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そういえば、冷蔵庫に卵の残りがあったかもしれない。
ふと、そんなことを思い出すのは、ほとんどの場合、買い物を済ませた帰り道だったりする。つい、スーパーで特売ののぼりを見て卵を買ってしまった。大は小 を兼ねるというか、無くて困ることはあっても、あって困ることはない、みたいな精神が根付いてしまっているようだ。無意識のうちに。
生ものは計画的に買わないと冷蔵庫を圧迫するし、腐るから面倒だ。洗剤だったらなんとでもなるんだが……。一人暮らしだから、オレ一人で食べるしかない。 他にも生野菜があることを考えると、今日の夕飯から食事が豪華になってしまう。多く食べられるのは嬉しいが、贅沢は敵だ。贅沢はオレからお金を奪ってい く。
――ああ、バイトに行くまで、あと三十分しかないじゃないか。
今月の給料日に想いを馳せた。そうやってやる気を振り絞る。今月の給料でようやくスマホが買えると思うと、給料日までの十日間を乗り越えられる。ファイトだ、オレ。疲れは自覚しなければ疲れじゃない。ようやく今どきの高校生に一歩近づけるんだぞ。
安アパートの錆びた階段が、オレが踏んで上るたびに情けない音を出す。この音はオレの人生の音なのかもしれない。いや、社会人になるころには逆転してやる さ。たまたま貧しい家庭に生まれただけで、将来は金持ちとして生きてやる。そう決意を固めながら汚れた玄関の扉を開けて中に入る。
「ただいまーって、誰もいねーけどな」
「ふむ? お帰りと言えば良いのか?」
一人暮らしなのに、女の子の声が聞こえた。寂しさをこじらせて幻聴でも聞こえ始めたのだろうか? もし、そうならバイト休んで寝ないと過労で死ぬかもしれない。声のした方を見てみると、そこには現実離れした美しさの少女が立っていた。
黄金のシルクで作られたようなロングウェーブヘアー。はっとするほど透き通ったルビーの瞳。きめ細かく陶器のような白肌。艶めかしく赤い唇。抱きつくと儚 く折れてしまいそうな華奢な背丈。愛くるしさと気品を振り撒く赤と黒のゴシックドレス。夢から出てきた王女様のようだった。
おそらく五秒間、ぼーっとしてしまった。それから徐々に頭が冷えて、今の状況を客観的に振り返る余裕が戻ってきた。なんでオレの部屋にシャンデリアがぶら がっているんだろうか? というか、部屋全体がヨーロッパのノイスヴァンシュタイン城の中身みたいになっているのは、どういうことだろう? 安アパートのぼろっちい部屋はどこいった?
どう見たって、オレの部屋じゃなかった。
ということは、自分の部屋と間違えて隣の部屋に入ってしまったに違いない。
「あー、すみませんでした! 部屋を間違えてしまったみたいです!」
オレは全力で身体を四十五度に曲げて謝罪すると、入ってきた扉から出た。
すると、そこはアパートの外ではなく、ノイスヴァンシュタイン城の廊下だった。なんでやねん!
……嫌でも冷静にならざるを得なくなったオレは、とりあえず、またさっきの女の子がいる部屋に戻って聞いた。
「あのー、オレって今、どこからここに入ってきましたっけ?」
「そこの扉からに決まっているじゃろう」
「ですよねー……」
扉を見ると綺麗な木目に赤い魔法陣が描いてある。取っ手を掴んで開けたり閉めたりしてみた。なにも起こらなかった。いや、なにか起こった後か? そろそろ、オレ、頭がバグって死ぬかもしれない。
「お主、存外に冷静じゃな。普通はもっと取り乱すものかと思ったが」
「えっ? なんか知っているのか?」
「おっと、ここまできて取り乱すでないぞ。まずは心を落ち着けるために深呼吸をするのじゃ」
「ああ、そうですね。すーはー、すーはー。よし、心を落ち着けました。なにか知っているんですか?」
「うむ。お主がここにいるのは、妾がお主を召喚したからじゃ」
「えっと、すみません。もう一度」
「うむ。お主がここにいるのは、妾がお主を召喚したからじゃ」
「えっと、すみません。もう一度」
「いや、だからな。……妾が、お主を、ここに、召喚したから、お主は世界を越えて、ここにいる、のじゃ。わかったか?」
