青い絵の具とスカートと
「何かを生み出したいって気持ちって、性欲に似てると思わない?」
彼女は全く僕の方を見ることなくそう問いかけてきた。制服の黒いスカートにはべっとりと青い絵の具が付いていた。
「ずっとここらへんでグルグル回り続けてる靄みたいなものを吐き出したくて仕方ない、でもどう形にしたらいいかわかんないんだよね。」
ここらへん、と言いながら彼女はこめかみの辺りをとんとんと叩いた。僕はなにも答えない。じっと彼女が次にする行動を見つめた。
「うーんでもそう考えると、性欲の方がマシかあ。セックスするなりAV見るなりすればいいわけだし。」
ビニールシートと新聞紙を敷き詰めた床が一歩踏み出すごとに、くしゃりと音を立ててつぶれる。ただ青い絵の具をぶちまけたような部屋にぽつりと彼女が座り込んでいる。ただそれだけなのに彼女の背中も部屋もすべて神聖なもので、一歩一歩彼女に近づくだけでなにかとてつもない罪を犯しているような気分だった。
「北村、描けないのか。」
彼女の後ろに立ち、そう声をかけた。んーそうだねえ、と呟きながら彼女はゆっくりと立ち上がった。爪の間まで青い絵の具で汚れていた。ぎゅっと足の指に力を入れながら伸びをして、その汚れた指先で目をこすった。
「目赤くなるぞ、やめとけよ」
振り返った北村は近づくのも躊躇われるような神聖さはどこかへ消えて、いつもの飄々とした女だった。しきりに擦り続ける彼女の手をやんわりと止めようとその手に触れると、顔を上げて僕の瞳を覗き込んできた。
「幸田には、どんな風に見えるの。」
「なにが」
「わたし、あなた、この部屋、全部。」
北村はいつも哲学的で時として面倒な変人だった。この時も僕は面倒だと思った。なにかきっと適当な返事をしたら、その程度の人間だと見限られるんだろう。いや、彼女はそもそも僕になんら期待もしていないだろう。彼女の望む答えを持っているのは彼女だけで、特別な贈り物をされた特別な人間だけなんだから。
「北村の言うことは難しくて答えらんない。」
僕の瞳を見上げ続ける彼女は、僕のあまりにも正直な答えにきょとんとした。
「北村が望む答えを僕は出せない」
僕にとってこの眼に映る世界はただ、瞳の虹彩がありのままの現実を映し出しているだけだ。彼女のようにその現実が彼女だけの世界になり得ることは僕には出来ないことだった。適当な嘘を言うよりも正直な答えを言う方が自分への慰めになる。
「僕は与えられなかった人間だから」
この数日間で駄目にしたであろう筆が僕のローファーのつま先に当たった。たまたま転がってきたのか、それともずっとそこに放りだされていたのかはわからない。このまま僕が見つけなかったらこのアトリエの片隅で、才能に愛された彼女に忘れられたまま、埃をかぶって眠り続けるんだ。
「やめた!」
床に転がる筆を緩慢な動作で拾い上げながら、動作とは裏腹な明るい彼女の声が響いた。
「何をやめんだよ」
「描くの。もう描かない。」
は?と、思わず口に出しそうになったが、彼女が一つの作品を完成させられないのはもはや毎度のことだった。決定的に彼女に足りないものは集中力と作品への情熱だ。いつでも常人には得手し難い想像力を持っているせいか、アイデアも作品も惜しみなく彼女は捨ててしまう。
「次は何描くんだよ」
拾い上げた絵筆の広がった毛先をいじる彼女は僕と目も合わせずに、もう描かないよー、と言った。
「もう描かないって、お前描くのやめるのか?」
「え、だから、うん。」
描くのをやめる?なぜ?北村の発言に疑問ばかりが頭の中から溢れ出る。そして同時に腹の底の方からじりじりと焼け付くような怒りがこの身を焦がしはじめていた。
「いい加減にしろよ」
荒れ狂う怒りの炎が僕の体を引っ掻き回すように身体中を駆け巡っている。
「え?」
「いい加減にしろって言ってんだよ!」
彼女の周りにある青い絵の具の入ったバケツをひったくった。そして力の限り部屋中にぶちまけた。まだ足りない。息を荒げながらそこら中にあるバケツをひっくり返していく。
「馬鹿かよお前。ほんとに、ありえねえよ。自分がどんだけ恵まれてんのかわかってんのかよ」
呆然と立ち尽くす彼女の足元にあるバケツを彼女に向かって蹴りあげた。膝にかかる黒いスカートの裾をわずかに汚しながら彼女の足元をぐっしょりと青く染めた。まだ、まだだ。床にぶちまけた青い絵の具がばしゃばしゃと音を立てて跳ねる。僕の制服のズボンを汚していく。絵の具の入ったバケツはもうすべて使ってしまった。これ以上青く染めることは出来ない。そうわかってはいた。でも、ムカついて仕方ない。自分の見えている世界を描けないと嘆く彼女が、ムカついてしょうがない。これほど芸術の神様に愛されているのにも関わらず、簡単にその才能を捨ててしまえる彼女がムカついて仕方ないんだ!
