2・四月七日(金)~高校生2日目~
◇
朝六時起床。
トレーナーに着替えて、十五分かけてストレッチ。
約十二キロのジョギング。
縄跳びと身体をほぐす程度の筋トレ。
とくに身体を鍛えてるわけでも、健康のためってわけでもない。犬が散歩するようなものだ。
部屋に戻ると、食パンをトースターに放り込んで、コーヒーメーカーをセット。
その間にシャワー。少し熱めの湯と冷水を交互に浴びる。わずかに残っていた睡魔を追い出す。身体の細胞一つ一つが弾けるように目を覚ましていく。
シャワーを止め、バスタオルで身体を拭いながら、今日のトーストにはブルーベリージャムとバターどちらにしようかなどと考える。
着替えをして、キッチンに戻る。
そうだ、ベーコンエッグでもつくろうか――
「おはよう、竜さん」
…………。
………………。
笑顔の美女。
テーブルの上に並べられた数々の料理。
厚切りにされたベーコン。タマゴひとパック分はあるオムレツ。中に見える緑色はほうれん草だろうか。匂いからチーズも入っているようだ。さらに、チキンの炙り焼き。山のように盛られたシーザーサラダ。あさりの酒蒸し。八宝菜。トマトとモッツァレラチーズのスライス。豚の角煮。風呂吹き大根。イカリングのフライ。鯵の塩焼きなどなど……。
三日前に買いだめした食材。一週間分の食材。
おそらく冷蔵庫の中はカラッポだろう。
「あかんやん。日本人の朝飯は、米と味噌汁やで」
そう言いながら、金髪女は冗談のような山盛り飯と豆腐の味噌汁とテーブルの上に置いた。
俺は事態の把握ができないまま、呆然としており、何のリアクションもできないままでいる。
人間、いきなり非日常な光景が目の前にあると、何もできないものだ。俺はまさに今、それを痛感している。
しかし、脳は急速回転。昨日の出来事と今の出来事をつなぎ合わせる。
ふむ。なるほど。そういうことか。いや、しかし――
納得しかけて思いとどまる。
「なんだ、これは?」
訊きたいこと、言いたいことは次々とあるが、まずはここからだ。
「何って、朝飯やん。あかんよ、日本人がパンとコーヒーを朝飯にするなんて。そんなふうに西洋人かぶれするから、軟弱な国民性になってまうねん」
「パン党でもマトモな奴もいるし、米党でも腐った奴はいる。そうじゃなくて、この料理――」
「料理? 美味しそうやろ。ええ匂いもしてるしな。けど、見た目だけと違うで。まあ、食べてみぃ。頬が落ちる、舌がとろけるとはこういうこと言うんかって感激するで。それとも何や、嫌いなもんでもあるん? あかんで、好き嫌いは」
「好き嫌いはない。そうじゃなくて――」
「それは、ええことや。ほな、早う座り。温かいうちに食べへんと、せっかくの料理が二割減や」
人の話を聞かないまま、金髪女は俺の肩を押して、イスに座らせる。
「はい、お箸。そしたら、食べよか。いただきます」
手を合わせ、丁寧にお辞儀をして、金髪女は自分でつくった料理を食べ始めた。
小気味いいほどの食欲で、あれだけあった料理が見る見る減っていく。俺はまた呆気に取られて、料理に箸をつけるどころではない。
なんだなんだ、この女は。
昨日見た上品さが一瞬の幻だったことは、もう分かっているが、あまりにもギャップがありすぎだろう。
金色の雨のような艶かな髪を乱暴に結い上げ、飯や料理を大口開けてかっ喰らっている。着ているものは、昨日のような豪華な着物ではないが、それでも光沢のある茶色の着物(それが大島紬という伝統工芸品だとは、俺が知るはずがない)だ。着物は胸がない方がキレイに着れるということを聞いたことがあるが、確かにこの胸なら着崩れてしまっても無理はない……と、思わないでもないが、それでも肩が丸出しになるほど着崩れるものなのだろうか。
「なんや竜さん、食べへんの? 遠慮せんで、ええで。まあ、言うても、もとは竜さんトコの材料やけどな」
あははと笑いながら、ほうれん草のソテーを口に運ぶ。
機先を制され過ぎて、次の言葉が出てこない。俺はみっともなく金魚のように口をパクパクするだけだった。
仕方がない。今は我慢しよう。まずは食事だ。
俺は憮然としたまま、茶碗をもち、テーブルの上に並んだ料理に箸をつける。
ふん、豚の角煮か。
――――っっっ!
こ、これは――うっっっっ……うまいっ!
なんだ、これ?
