弱さと強さは紙一重 01
私こと、桧山葉月は精神病者である。名前はたくさんある。
前書きなどという恐れ多いものを描くのには少々、大それた人ではないといけないと思う。つまり私が失礼ししている。
この物語には、私の人生の教訓、のようなものが多様に含まれているわけではあるが。
それを鑑賞するあなたたたちには不可解に感じる部分もある、のかもしれない。
ただ、一つだけ伝えたいことがある。これは、そのための物語なのだ。
最初に、失礼しておこう。これは、わたくしのためのモノガタリだ。
そもそも、失礼ながらお聞きしたい。あなたは生きるということに対してどういう哲学、を持っているのだろうか。
生きるということは思考するということだ。思考しないということは死んでいるということだ。哲学なき思考には命はなく、あなたの哲学はすべからく頭の違った狂った意見だ。
それがいい。
人間などという生き物はそうであるべきだ。一人一人の魂の指向性、あるべき方向性が大きくことなりすぎる。そんな、形の違う者共が。
そんな違う種族といっても差し支えのないものが、どういうわけか。
肉体の形が同じというわけだけで、同じ種族だ、と。
ありようの異なりすぎる存在を認めているなどと、滑稽に過ぎるとは思いませんか。
すべては幻です。
人は自由すぎるがゆえに不自由なのだから。その存在の自在性ゆえに自らを見失う。
そんな滑稽な存在なのですから、見えているものなど、滑稽なのです。そうあるべきなのです。
一瞬の瞬きの世界に、心動かされたり、それがすべてだと思い込む。
そうして死んでいく。其の程度のものです。
そんな存在のお話はこれまでいくつも出尽くしていますが。
その中に、この幻のような虚偽のような身の映し出す言の葉も、存在くらいはしていいでしょう。
そんな戯言に、脳を映してくださる方がいるのならば、これまた。
行幸の至り―――。
幕は上がります。これは魂を打ち砕かれた人間の話。
既に”かーてんこおる”は、過ぎたはずの舞台の袖で。
何者かが卑屈に笑う。
そんな、大それたお話でございます。
それでは、「精神病者の言霊」
はじまり、はじまり。
勝つか負けるかしかないのだよ。そもそも。
僕は、自分の負け切った答案用紙を手にそんなことを思う。
いや、正確にいえば彼だったらそんなことを思うのだろうな、となんとなく思っただけだ。実際には彼は出てきてはいない。僕は僕のままで、何事も無かったのかのように中間試験の解答用紙を受け取った。
「なになに!正太郎ってばまた!!また!!!!平均点じゃん!」
隣で冴子がうるさく茶化す。もう、そういうのが僕は嫌いなのに。…知ってるくせに、そういうことするのって、性格悪いっていうんじゃないの?
「うるさいよ…。いいジャン別に。山野辺高校目標の冴子様とは違うんだからさ」
「そりゃ、あたしとは天と地の差でしょ、正太郎ごときが当たり前すぎ」
そういう自信はどこから来るのか。城島冴子は颯爽と髪を振り乱しながら、僕を見下してきた。
「あんたはせいぜい…南高ってとこでしょー!」
「…知ってるよ」
クラスの半分へ聞こえるくらいの大声でわざわざ口にする。この女が僕は嫌いだ。
この女は、僕のいわゆる幼なじみという呪いだ。悲しいことながら保育園児の頃からこの意味不明の自信を食らっている。
始末が悪いことに、この女。その自信に見合うだけの実力があるのだ。現状は、クラスどこらか。学年主席、全国模試トップクラスの世界を走り続けている。そんな才女がだ。どうして僕のような壊れかけにかまうのか。
「今回のテストはどうだったんだみんな?それぞれ思うところはあると思うが、自分の目標を…」
結果なんて知っているだろうに、白々しいことを言う。担任の教師が語る”帰りの会”はあんたの自尊心を満たすためのものだろう。自分は何かをしているんだって。無意味にここにいるわけじゃないんだって。