「幸田」
抑揚のない声で彼女に呼ばれた。彼女の声で僕の名前を呼ばれることにさえ嫌悪感を感じる反面、衝動に駆られて何をしてるんだ、と一歩引いた場所で僕自身が僕を咎めている。
「なんだよ」
抑えきれない怒りと嫉妬の滲んだ醜い声だ。彼女は絵の具で汚れきった僕の手をぎゅっと握った。途端に得体の知れない不快感が僕の手を伝って身体中に駆け巡った。
「やめろ」
本能的に彼女の手を振り払った。振り払われたにもかかわらず彼女はもう一度、より力強く僕の腕を掴んだ。
「ごめん、幸田本当にごめん」
レモンの匂い、そう、5月はレモン色の季節よね。青が好きだなあ、でも緑っぽい青の方が好きかも。あ、そう信号の色ね。よだれのついたわたあめって可愛いよね、なんでってキラキラしてるじゃん。埃が光に反射するときらきらするのと同じ。
初めてこのアトリエに彼女を呼んだ時の彼女の言葉が出てきては消えていった。5月がレモン色だとかわたあめが綺麗だとかそんなこと思ったこともなかった。だから、彼女は特別で才能があって、変なやつなんだって納得してた。美術室に眠る彼女の描きかけの絵を見たときに、どんなにコンクールで入賞して正確なデッサンが出来ても、この描きかけの絵には敵わないんだ、と苦しさを感じることもなくただ圧倒された。
「生まれたときからわたしたちには筆と絵の具とこの体しか与えられてないんだ」
指先の嫌悪感は徐々に無くなっていった。絵の具でカサついた指先から伝わるのはただの人肌の温もりだけだった。
「幸田は、わたしに才能があるって思ってる。でもそれは間違いだよ。わたしに神様が与えてくれたのは筆と絵の具とこの体だけ。幸田と一緒。」
「ちがう」
どうか、諦めさせてくれ。君がいるから僕は諦められるんだ。揺れる睫毛も筆を握る小さな手もありのままの現実を自分だけの世界に映す瞳も僕にはないほど特別なものなんだ。
「変わらないで。僕の前で、君が普通の女の子にならないで。」
北村がどんな表情をして、どんな気持ちでいるのかはわからない。情けないことに一気に昂った感情のまま涙がこみ上げてきた。冷静に僕を見つめるもう1人の僕が心底呆れている。
「幸田、わたしの世界を描いて。」
涙でぼやけた視界が彼女の手の甲によってクリアになった。ごめん、顔に絵の具ついたかも、と謝っている彼女がはっきりとこの目に映る。思わず、はあ、と間の抜けた吐息交じりの声が出た。何言ってるんだ、こいつ。
「幸田はもう絵を描かないって言ってた、わたしももう描かない。どうせ描かないなら最後に2人の作品を描こう。ううん、幸田に描いて欲しい、幸田ならわたしの見ている世界が描ける。」
北村の世界を描く、他人の描きたいという欲求を僕が代理人となって満たす。それも到底僕には理解できない特別な世界を描くなんてそんなこと不可能だ。それに、北村が言ったように描きたい欲求は本人が昇華させて初めて意味を持つ。北村の提案はまるで無意味なことに思えた。
「また僕に他人の才能を借りさせるのかよ」
父の才能を借りて描いた『母』。多くの人に評価され、北村もまた感動した作品。その事実が僕には他人の才能を借りることでしか他人に評価される作品を作ることはできないんだ、と致命的な欠陥をまざまざと思い知らせてくる。