歯を使わなくても、上唇で噛み切れるような柔らかさ。それでいて損ねていない弾力と噛み応え。肉の旨味、甘味。唾液が口の中であふれる。飲み込むのが惜しい。しかし、噛むことをやめられない。下の上で肉が溶けていく。飲み込む。鼻から抜けていく余韻。
オムレツ。タマゴとはこんなに力強い味わいのあるものだったのか。
あさりをひと噛みするごとに海の優しさを感じる。スーパーの売れ残りになっていた鶏肉がこれほどまでに豊穣さを醸し出すものなのか。こんな風呂吹き大根、超一流の割烹料亭でも出てこないに違いない。天ぷらは中の具だけでなく、コロモと油まで美味い。チーズにこんな香りとコクを感じたのは初めてだ。頬が落ちるなんてもんじゃない。下あごの感覚がない。次で飯は何杯めだ? 満腹中枢がおかしくなってんじゃないか。別に構わない。海の恵み。大地の恵み。生きとし生けるもの、万歳!
……我に返ったのは、あれほどの量を見事完食した後だった。
「いやあ、ええ喰いっぷりやったなあ。さすが竜さんや」
食後のほうじ茶をテーブルの上に置きながら、金髪女が笑う。
我を忘れてしまった悔しさと恥ずかしさを隠すように、俺は目の前に置かれた湯呑みを手にとって、ほうじ茶をすする。馨しくて、甘くて、やっぱりこれも美味い。
しかし、おかげで落ち着いた。
「ありがとう。美味かった。ごちそうさま」
「いえいえ、おそまつさまでした」
「それで、いつまでいるつもりだ?」
「ん? いつまでって。言うたやん、うちの気が済むまでやって」
「恩返しなら、この飯と掃除をしてもらっただけで充分だ」
「あかん、あかん。こんなん恩返しをしたうちに入らへん。この程度のことやったら百年やっても、まだ足らへんわ」
「しかしだな……」
「気にせんでええって。掃除洗濯炊事は得意分野や。何やったら夜のお世話もするで」
「……ん、いや、それは……」
興味なくはないが、それはダメだろう。思わず赤面してしまい、視線をそらす。
くつくつと忍び笑いをする金髪女。からかってやがる。しかし、すぐには顔を見れない。悩ましげな首筋から肩のラインに目がいってしまいそうになるからだ。
壁の白さがまぶしい。得意分野というだけあって、壁だけでなく、天井や床までピカピカに磨きあげられていて、築十七年のマンションがまるで新築リフォームしたようにさえ思える。確認するまでもなく、チリひとつ落ちていないだろう。鬼姑をもってしても、指先を汚すことはできないに違いない。
「ほんでさ、竜さん」
「……ほんでさ?」
何語だ? 掛け声か?
「ああ、え~~っと……それでさ、竜さん」
「そういう意味か。何だ?」
「ちょう頼みごとあるんやけど、ええかな?」
「超頼みごと? どんなすごいことを言うつもりだ」
「その超やなくて、『ちょっと』って意味。なんや、関西弁バカにしとるん?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
そういうわけではないが、しかし仕方がないじゃないか。生の関西弁なんて聞いたことがない。テレビでお笑い芸人が話すのを聞くことはあるが、それと目の前で聞くのとはまったく違う。しかも、けっこうな早口。なんとなくのニュアンスで分かっているつもりではいるが、正しく理解しているかどうかは自信がない。
だいたい昨日だってそうだ。
この女がここでこうしている理由。
……恩返し……ねえ……。
とにかくそのキーワードだけは理解できたが、それ以外はよく分かっていない。
あいづちを打つのが精一杯で、質問を差し挟むどころではない。脳で考えるよりも、聞き取る方に意識を向けなければいけなかった。
だから、いろいろおかしなことを言ってたが、それすらもウヤムヤになって、いつの間にか、この女がこの部屋にいることになってしまった。
何度思い返しても、納得も理解もできていない。
印象的ではあった。
一分の隙も感じさせない優雅さと繊細さに満ちた正座と、見る者に緊張を強いらせる抜き身の真剣のようなお辞儀。それでいて声は聞く者に安らぎと至福を与える天上の鐘。
ただそれだけで、心のすべてを奪われてもおかしくないほどだった。
目の前で起こっていることが理解できない。そんな状態だった。
そんな思考が追いついてこないところへ、梨鈴のドロップキックを喰らって大転倒。マウントポジションをとられ、ワケのわからないことを叫ばれながらボコられた。