そんな風にしか世界を見れなくなってしまったのは、いつからだったのだろうか。多分、中二病とかいうのが抜けきっていないのかもしれない。
でも、漠然とした予感はある。彼らは中二病なんて言葉じゃ消えてくれない存在なんだって。
帰り道、バス停。
街、と呼んでも差し支えのない程度の片田舎。その中にそびえ立つ僕らの中学校。通学はバス。よっていつも僕は寄り道せずに急いで帰る。部活だって特にやってないし。一緒に遊びに行くほど仲のいい友達だってそういないから。
そんな僕に向かって、スポーツマン染みた男が近づいてくる。制服は僕と異なっている。その雰囲気から高校生のように伺えた。
「おっ。正太郎君じゃあない」
気さくな空気を漂わせながら、挨拶がてら僕の肩に拳を軽く当ててくる。いつもの挨拶なんだ。これは彼と彼の。
「…ああ、和樹か。お前らも学校早いんだな、今日」
「相変わらず礼儀の何たるかを微塵も知らない中学生だなお前は!」
大してこっちの言葉遣いなんて気にしてねえ癖にいちいちうるさい奴だ。まぁ、こういう奴じゃなきゃ俺だっていちいちつるんだりしたくねえし、するわけがねえ。
「うるせえよ。そんなことより、この辺ぶらついてる位ならアナグラへ行こうぜ」
「話分かるねーさすがの正太郎」
「はぁ?どういうことだよ、それ」
「俺たちは親友っってことで!」
暑苦しいことを言いながら、肩を組もうとじゃれついてくる高校生二年生。それをうざったがりながらも受け入れながら、彼らはいつもの場所へと向かっていく。
チリンチリン~♪
喫茶店”アナグラ”の扉が涼やかな音を上げる。夏休み中は学生で一杯であったここも、その終わりとともに少しばかり静けさを取り戻したところであった。
穏やかな昼下がり。この時間帯に店にいるのは大抵、ちょっと時間を外した人ばかり。今日のところは、テストへ向けて対策をしている意識高い系オシャレ高校生が何人か。
「サ店と言えばアイスコーヒーだろアイス」
そんな涼やかな場所へ、外の熱気を持ち込むが如く。二名の不良児が足を踏み入れる。
「…まぁ、俺は別に人の趣味をとやかく言いたくはないが」
そういってじっとりした目線を山本和樹へ向ける。
「………。フッ」
「おいこらてめえ、その笑いはどういう意味だおいこら」
和樹にこれ以上うるさいことを言われる前に、そそくさと奥の席へ向かう。さすがの彼も空気を読めない系男子ではないので店内の雰囲気に合わせるだろう、と画策してだ。
いつもの席と言っても過言ではない。店内に入ってカウンター席の向かいの四人掛けの席の一つへ腰を掛ける。どうも、カウンター席はもちろんのこと、この場所もマスターと顔を合わせてしまうため、あまり人気がない。だからこそ、いつも彼らの特等席と化しているのであった。
「ミルクティー」
「俺は冷コー」
本当に喫茶店の主人なのかを疑うほどの強靭な肉体を持つマスターは寡黙に頷くと、自分の仕事に取り掛かった。この常連客が注文するものは、固定なので慣れた仕事だ。
「お前ほんっとうにミルクティー好きだな。このクッソ暑い中、ホットでミルクティー頼むとか頭乳化してるんじゃねえのか?」
「…ミルクティーにアイスなんて存在しねえんだよ」
「ねぇ、何?もう一回言ってくんないかしら?キザ野郎」
「………」
「………」
「ミルクティーにアイスなんて存在しねえんd」
「ばっっっかじゃないのーーーー!!!あるに決まってるじゃない!!!」
店内に響き渡る嬌声。思わず人の目を集めてしまいそうだが、ここのお客様たちはそれなりにこの事態に慣れている。
「沙耶ちゃんお疲れ様。あ、冷コー俺の俺の」
「はい、どうぞ!アイスコーラ!!私、冷コーって言い方嫌いだって言ってるじゃないの!」
「ごめんごめん、気を付けるよ、次からさ!」