「あー、はいはい。なるほど。君が、オレを召喚したから、こんな豪華なお城みたいな場所にいるんだね?」
「うむ。ようやく理解してくれたか。つまりそういうことじゃ」
「いや、やっぱり全然わかんねーから! つーか、どういうこと!?」
「妾には、お主の力が必要なのじゃ」
これが俗に言う異世界召喚だと理解するのに、ここからさらに二十分かかった。
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魔王――それは、魔界を統べる覇者に与えられた称号である。
全ての伝説は、先代魔王の一言から始まった。
「有象無象どもが好き勝手に暴れる時代は飽きた! 俺様は新しい時代を築くぞ! 未来が欲しい奴は俺様に続け!」
その剣は大地を割り、その魔術は天を穿った。
先代魔王の英雄的強靭さと遙か高き志に魅せられた者達が集い、魔界統一を賭けた聖戦が始まる。後に「魔界大戦」と呼ばれた戦いに勝利し、先代魔王は魔界の頂点に立った。
「これから俺様は平和な世の中を創るぜ! 強い奴も弱い奴もみんな俺様についてこい! 魔界をこの世で一番幸せな場所にしてやる!」
武勇で最強だった先代魔王は政治でも最強だった。数々の善政によって国は富み、文化は栄え、人々の顔には笑顔が戻る。魔界は黄金期を迎えたのだと誰もが声高に叫んだ。
「――――というのが、妾のお父様でな。妾はその偉大なお父様の血を受け継いだ、現魔王のナタリア・ボーフォートじゃ。ふふふ、どうじゃすごいじゃろう?」
「おおー。確かにすごいな。……すごいけど、それ、お前の父親の話だよな。現魔王のナタリアは、いったい何をやった偉人なんだ?」
「ぎくり。め、妾はその偉大なお父様が統一した魔界を、大切に守ってきたのじゃ」
「実際にぎくりって声に出して言うやつ初めて見たわ」
召喚されたらしいオレは、とりあえず地べたに座って、突然始まったナタリアの父親自慢を見ていた。
彼女は親の七光だけが頼りのへっぽこなのだろう。魔王として威厳が無いし、あまり上手くいってないような感じがした。滝のように汗を流しながら部屋中に目を泳がせている少女を見て確信する。この子は偉人の器じゃない。
「まぁ、世襲制で魔王の地位を継いだんだろうけど、たぶん向いてないからやめた方がいい。名残惜しいとは思うが、誰か信頼できる人物に魔王を丸投げしちまえ」
「そのようなことできるわけなかろう。お父様がくれた宝物じゃ。妾はお父様の娘として、死ぬまで魔王であり続けるぞ」
「強情だねえ。ま、貴族とか王族らしくて逆にわかりやすいわ」
「む。わかってもらえたか! さすがは妾の召喚に応じた者じゃ」
「そう! それだよ! そういえば、お前、どうしてオレを召喚したんだ!?」
急に父親賛美が始まってうやむやになっていたが、どうしてオレが異世界召喚されたのか聞いてない。魔王ナタリアは大きく膨らんだ胸を張って、偉そうにふんぞり返りドヤ顔で言い放った。
「聞いて喜ぶのじゃ! お主には魔界の有象無象どもに代わって、この魔王ナタリアの世話をする名誉を得たのじゃ! 選ばれし者なのじゃ!」
「……えー……」
「なんじゃ、その微妙そうな反応は」
「いや、微妙って言うか、あまりにも押しつけがましい上にメリット無くて……。そういえば、さっきからオレ達以外に人の気配がしないけど、この城には他に人がいないのか?」
怖くなるくらいに静まり返っている。広大な城内を管理しようと思ったら、少なくともナタリア以外の誰か彼かは必要なはずだ。ナタリアは哀しい顔をして答えた。
「臣下や使用人は皆、一斉にやめてしまったのじゃ」
「え? どうして? なにか事件でもあったのか?」
「ああ、悲しい事件があったのじゃ」
「聞いて大丈夫なことなのか?」
「大丈夫じゃ。実はな、妾が借金を作り過ぎたせいで給料が支払えなくなって皆やめてしまったのじゃ」
「そりゃそうなるわ! 一瞬でも気を使ったオレが馬鹿だったよ!」
そんなもの、辞めて当たり前だわ。同情する余地が欠片も無い。
「つーか、そこまでいくと、もはや無能を通り越して悪じゃねえか! さすが魔王っていうか、駄目な方向に悪逆非道だわ! すげーわ!」
「うううう、魔王は悪逆非道の称号ではない。英雄たる者の称号なのじゃ」