「これはどういうことだい、リュートちゃん? 何なんだい、この淫猥で淫靡な雰囲気の女は。どこの遊女だい? どこのお姫様なんだい? どこで拾ったんだい? どこから攫ってきたんだい? 一人でオトナの階段を昇っちゃったってかい。それはおめでとう。ふん、悔しくなんてないよ。ご主人様だって? メイド萌えとは知らなかったよ。しかも、和装ってところがシブいね。外国人に着物きせてオタノシミってかい。リュートちゃんがそういう趣味だとは思わなかったよ。なんだい、はだけちゃってるじゃないか。そこがいいってかい。僕より胸がデカいなんて屈辱だよ。ミカちゃんならショック死だよ。あんなマスクメロンみたいな胸に挟まれて窒息死するのが男の夢なんだろ? 毎晩ポヨポヨでパフパフでタユンタユンで、寝不足だってかい? 『優しい人間』になる前に『やらしい人間』になっちまったって? 笑えないよ、この野郎」
うん、本当に笑えない。小柄なくせに梨鈴のパンチは一発一発が重い。このままでは殴り殺されてしまう。
そう覚悟したときに聞こえてきたバカ笑いと関西弁。
「くっっくっくっくくくく……くぅわはははははははははは。おもろいなあ、あんたら。あんまり笑わさんといてや」
正座をくずして胡坐をかく。
「違うねん、違うねん。うちとご主人様とは、まだそんな仲やないねん」
「まだ……?」
「そんな睨まんといてえや。そこは聞き流してええとこやで。それよりご主人様を離したりいな。そのままやと、うちの胸に挟まる前に窒息死してまうで」
そう言われて、ようやく気づいたように掴んでいた俺の首から手を離す梨鈴。
「リュートちゃんが悪いんだよ。こんな女を連れ込んでたんだから。か、勘違いしないでね。僕はリュートちゃんのことなんて、何とも思ってないんだからね」
「……なんだ、その似合わないキャラは」
ツンデレでごまかそうとする前に、ひと言謝れ。
「で、お前はどこの誰だ。どうやって入った?」
口の中が切れてて喋りにくい。頬も少し腫れているようだ。
「カギはかけてあるし、窓だって閉めてある。一人暮らしだから、戸締りには気をつけてるんだ。それなのに、どうやってこの部屋に入った?」
「一番に気にするのは、そこなのかい?」
「当たり前だ。俺は名義上だけとはいえ、このマンションのオーナーだぞ。防犯やセキュリティについて気にかけるのは当然だ」
「ご立派な心がけ……」
もっと訊くべきことがあるだろうという視線を俺にぶつけ、フッと短いため息とともに梨鈴が横を向く。それを見て、俺は再び金髪女に向き直――おおおおおおおっっ!
目の前に、金髪女の顔があった。しかも、ドアップ。
紅い瞳に俺が映っている。
吐息が鼻にかかる。
少し下に視線を移せば、白くて深く大きな谷間。
「えらいキズやねえ。いける? 堪忍な。おもろがる前に、もっと早う止めなあかんかったかな」
この時点で、『えらい』というのが『すごい』という意味だとか、『いける?』が『大丈夫か?』という問いかけだとか、そんな関西弁の意味を考える余裕などあるはずがない。しかも――
ペロリ、と俺の頬を舐めた。舐めやがった。
一度だけじゃない。ペロ、ペロ、ペロペロ、ペロペロペロと、二度三度五度十度!
なんだ、この気持ち良さ! 骨が蕩けて、脳が沸騰してしまいそうだ。
掬い上げるような舌の動き。撫で回すような舌の冴え。絶妙な強弱。
「ぬが~~~~~~~~~~っっっ!」
梨鈴の必殺ドロップキック第二弾を金髪女が気づき、間一髪で避けるまでそれは続いた。
「何すんねん。危ないやないの」
「それはこっちのセリフだよ。何なんだ、キミは」
「せやから、うちは――」
「……その前にリュートちゃんを離してやったらどうだい? ホントに窒息死させる気かい?」
避けた拍子に抱きつくように倒れこみ、俺の鼻と口をふさいでいる柔らかな双丘。いや、丘というよりは山。山というよりは星。惑星。
俺は大宇宙の中にいた。
「あははは、堪忍堪忍、ご主人様」
「だいたい何なんだい、そのご主人様ってのは」
「え? せやかて、これから世話になるんやから、ご主人様って呼ぶのは当然やん?」
「これから世話になる~~?」
「そやで。うちは義理堅いねん。助けてもろたんやから、その恩はキッチリ返さんと気が済まへん」
「助けられた? リュートちゃんに?」
梨鈴が俺を見る。ジト目だ。そんなわけない、あり得ない。梨鈴の目はそう語っている。しかし、そんな目で見られるまでもなく、俺にも心当たりがない。ムカついた奴とのケンカが、からまれてたり巻き込まれてたりしたこの女を結果として助ける形になったというのはあるかもしれない。しかし、これだけインパクトのある女なら、どういう形であれ、俺が忘れていることはないと思うのだが……。
「ぜんぜん覚えてない。記憶の片隅にもない。いったい、どこで――」
言ってる途中に気づいた。あれ? 痛くない。
熱をもち始めていたはずの頬も、鉄の味を醸し出していた口内も、ぐらついていた奥歯も、まったく痛みを感じない。壁にかけてあるスタンドミラーに顔を映すと、まるで何もなかったように完治していた。
なんだ? どうしたらこうなる? いくら俺の治癒能力が超人的とはいえ、ここまでの現象はありえない。と、いうことは? 思い当たるのは?