スポーツマンが超絶爽やかな笑みと共に、店員少女に語り掛けるも、
「あんたいっつもおんなじことばっかじゃないのー!!」
そう言うと、この店唯一の小学生バイト戦士、寺山沙耶はミルクティーを大雑把に置くと。控えめに言って「ドカン」と音を立てて正太郎の前に置くと、さっさと仕事に戻っていった。
「はっはー、しかし働き者だねー沙耶ちゃんは。小学生なのにお店のお手伝いって頭が下がるよなぁーってホントにコーラじゃねえかこれ!?」
和樹の「えー!?またなの!?」という騒乱ぶりとは逆に、正太郎は静かにミルクティーを口にし、
「…やっぱり……………うめぇ…………」
静かなため息とともに、呟いていた。
「なぁ、悪魔ってしってるか?」
ミルクティーを十二分に堪能しきった男に、二度と彼女の前で冷コーという呪文を口にしないと心に決めた男が質問した。
「はぁ?そこの小学生のことか?」
いつの間にか隣で茶を啜っている沙耶に対して、正太郎が皮肉をかます。が、今度はそれに取り合わず冷静な様子でミルクティー(アイス)を口に含んだ。
「違うって。ほら、最近の噂話だよ。聞いてねえか?山野辺町深夜徘徊の悪魔伝説!」
「伝説って?」
キザ男が食いついた事に好印象だったのか。大仰な身振りでスポーツマンが説明を始めた。
「それが一週間くらい前の話なんだけどよ。うちの学校の毛並みの悪い連中がその悪魔ってのにあったらしいんだよ」
「おい、随分歴史の浅い伝説じゃねーか」
「沙耶も知ってるー」
話の腰を折るようにそれだけ口にすると、小学生バイト戦士は聞こえるように冷やしミルクティーを啜る。
なんとも言えない空気の中、さっさと仕事に戻りやがれと祈りながら正太郎は話を続けていく。
「………。で?早く伝説の続き」
「そいつら、確かサッカー部の連中なんだけどよ。同じスポーツマンとしては悲しいことなんだけど、あいつら球蹴るよりも遊んでいるほうが向いている奴らみたいでさ。よくこの辺うろついてロクでもないことしてんだよ。まーありがちな奴らだったんだけどよ。そんな奴らでもだ、さすがに行方不明者と来ると同情でもしちまうってもんだ」
「なんでそれが悪魔なんて胡散臭い話に繋がるんだっての」
声を潜めながら、和樹は続けた。
「それがよ。サッカー部員全員が行方不明になったって訳でもないんだ、これが。大体、半数位が一夜を境にいなくなったまったらしいんだけどよ。その、残った奴らが言うには行方不明なんかじゃないっていうんだ」
「…」
「そいつら曰く、”悪魔に食われちまった”んだと………」
「………で?」
沈黙を止めるように正太郎が質問を投げた。
「それでおっしまい。噂だからあとは知らねーよって」
「ふーん、分かっちゃいたけどクッソつっまんねー話だな」
「沙耶もつまんなかったけど、ミルクティーはもう少し年上への言い方あるんじゃないの?」
休憩を終えるところなのか、自分の飲んでいた食器を片付けながら立ち上がる沙耶。壮絶なブーメランがいま飛んで行って帰ってきていることに気が付いているのだろうか。
二人はあえてそこには言及せず、曖昧な笑顔のまま会話のドッジボールを続けた。
午後とも呼べない時間になってきた所で、いつもの三人の談話は終わりを迎えた。彼ら二人が来たときはマスターも特別に休憩をくれるのだ。なんとも言えない凸凹トリオたちの無駄話はこの喫茶店の名物だった。
「じゃーな、マスター。今日もうまかったよ。ごちそうさん」
寡黙な主人はちらりと正太郎を一瞥だけして頷くともうそれ以降は興味は示さない様子だった。
「あいっかわらず、よくあのおっさんにそんな口聞けるなお前…」
店の扉から出て、茜色の世界に飛び出る。冷房の効いていた世界からすると灼熱の地獄と表現できる世界へのトリップ。扉一枚隔てているだけでこれだけの違いがあるのかと驚く。
「くー、あっちいなぁ」
