。寝顔はとても安らかだった。夢で父親と会って安心したのだろうか。せめてそうであって欲しいと祈りながら、オレは彼女の 身体を背負う。見た目通り軽かった。
「まぁ、やり過ぎたかも知れないな。でも、同情はしねーぞ。同情するほど、オレにも余裕があるわけじゃないからな」
ナタリアの感情に巻き込まれてはいけない。どれだけ、彼女に情を動かされそうになっても、オレは正しい選択をしなくてはならないからだ。彼女が弱くて脆くて情けない以上、オレは強くてタフで頼れる人間でなくてはならない。そうであらねば、二人とも中倒れしてしまう。
寝室までナタリアを運んで行く。外はもう暗くなっていた。月明かりが廊下の窓から入り込む。この世界の月は白くて美しかった。ナタリアもあれくらい綺麗な 少女だったことを思い出す。初めて出会った時は見惚れてしまったはずだ。今はダメダメな性格のせいで霞んでしまったけど。
扉を開けたまま、月明かりを頼りに、暗い寝室のベットに辿り着く。できるだけ静かにナタリアを下ろして毛布を掛ける。出て行こうとすると、袖を掴まれた。振り返ると、目を開けたナタリアと見つめ合う。寝かせる時に起こしてしまったか。
「……行かないで」
「……しょうがねえなぁ」
それ以上、何も言わずにベットの横に座る。甘やかすのはオレの主義に反するところだが、今日は、まぁ、いいだろう。座ったまま寝れるわけもないが、強く袖を掴まれてはしょうがない。開いた扉の向こう側にある白い月を眺めて、袖を握る手が満足するまで待つことにした。