さっきのペロペロだ!
……じゃなくて、この女だ!
俺はあらためて金髪女に詰め寄った。ムスク系の、それでいて人工の香水では表出できない、妙なる匂いをただよってくる。抱き締められた感触が蘇った。が、それを理性で押し切る。
「答えろ! お前は誰だ? いつ、どこで会った? どうやって入った? 恩返しって何だ? わかるように説明しろ!」
「わかった、わかった。そないに怒りないな。説明するて」
いや、怒ってるわけじゃない。ただ、匂いと感触に動揺してそれを隠そうとして……って、そんなことはどうでもいい。
「ええっと、どこから話したらええんやろ」
そう言って、金髪女は天井を見上げ、口元に手をやる。それだけですごく艶めかしい。本当に喋らなければ、すごくいい女なんだが……。
さて、回想でありながら、前置きが長くなったが、以下この女が話したことをそのまま記そう。
何度も言うが、俺は生の関西弁を聞くのは初めてだったし、しかも早口なので、句読点がどこに入るのかも分からない。さらに、言っていることの意味すら分からない。だから、いまだに理解も納得もできていないことだけは覚えておいてくれ。
「まずはお礼やな。助けてくれて、ありがとう。ホンマご主人様には感謝してるねん。魔力奪われて、長いこと封印されとったから、久々に出歩けてウカレとったんやな。ああ、ホンマに封印されてたわけやないんやけど、まあ、みたいなもんやし、封印されてたでええやろ。とにかく、春やし、ええ天気やし、散歩でも楽しもうって思て、うろうろしとってん。そしたら、あの悪ガキどもに見つかってしもて。まあ、少しジャレたら終わるかなと思てたんやけど、あいつらホンマしつこうて。うちが本気だしたら、あんなもん鼻息だけで倒せるんやけど、封印は解けても、まだ魔力は戻ってないし、どうしたもんかなって思てたんよ。まあ、魔力も少しは戻ってきてるねん。封印は解けたわけやし、こうして人間の姿になるくらいはできるわけやからな。でも、昔に比べたら、ぜんぜんなんよ。かといって、やられっぱなしってのはムカつくやん。せやから、なんとか一矢むくいたろうとしてたんやけど、あかんくて。人間の姿になったろうかとも思たけど、街中でそんなんやったら目立つやん。目立つのはええんやけど、また騒ぎになったら面倒やしな。そんなこと思てたら、また蹴り入れられて。ええ加減うちも、あとのことなんか知らん、こいつらイてもうたるって思たときに強烈なひと蹴りや。たまらんかったで。五千年生きたうちもこれで死んでまうんかって思わず覚悟決めたわ。そしたら、ご主人様が現れてあいつらを瞬殺や。カッコ良かったわ。しかも、うちを優しく抱いてくれて、水まで飲ましてくれて。やっぱり弱ってるときに優しくされるとあかんね。惚れてまうやん。けど、あの姿でお礼はできへんし、しゃあないなって思て、行こうとしたら、ご主人様が『恩返ししにこい』って言うてくれたやん。うち、嬉しくて嬉しくて。それで、ご主人様の匂いをたどって、ここまで来たんよ。ご主人様は学校に行っとってルスやっていうのはわかってたから、とりあえず先に掃除と洗濯だけでもしとこかなと思て。ああ、どうやって入ったかいうのは簡単や。いくら魔力を奪われたっていうたかて、これくらいのことはできるで。うちも全盛期は『月喰らいのオオカミ』なんて呼ばれたほどやからな。今はそのカケラもないけど。まあ、とにかく、そんなわけで、ご主人様はうちの命の恩人や。うちの気が済むまでたぁ~~~~~~~~~っぷり恩返しさせてもらうで」
関西弁で、『マリョク』とか『フウイン』とは、どういう意味なのだろう。他にも『人間の姿になる』とか『五千年生きた』ってのは、何の比喩表現だ? 関西人は例えが大げさだと聞いたことがあるが、そういうことなのだろうか。
とりあえず、俺はこの女を助けたことがあるらしい。そして、恩返しをしにここへ来た、と。部屋に入った方法はよくわからないが、とにかくそういうことだ。
長々と話されたが、俺がわかったのはそれだけだった。
そのあと、俺の呼び方について、『ご主人様』はやめるように言うと、「竜斗さん」「竜斗くん」「竜斗ちゃん」「竜斗様」「竜ちゃん」「竜さん」「竜さま」「竜ちゃま」「竜くん」と何度も呼び、最終的に、
「竜さんがええな。カッコええやん」
で、落ち着いた。
梨鈴もどこで落ち着いたのか、納得したのか、諦めたのかはわからないが、
「リュートちゃんがいいって言うなら、いいんじゃない?」
そう言って、一階下の自分の部屋へ帰っていった。立ち去り際、肩が震えていたような気がするが、あれは怒っていたのか、それとも笑っていたのだろうか。梨鈴のキャラ的には、泣いていたり、怯えていたわけではないはずだ。
そうだとすると、問題は今日だ。
梨鈴は今まで俺が何をしようと怒ることはなかった。失敗も成功も、危険も安全も、俺の行動すべてを面白がり、笑っていた。俺が何をしても、「リュートちゃんらしいね」と俺に笑いかけてきた。
俺だってこれまで梨鈴に気まずさを感じたことはない。しかし、昨日のような立ち去り方をされたことは初めてだ。後ろめたいことは何もないが、それでも気後れしてしまうような気持ちになるのはどうしてだろうか。今日、梨鈴に会ったとき、俺は……いったいいててってててっ!