和樹のそんなありきたりな声を聞きながら、正太郎は少しばかり不穏な。より正確に言うとかなり不安な気持ちで一杯だった。なぜならば、
「…ちっ、随分とあいつ好みの話じゃねえかよ」
「あん?なんか言ったか中学生?」
「なんでもねえよ」
そう言い残すと、高校生のことは意識の外にでも行ってしまったのか。ズカズカと自分の帰路へと向かっていく。貫徹して無礼な男だった。
「ありゃりゃ、こりゃどうしたもんかね」
そんな男の性質をよく知っているのか。飄々とした男も大して気にすることなく自分の道を歩き出した。
同日。時間は深夜だといってもいいだろう。丑三つ時、という言葉が非常にふさわしい。
公共交通機関はもちろん、会社の帰りの人間もこの通りには見当たらない。駅を含む中心街から遠いのだ。住宅街にはぱっと見たところ何もいない。時々、数件の家から明かりが消えるか、点くか。その程度の刺激しかない。
そんな夜の世界を自転車が一台、キコキコと音を立てて歩いていく。その風貌はボロっちいとしか表現することができない。どこから探してきたのだろうか、テレビの中でしか見たことのないような古い型の自転車の上に男が一人。
不気味な風体だ。錆び切った自転車も不気味といえば不気味なのだが、その男と比べればまだましであった。これまた時代遅れの学生帽子に、着流しの和服。時代錯誤が見逃し三振合体したような存在である。
深夜帯にこんな化け物にあったら、どんな人間でもぎょっとするだろう。
「ふふ、ふ…」
男、いや、よくみると少年だ。少年はポツンと道の端にある街灯をながめつつ薄く笑う。その笑いにタイミングを合わせるように、その街灯が、ジジジっと音を立てながら明幻する。
キコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコ。
キコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコ。
キコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコキコ、キキィ、ガシャン。
「…つきましたね」
万感の思いでも込めるかのように、桧山葉月は呟いた。
一見すると、不審者だ。
いや、一見するまでもなく不審者だ。間違いはない。チラ見だろうが透き見だろうが、一目見たら不審者以外の何かには見えない。
そんな少年が、深夜の街をひたひたと警備して回っていた。
いや、警備という文字は間違いかもしれない。正確に言えば彼は、ここに探し物をしに来ただけなのだ。いつものように。
お気に入りの自転車を見つけた時と同じ。自分が楽しそうだな、と思ったことに対してルンルンと思い切って飛び込んでいく。ただそれだけのことのはずだ。悲しいかな、それだけの純粋な思いは非常に不純で怪しい。
中心街といっても、事実、大したことはない。地方都市の”町”という言葉は大きいようで小さい。同時に小さいようで大きい。東京等の都会出身者からしたら大したことはないかもしれないが、田舎者からしたら大きいのである。
大して広くはないが、きちんと区画された町中を不審者が一人歩く。街灯が多いため、視界には全く困らない。だというのに、不思議なことに、いつもなら何人かたむろしているハズの社会ドロッパーたちの影も見えない。音もだ。
「これはいよいよ、本当染みてきましたね…ふふふ」
交差点だらけの街を何度か曲がった所で、薄く口に出す。興奮を自ら高めていくように。
彼が、自分の楽しみを追っている時の表情だ。本当に、生きていてよかったと実感している顔だ。生きているという顔だ。
「悪魔騒ぎだなんて、ひょっとすると、程度に思っていましたけれど。これは、なかなか」
言いかけて足を止める。耳を澄まして彼はもう一度確認した。彼が足を止めたその理由を確認するために。