「あれ? ……ちょっと待てよ。今までの話から考えると、オレは辞めた使用人の代わりとして呼ばれたのか?」
「だから、そう言っておるじゃろう」
「ふっざけんじゃねーよ!!!!!」
最悪だった。異世界召喚という夢が溢れる現象に巻き込まれたけど、理由が最悪だった。まだ、勇者兵器として世界を救えとかの方が、意味がある分マシな気がした。まぁ、そっちはそっちで鬱ルートになりそうだけど。
「そんな身勝手な理由で召喚されてたまるか! 帰せ! オレを元居た世界に帰せ!」
「くくくくく……。使用人が居なくなって途方に暮れる妾が、なぜ手間のかかる異世界召喚に手を出したと思う? 異世界召喚は一方通行で元の世界に帰れないからじゃ。呼び出された者の意思がどうであろうと、最後には妾の使用人になるしかないという……あ、あの、お主よ。その構えはいったいなんじゃ?」
右手でげんこつを作り、左手でげんこつを作る。ナタリアの頭の両側に添えて、オレは全力でナタリアの頭を挟み込んだ。もちろんスクリュー回転を加えるのを忘れない。そう、これこそが地球が誇る拷問的幼児おしおき方法、ぐりぐり攻撃である。
「うおおおおおぉーーーーー!!!! オレは怒っているぞ! ナタリアぁぁぁーーー!!!!!」
「痛タタタタタ! 痛い痛い痛い!! なんじゃこれ!? 新感覚! 新感覚の痛みじゃああああ!?」
お気に召したようなので、全力でオレはスクリュー回転を加え続ける。「宇宙が見える!? 光が見える!?」とナタリアが喚き始めた辺りで怖くなってやめた。やり過ぎて頭のねじまで回ってしまったか? 目を白黒させていたナタリアはやがて落ち着きを取り戻して言った。
「い、痛かったではないか! 無礼者め! 妾を何と心得る! ……お父様ですら手を上げたこと無いのに」
「これだけやって出てくるセリフがそれかよ。はぁー、筋金入りというか、もう脱帽するしかねーな」
脱力してその場に座り込んだ。典型的というか、古典的とも言えるレベルの世間知らずだった。こんなダメダメが王様なら、そりゃあ臣下に見捨てられて当然だわな。召喚魔術で使用人を呼ぼうという気持ちも、納得はできないけど理解はできてしまう。
「お主よ。……名前はなんというのじゃ?」
「あ? オレの名前か? 二之宮ナオトだ。ナオトが名前だよ」
「そうか。なあ、ナオトよ」
座り込むオレの目の前までナタリアはやってくる。澄んだルビーのような瞳が、今にも溢れそうな涙で潤んでいた。黄金のシルクの髪も乱れて、情けない姿だった。どれだけ美しい容姿であろうと、泣き出しそうな表情は醜い。見たくないものだ。
「助けてたも。妾は、一人では何もできないのじゃ」
「…………」
やめろ、情けない。と一蹴するのは簡単だったが、できなかった。あまりにも情けなかったから。
とはいえ、ここで手を差し伸べるほど、オレは偽善者になれない。貧乏生活が長すぎて、人を助けるためには金銭と時間に余裕がなければできないという現実を 知り過ぎた。骨身に沁みていると言ってもいい。しかし、同時にオレは、飢えていた。世間知らずになれるほど恵まれたナタリアの王様の生活に憧れていた。夢 に見て、泣いてしまうほどに。
ナタリアのためじゃない。金持ちになりたいという欲望のために、オレは提案をした。
「助けてもいい。しかし、条件がある」
赤い瞳は、無垢で子供のように穢れが無い。オレがどれだけ汚い人間なのか思い知らされる。ナタリアの瞳は見る者の心を映す鏡なのか。新しい発見だった。
「お前を助ける代わりにオレに権力を寄こせ。オレはあっちの世界じゃ貧乏だったんだ。だから、金持ちになりたい。貧乏のまま死にたくないんだ。そのために権力が欲しい。そうすれば、オレは自分の力で成り上がってみせるから」
「わかった。妾が魔王として君臨するかぎり、ナオトには妾の次に強い権力を授けよう。魔界のナンバー2じゃ。その代わり、妾が魔王であるかぎり、妾を支えてたも」
「ああ、わかった。約束する」
「ありがとう。ナオト。……妾はずっと寂しかったのじゃ」
儚く折れてしまいそうな華奢な少女が、オレの胸に抱きついてくる。それはとても強い力だった。彼女のどこからこんな力が出るのか不思議なほどに。こうして、世間知らずの魔王と貧乏高校生だった少年の間で、臣下の約束が交わされたのだった。