「何しやがる、この野郎!」
「野郎やなくて、美女! しかも絶世の!」
頬をつねられ、現実時点に舞い戻る。
「うちが話してる途中やろ。どこにトリップしとるんよ」
「ああ、悪い。で、なんだ? 頼みごとだったか」
「そうや。まあ、簡単なことなんやけど……」
「俺にできることなら構わない。何でも言えよ」
「おおきに。そしたら遠慮なく言わせてもらうわ。うちに名前つけてくれへん?」
「…………名前?」
「そやねん。竜さんに名前をつけてもらいたいねん」
「いや、お前……それは……え? 名前……? ないのか……?」
あだ名とか、呼び方のことか。そういえば、こいつの名前って聞いてなかったな。
「昔はいろいろ呼ばれてたけど、せっかくやし、心機一転したいやん。かといって、自分でつけるのもなあ。ええの思いつかへんし。それに、本人はええと思てても、他から見たら間抜けやったり、カッコつけやったりするやん。何よりうちは竜さんに新しい真名をつけてもらいたいねん」
「そ、そうか」
何だ? すごく責任重大なことを託されてるような気がするぞ。あだ名レベルの話じゃないのか?
「ふむ……名前……名前……ねえ……」
とはいえ、そう簡単に思いつくはずもない。自分の子供は当然としても、ペットすら飼ったことがないんだ。名前をつけるなんて経験をしたことがない。あだ名や呼び名も周りが言ってることを倣うことはあっても、自分で考えたことはない。参った。ぜんぜん思いつかない。
「ちなみに、今まではどう呼ばれてたんだ?」
「ええ~~っ、そんなん関係ないやん。なんでそんなこと訊くん?」
「いや、まあ……参考までに……。イヤならいいけどさ」
「別にそういうわけやないけど。えっと、何やったかな。そうそう、タマモとかクズハとか呼ばれとったな。あとは、カヨウ、ホウジ……」
うわ~~~、参考にならねえ~~~。最初の二つはともかく、あとは何だ。火曜に法事ってどんな名前だ?