「他人の才能を借りなきゃ描けないくらいなら、自分だけの足りない才能で陳腐な作品を描く。その方がよっぽど、惨めじゃない」
掴まれていた手を乱暴に振り払った。これ以上彼女と近づけば無意識のうちに溜め込んだ怒りや嫉妬をぶつけてしまいそうだった。彼女に背を向けて一歩離れようとすると、
「この自己チュー!!」
北村は精一杯背伸びをして僕のワイシャツの襟に掴みかかってきた。自己チューってお前なんて自己チューの最たるモンだろ。
「才能とか他人とか与えられたとか与えられてないとかそんなこと聞いてない!し言ってない!わたしはただ、幸田に描いてほしいから頼んでるの。描いてよ!」
睨みつけてくる北村は頰から目頭にかけてほんのりと赤くなっている。この顔を僕は知っている。でも、こんな顔をする北村は初めてだった。足りない背を補うために必死に背伸びをするつま先、力一杯僕の襟を掴む手、静江さんとは違う手入れのされていない眉は怒りで歪んでいて、頰は熱を帯びて蒸気している。遠くない、全然遠くないじゃないか。隣の席に座っているテニス部の女子と変わらない。今の僕の目に映る彼女は普通の15歳の北村育美なんだ。なにも言わない僕を置いてけぼりにして、彼女は続けざまにまた僕に言葉をぶつけた。
「たった1人でも他人から認められる人間には、それ相応の実力がある。たとえ認めない人がいても、認める人がどこかにいるならそこには価値があるの。あなたは、たくさんの人から認められている、わたしと違って。だから、あなたに描いてほしい。」
北村は真っ直ぐに僕の努力とちっぽけな才能を信じている。首の裏とか背中からじわじわ汗が滲んでくる。頰が熱を持って紅潮していくのがわかる。嬉しい、嬉しくて恥ずかしい。なんて単純なんだ、僕は。自分の才能を疑って、諦めさせてくれた北村に感謝していたはずなのに、まだ絵を描くことにしがみついている。無心で努力したあの日々を、知らないはずの北村が認めてくれているというその事実が嬉しくて仕方ない。
「ありがとう」
感謝以外にもいろんな気持ちが洪水のように溢れてきているけど、正直恥ずかしくて一言お礼を言うだけで精一杯だった。馬鹿みたいに大暴れしたかと思ったら泣き出してしまいには慰められる、はたから見なくても恥ずかしい。でも北村はちょっとズレてるせいなのか、はあい、と間延びした返事をしながら僕がその辺に放り投げたバケツを回収し始めていた。きっと僕が北村に感謝している理由も恥ずかしいと思っているのもいまいち理解できないんじゃないか。
「うわあ、床まで染みてる。こりゃ大変だー。」
そう言ったそばから絵の具ぬれの床に彼女は寝っ転がった。
「はぁ、冷たくて気持ちいい。パンツまで染みてそーだなー。」
気持ち良さそうな顔でこちらに手を振るが、僕は絶対にやらないからな。揺れる手を掴んで無理やりその体を起こした。
「北村って馬鹿なのかそうじゃないのかわかんないわ」
「うーん、ばかだよ」
少しだけ湿った夏の風が僕と彼女の間を通り抜けていった。僕と繋いでいない手にはまだ拾い上げた筆がしっかりと握られていた。
今書いてるお話の元ネタだけどこの場面無くなったのでもったいないから供養。お目汚し失礼しました。