「…、音。ですね」
先ほどまでは音がなかったのだ。深夜帯とはいえ、誰かしらいるものだ。それを彼は月に一度の真夜中探検で知っている。だが、今日はおかしかった。悪魔伝説の噂の影響で、人が出てこないのかとも想像した。しかし、それは違うはずだ。
人間は、存在することに”飽きている”。そのため、その空腹を埋めるために、様々なことに取り掛かり、取り掛かったふりをする。そうして何とか存在している人間が、このような美味そうな餌に釣られぬわけがないのだ。
彼の頭の中ではそんな思考が飛び交っている。しかし、どうも彼は虫のしらせの様な第六感染みたものも感じていた。
”どうも、何かが起こってくれたようだ。”
そんな予感染みた想像が頭を駆け抜けたのは、悪魔の噂を聞いたとき。
それが確信に変わったのはこの街に足を踏み入れた時。
それが足音をたてて追いかけてきてくれているのは、今だ。
「…ぁ…ハァ…っそだ…っけん…」
遠くから足音と声が聞こえる。無言の街に響く初めての音場。
「焦り、恐怖。そんなところですね」
呟きながら自らのボルテージが上がっていくのを感じる。
そうして、自らの学生帽の位置を正すと、飄々として音に向かって歩き出した。
なんかおかしいな。今日はそんな日だった。
朝、家のババアが俺の茶碗を割った。
遅刻しそうだったから急いで靴紐結んだら切れた。
登校中、自転車のサドルが折れた。
遅刻した。
いつもの抜け道から入ったらバッタリ、体育教師に見つかった。
そんなちょっとしたことがずっとずっと続いた日だった。だから、正直迷ってたんだ。カナコが夜の魔物の噂を確かめに行こうって話をしたとき。
いつもの俺だったら何も思わなかった。答えに困って少し返答に遅れたりしなかった。そのせいでヨシキに馬鹿にされたりもしなかった。いいところ見せるつもりで、もしかしたらカナコといい展開になるんじゃないかなんて甘い希望を持っていたかもしれない。
いつもの俺だったら何も感じなかった。ちょっと夜が静かすぎるとか。街に誰もいなさすぎるとか。街であった奴らが皆、魔物の噂を確かめに来ている奴らだったとか。ちょっとした違和感に気が付かなかった。
いつもの俺だったらあのまま一歩踏み込んでいた。ヨシキが消えて。その後、ソウジも食われた。多分、カナコも無理だったと思う。裏路地に一瞬ちらついた、影の中に。
…………………………………。思うじゃ、ない。俺は、見た。みて、しまった。
”ぽとん”
靴と一緒に、右足のかかとからした位までだった。
綺麗だった。俺の初恋の人の右足。
そこからはもう、弾かれたように駆け出した。何も考えない。心は凍てついたように静かなのに、口からは火のような言葉が飛び交っている。さっきまでけっこう人、いたような気がしたのにな。なんでだろ。俺の声、なんでこんなに街に響くんだろ。なんで誰も、俺のことに気が付かねえんだろ。
「…はぁ!はぁ!はぁ!!嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…!ごほっ!おぇ…」
走りつかれて足を止めた。止めちゃいけないのはわかってる。普段から鍛えているハズなのに、思ったよりも全然進めてない。早く、速くこの街から逃げないと。
そう思い、顔を上げた。
そこには、珍妙怪奇な男がいた。
「やぁ、今晩は」
走ってきた男はひどく狼狽していた。年の頃は私よりも上に見えた。挨拶をしたというのに、非常に物珍しい者を見ているような視線を飛ばしてきた。しかし、すぐに自分の状況を思い直したのか、
「逃、げろ!…やばい!死ぬ!!」
と、だけ述べた。口調は息が枯れているのか喉が枯れているのか、先ほどまでの力強さはもう無い。何か怯えるような視線。
息を直したのか、自分の意思が伝わらなかったことが分かると一目散に、街の外へ走り出した。ここからならあと二百メートルほど走れば街の外だ。