適当に言って誤魔化すにも、こんなに目をキラキラさせられては、そうもいかない。
脳をフル回転させて、これまで出会った女の名前や読んだマンガや小説の登場人物を思い出す。テレビドラマは見ないので、女優の名前は出てこない。海外歌手、アーティスト、スポーツ選手、政治家、お笑い芸人、戦国時代の女傑……。ダメだ。どれもピンとこない。この女のイメージに合わない。
だいたい、豪奢な金髪を結い上げ、着物を着崩して着ている巨乳美女の名前なんてイメージしようがないじゃないか。
ショートしかけた脳をクールダウンさせるために、すでに冷えたほうじ茶をひと口。
あらためて、金髪女を見る。
――この女のイメージ…………。
金髪。白い肌。高い鼻。ふくよかな唇。紅い瞳。それは外見だ。そうじゃない。そこじゃない。
関西弁。うるさい。大声で口を開けて笑う。喋らなければいい女。ここでもない。
色っぽい。艶めかしい。いい匂い。フェロモン出しまくり。男として魅かれるが、これも違う。
五千年生きた……か。こいつの話が本当なら、それはどんな孤独だったんだろう。共に生きるやつはいたんだろうか。いたとして、そのわずかな時と永遠の別れをどれだけ繰り返してきたんだろう。泣いたのだろうか。哀しかったのなら、泣いたのだろう。この紅い瞳から、どれだけの涙を流したのか。それでも、今、こいつはまた子供のように無邪気に笑っている。黙って座っていれば、神々しく、誰もが敬服し、ひれ伏し、その機嫌をとるためにすべてを差し出し、投げ出し、放り捨てるほどなのに、こいつは黙ろうとはせず、座っていようともせず、小犬が跳ね回るように楽しそうに笑っている……。
「…………ゆう……」
口から言葉がこぼれ出た。何の意識もしていなかった。声にもなっていなかったかもしれない。
それなのに――
「気に入った! ええやん、それ! ごっつ気に入ったわ!」
こいつにはそれが聞こえたらしく、満面の笑みで大声を上げた。
「どう書くん? 漢字? ひらがな? カタカナ? まさか英語と違うやろな」
あまりの嬉しがりようで、逆に俺が引いてしまうほどだ。細くて長い指が俺の手を握り、逃がすまいとしてくる。紅い瞳で覗き込んでくる。着物の後ろに尻尾が生えていたら、ぶんぶん振られているに違いない。
「ほらほら、焦らさんと早う教えてえな。漢字やろ? そうやな、うちのイメージで決めてくれたんやったら、『悠久の宇宙』で『悠宇』。もしくは、もっと簡単な漢字で『由宇』。どうや? 当たりやろ?」
「ああ、なるほど、それもいいな。うん、その方がいいかもな」
「なんや、違うん? そやったら、竜さんが思いついたのを言うてえな。うち、その方がええもん」
「そんなことないよ」
「そんなことある! 早う言いって!」
「わかったよ。あのな、俺が思ったのは……」
「うん! うんうん!」
「『優しい雨』……で『優雨』……」
…………一瞬、哀しい瞳をした気がした。
名前が気に入らないとか、そんな漢字を充てるなとか、そういう失望や不満ではなく、隠そうとしていたものを、気づかないでいてほしいと思っていたものを、知られていることに気づいた諦めに似た哀しさだったように思えた。
いや、それは俺の勘違いだったかもしれない。俺にそんな感受性はまだない。それに――
「ええやん! それ、いただき! うちのイメージにバッチリ!」
当の本人は踊りださんばかりに喜んでいる。
「ええなあ。優雨か~~。情緒的やな~~。さすが竜さんやな~~」
「本当にそう思ってるのか? ただの思いつきだぞ」
「思いつきでこんなええ名前が出てくるところが、すごいんやって。うち、ホンマごっつ嬉しいわ」
褒められるという経験が少ない俺にとって、優雨の言葉に嬉しいというより、何となく居心地の悪さを感じてしまう。恥ずかしい、というか、くすぐったい? なんだ、この感覚は。
「ほな、ちょう指かしてくれる?」
そう言って、優雨は俺の人差し指を手にとった。
冷たい指の感触。それに気を奪われないよう、この場合の『ちょう』は『ちょっと』って意味だったよなって、関西弁の復習をする。
指を見つめ、撫でながら、優雨はそれを口元に運ぶ。
そして、それを口に含んだ。
――ぬあっ! ふぉおおおおっ!
背骨に電流が走った。声を出さないようにするのが精一杯だ。
柔らかくて、暖かくて、ぬめってしてて、ぬるっとしてて……。
昨日のペロペロなんて比じゃない!
なんという官能! なんという快感! なんという恍惚感!
これはヤバい! ヤバ過ぎる!
体温が急上昇。脳が沸点をこえて、意識が遠のく。
だから、優雨が小さな声で、「ちょうゴメンな」と言ったのは聞こえなかった。
「痛っ!」
一気に意識を眼前に引き戻された。甘噛みというレベルじゃない。しっかりと噛まれた。
優雨がゆっくりと口から指を引き抜いていく。
濡れた指。先の方は血がにじんでいる。
なにか声をかけようとしたが、その真剣な目に、言葉を封じられた。余計なことを口にするべきじゃない。たぶん、優雨にとって大事なことをしようとしている。神聖ささえ感じる何か。直感として、それが分かる。だから、俺は黙って優雨を見ていた。
優雨は血のにじんだ俺の指を持ち上げ、額にあてた。かしづくように、ひざまずき、目を閉じる。
昨日と同じだ。ピリピリと全身を切り刻まれるような緊張感。肺を押し潰されたように、息をすることすらためらわれる。髪の毛のひと揺れで崩れてしまうほどに脆く、清らかな、薄氷のごとき緊迫感。
そこに優雨が口を開いた。
さっきまでの天鈴のような声じゃない。耳に甘く、心地良い音じゃない。
腹に響く神鳴りのごとき清冽な音。
「約す。ゆえに照覧せよ。我、今このときをもちて、古き真名を廃し、新しき真名を得たり。其を優雨とす。真名を我に授けし者、与えし者、我が真名を預けし者、託せし者、漆原竜斗に誓う。不惜なる仁を誓う。不動なる義を誓う。不朽なる礼を誓う。不変なる忠を誓う。不惑なる信を誓う。互いの生ある限り。死が互いを分かつまで。天地、照覧せよ。古今、照覧せよ。東西、照覧せよ。南北、照覧せよ。我、優雨、ここに約す」
…………。
……優雨の身体が光を発した気がした。
一瞬のことだったので、見間違いかもしれない。
よく分からないが、何かとんでもないことになったような……。
声も出せず、身動き一つできないままの俺は優雨を見つめる。
優雨は額に当てていた俺の指を恭しく下におろしていく。大事そうに。愛おしそうに。
そして――ペロリと舐めた。
くすぐられるような気持ちよさに、全身の金縛りがとける。膝がカクンと落ちそうになったのをどうにか耐えた。
優雨がようやく手を離した。目を開き、俺を見る。
紅い瞳。誰の手にも触れられていない静謐の湖に映える夕焼けの色。
おそらく数瞬、長くて数秒、見つめ合った。
しかし、急に気恥ずかしさを感じて、目をそらした。動悸の激しさを感じながら、解放された指先を見る。血がにじんだはずの指先には、やはり傷一つなかった。
「おい……優雨……今のは、何だ?」
「ん? ただの誓約や。たいしたことあらへん。気にせんでええよ」
誓約に『ただの』ってのがあるのか? どう考えても、気にしないわけにはいかないだろ。
言おうとした俺の先を制するように、優雨が再び口を開いた。
「それより竜さん、そろそろ行かへんと、学校遅刻するで」
さっきまでの表情とはまるで違う、天真爛漫な笑顔。
何かをごまかそうとしているようにも見えて、いまいち釈然としないが、あまり踏み込むべきでもないような気がして、とにかく俺は学校に向かうことにした。
◆
――ムカつく。
何が、というわけじゃないけど、とにかくムカつく。
昨日からイライラした気持ちが治まらない。
原因は分かってる。
あの女だ。
なにが恩返し? なにが『月喰らいのオオカミ』? 押しかけメイドだか召し使いだか知らないけどさ。いきなり現れて、リュートちゃんにあんなことして、ふざけんなって感じだよ。
リュートちゃんもリュートちゃんだよ。
何だって、追い出さなかったんだろうね。女に興味ないような素振りを見せといて、ミカちゃんはともかく、僕みたいな魅力的な美少女に指一本触れようとしなかったくせに、高校生になるなりルリちゃんに言い寄って、その日のうちにあんな女と同棲を始めるなんてさ。
がっかりだよ。失望だよ。ショックだよ。
なんだい、あんな女。僕よりちょっと美人で、僕よりちょっと髪が綺麗で、僕よりちょっと胸が大きくて、ウエストもくびれてて……。
…………。
いや、別に、リュートちゃんに恋愛感情なんてもってないし? リュートちゃんがどこの誰と付き合おうが、十八禁のいかがわしいことをしようが、僕には関係ないし?
僕とリュートちゃんは男女の関係を超えた深いつながりで結ばれてるし? 前世の前世の、そのまた前世の、もっともっと昔からの古くて長~~い付き合いだし?
あんな女の一人や二人、気にするのはおかしな話なわけだし……。
……だから、昨日はあの程度で済ませてあげたわけだし。
ま、あと一発殴ったら、許してあげよう。
そんなことを思いながら、電車を待っていた僕は、リュートちゃんが手を上げてこちらに歩いてくるのを見て――
伸び上がる型のアッパーフックを一発。
ホームから突き落とした。
昨日の入学式に続き、今日は始業式。
一年から三年までがズラリと並ぶと、広いはずの体育館もせまく感じるね。
校長が何か話してたようだけど、そんなものは右から左。何一つ頭に残っていない。こんなときに話す内容なんて、中学も高校も変わりはしない。面白い小噺でもすればいいけど、お寒い親父ギャグで生徒受けを狙う程度だしね。そんなの聞きたくもないよ。
その後、新任教師の紹介と挨拶。僕は眠気を我慢するので精一杯。周りを気にせず、大あくび。
生活指導らしい教師が壇上にあがったときだけは、顔を確認しておいた。これから三年間、何度もやり合うことになる相手だろうからね。春休みの間に家出でもしたのか行方不明になった生徒がこの学園だけでなく近隣の高校でも多く発生している、悩みがあるなら相談するように、なんてことを言ってたけど、あんたらに何ができるってのさ。あんたらに言ったところで気休めにもならないよ。
そんなことを思いながら、またもや大あくび。
そうこうしてる間に、「一同礼」の声がかかった。やれやれ終わったみたいだね。
二時間くらいあったんじゃないかって思う始業式も、終われば三十分ほどだったらしい。
だらだらと歩いて教室に戻る。
席について五分と待たずに、ウサギちゃんが教室に入ってきた。
どうせ今日も授業はないんだから、早く終わってくれればいいのに。そう思ってたけど、どうやら教科書を配ったり、委員を決めたりと何かとすることはあるらしい。
僕の席は窓際の一番後ろという好ポジション。しかも、前に座っているのは身長と態度だけはLサイズのミカちゃんだ。教壇からは見えにくい絶好の位置。となれば、やることは決まってる。
僕は机に突っ伏してひと眠りすることにした。昨日は寝つきが悪かったんで、寝不足なんだよね。
ああ、春の陽射しが暖かい。
では、おやすみなさぁい……。
――って!