その時。何か黒いものが飛んできた。
黒いものだったので、黒いものだとしか表現する言葉を持たないが、とにかく黒いものだった。人間には見えない。というか、あれほど大きな人間をいまだかつて私は見たことがない。
それは、三メートル程の体を飛沫の様に飛ばしながらこちらへ段々とすり寄ってきた。アーケード街の屋根の下を影に紛れながら飛んでくる。驚く程重さが感じられないその姿は、この世のものとは思えない。
それは、うねる様にこちらへ傾くと――にやり、と。確かに笑った。
「………」
常人ならば、寒気のする視線を受けて、彼もまた――にやり、と笑った。
その笑いが引き金だったのだろう。その黒いものが、葉月を捉え食らおうと飛沫を飛ばして近づいてきた。
しかし、着流しの少年はその飛沫を後方へ飛ぶ事で避ける。なんてことはない常人の動きである。
「面白い実に面白い!!」
喜色満面という表情で少年は影の観察を始めた。
それを意に介することも無く、黒いものは食事を続行する。
「速度は私でも対応できる程度。だが、この影の本領はその質量と範囲。見れば、体の質量内であるのならばその形を大きく変異させることが可能な様子。これほど接触にこだわっていることから見て、それが必殺の手段であるように見える」
一閃、二飛沫。緩急をつけて少年に肉薄する影は、ごねごねと何か呻いているようである。その姿はまるで、予想外の出来事に困惑しているかのようであった。
「食われたという表現を聞くに、口でもあるのかと思ったぞ!悪魔よ!」
口にしながら、街の環境整備のために配置されているゴミ箱を思いきり蹴とばす。円柱状のそれは勢いよくゴロゴロと転がっていき、影にゴクリと飲み込まれた。
その瞬間、一瞬だけ悪魔の動きが止まる。その後、何事も無かったように、餌を食らうために再起動を始める。
「………面白い仮説だ」
それをじっくりと観察していた男は、何を思いついたのか。今までは、回避、観察のために対峙していた。その姿勢を崩し、後ろに向けて街道を走り始めた。
微笑と呼ぶには少し五月蠅い音を発しながら、黒い飛沫を避けつ超えつつ、先ほどと同じ手を繰り返していく。ひたすらにゴミ箱を黒い水たまりのようなそれに投げ入れていく。
黒い影は単純な動きしかできないようで、じっくり解析した男にとっては回避することは容易な様子だ。飛沫が何度か飛んだ後に、ゴロゴロゴロゴロとゴミ缶が影に飲み込まれていく。
一通り、目に入るゴミ箱を影に投げ入れ切った時である。黒に変化が現れた。ぴたりと動きをやめると、霞のような靄のようなモノを出しながら、段々と薄れていく。それはちょうど消え行っている様子に見えた。
しばらく、その様子を眺めていると、どうやら完全に消えてしまったのだろうか。その靄のような物も見えなくなってしまった。
「…ふむ、これは当たりというやつかな?…しかし、答え合わせがほしいところだ」
呟くように言った葉月の言葉に答えるように、グゥ~、という気の抜けた腹の音が背後から聞こえた。
その腹の音に合わせているのだろうか。乾いたパチパチパチという音も聞こえてくる。
「すごいすごいすごいやすごいじゃないかぁ…君」
その声に葉月は振り返る。そこに立っていたのは、一人の痩身の男。街路の隅のちょうど、街灯が届きそうで届かない場所にそいつはいた。故にその表情、顔は推察することはできない。しかし、男が燕尾服のような少し奇妙な服装をしていることには気が付けた。
その男は葉月の返答は待たずに続ける。恐らく会話の意思はないのであろう。
「僕の陰魔をやっつけるなんて、君、おいしそうだね?」
その言葉に何かしらの危機感を覚えたのだろう。葉月はその男から二メートル程、思わず引き下がった。
「…陰魔、というのがアレの名前なのか?」
一瞬、このまま離脱しようかと逡巡したが、興味という大きすぎる感情が彼の舌根を動かした。
「そう、陰魔。僕の空腹ともいえるかもしれないね。あぁ、僕はいつも腹ペコなんだよ、ついでに言っておくとね。あぁ、でも君、多分陰術についての知識なんてないよね?ついでに言っておくと、もし僕の仲間だったなら見逃してくれないかな?」
余裕を匂わせながらそうまくし立てていく。
「何か勘違いしているようなので、言っておこう。私はただ、自らを守るために行動したに過ぎない。君が何をしようが私には関係ないさ。しかし、興味が尽きない。その、陰術とは何のことだ?教えてくれないだろうか」
葉月は、涎を滴らせるように質問した。
どうやら、この男は何かを知っている。久しぶりに最高に面白い夜である。これを逃すなどもったいないもったいない。
「くぅうははは!なぁんだ!君も僕たちの仲間なのか!いいよ、教えてあげるよ。アレはね…、」
瞬間。スッ、と。何かが通り過ぎるような気配がした。
気のせいだったように感じた。だが、それは気のせいではなかった。その証拠に
「…ぃ、いだいいいぃい!!!」
先ほどまで余裕しゃくしゃくだった男が急に悲鳴を上げて叫び始めた。
何事かと男の方を警戒する。取り乱し、街路にその姿を晒した男は、はてさて、その両腕が綺麗にそぎ落とされていた。
もはや、そういう彫刻のようにも見える切り口。しかし、それを認識した瞬間、溢れんばかりの血脈が噴水となって解き放たれる。
「な、なぁに、これ、なんで、ああそうか、やっぱりあれあいつらだったのか、ああもう、あああああ、、、
おなか、すいた…」
バタリ、と。音を立てて男は倒れた。解釈も理解もまったく追いつかない。どういうわけか、男の両腕が綺麗に吹っ飛び、男が死んだ。それだけのことなのだが、説明を吹き飛ばされたこの状況はまるで不可解で、さも男がまだ生きているのではないのかという気さえした。
そういうわけで、葉月は男の死体に近づいてみる。顔は物凄い表情である。これぞ、苦悶という体だ。光の下であるので、気が付けたのだが、男の髪の毛は真っ白であった。肉体を見てみるにそれほどの年に見えない。そのことが一層この死体を不気味にさせていた。
「…それにしても。臭うものだな、人間の死体というものは」
初めて死人を視認した感想はつまらないものだった。自分のことながら、もう少し気の利いたことが言えればいいのに、と葉月は残念に思う。
その反応は、客観的にみると酷く不気味で異様だった。少なくとも常人には相応しくないものであり、この場面に随分と相応しい様子であった。
「警告する」
そんな少年に対して、声が飛んだ。深夜の闇の中、どこから話しているのか。あらゆる場所から音を反響させているような音である。声色は女のものだ。
「貴方がここにいた経緯は知らないし、聞かない。今日聞いたことは忘れろ。今日見たことは見ていないことにしろ。今日感じたことは捨て置け。全てが貴方が知る必要のないことであり、いずれは消えていくだけの些末な面倒ごとでしかない。ゆえに忘れろ。もし、こちら側へ踏み込んできた場合、あなたをそこの男と同じように殺す」
その言葉が嘘や只の脅しでないことは男の死体が物語っている。いや、本当に死んだのだろうか。よく見ているとたまにぴくぴくとその筋肉が収縮を起こしているのが見て取れる。
「これは、あなたのためだ。忘れるな」
そういうと、声は気配を消した。どこかへ去ってしまった様子である。不思議と、今日の夜を埋め尽くしていた妙な圧迫感も感じなくなっていた。
「…陰術」
ぽつりと、現実に帰ってきた狂人は呟く。
「……まったくもって、この世の中は面白い」
顔に張り付いた笑みをみるに、この男の意思は明白であった。こいつは、純粋に思うまま好奇心を満たすためだけに生きているのだ。