いきなり後頭部を殴られた。尋常じゃない痛み! 容赦なしの一撃だ!
叩かれたところを手で押さえながら、顔を上げると、ミカちゃんが般若の表情で僕を見ていた。
「教科書だ、この愚か者」
「何も殴ることはないんじゃないかな、ミカちゃん?」
「教科書を配布されているのが分からないのか? これは貴様の教科書だ」
どうやら前の席から順々に配られた教科書を後ろに回しているらしい。それは分かった。けど――
「僕の教科書で、僕を殴ったってわけかい? しかも角の部分で?」
「当然だ。なぜ私の教科書で貴様を殴らねばならない」
「僕は寝てたんだよ? それくらい分からないのかい?」
「……堂々と何を言っている」
「殴らなくてもいいんじゃないってことだよ。寝てる僕を見て、疲れてるんだな、ゆっくりお休み、教科書は机の端にでも置いておいてあげようって思わないのかい?」
「思うか!」
「優しさのカケラもない女だねえ」
「この場合、それを優しさと言うものか。起こしてやることが私の優しさだ」
「殴っておいて、よくそんなことが言えるもんだよ。厚顔無恥ってのは、ミカちゃんのためにある言葉だね」
「……やはり貴様とは相容れぬ仲のようだな」
「今さら何を言ってるんだい。そんなことは現世に生まれ変わる前から分かりきったことじゃないか。それとも、それに気づかないくらいバカだったのかな。これはミカちゃんを見くびっていたよ。失礼いたしましたってね」
「……貴様……」
ゆらりとミカちゃんが立ち上がる。手には愛用の竹刀を握り締めて。
「そんなに眠りたいのなら、永遠に眠らせてやる」
「どこかで聞いたセリフだね。オリジナリティがないよ」
内ポケットからタロットカードを引き出して、僕も席を立つ。引いたカードは「塔」。それを人差し指と中指の間に挟む。
何をしてるんですか鏡さん鬼頭さん、というウサギちゃんの声が聞こえたような気がしたけど、今の僕にはミカちゃんの顔しか映らない。聞こえない。
正義の使者たるミカエルちゃんもその執行に時や場所を選ばない。聞いたところによると、特撮やアニメのヒーローが悪を倒すのに街や建物を壊したり爆破したりするのを、幼いころに見て、正義とはかくあるべしと思ったらしい。
「私の竹刀で貴様の性根を叩き直してくれる」
「それも聞いたことのあるセリフだよ。それとも、正義の使者ってのは、どいつもこいつも同じ言葉を吐くものなのかい」
睨み合うこと数秒。
「叩き潰してやる」「切り刻んであげるよ」
昨日の続き。
第2ラウンド開始だ。
…………やはり寝不足はよくない。
お肌にもよくないし、頭の回転もにぶくなる。
精神的にも気が短くなるもんだね。いつもならミカちゃんごとき、テキトーに相手をして、からかうだけからかって、その上で、たまには戦闘モード突入ってとこなのに、今日はあまりにも早かった。
しかも、身体の動きまで鈍いってんだから、睡眠ってのは大事だね。
ミカちゃんの竹刀を颯爽とよけて、源義経みたいに机の上を八艘飛び……といこうとしてバランスを崩すし、狙いどおりに放ったはずのカードが四センチほど横にずれる。
あげくの果てには、ウサギちゃんに頼まれたリュートちゃんが仲裁に入り、僕とミカちゃんを鉄拳でもって制してくれた。
耐久力のあるミカちゃんは殴られても大丈夫だったようだけど、可憐な美少女である僕は重いボディブローで一発KО。あっさりと気を失った。まったくリュートちゃんは女相手でも加減ってものをしないからなあ。ま、リュートちゃんらしいけどさ。
そんなわけで保健室に運ばれるわけでもなく、普通にイスに座らされ、机に伏せる形で当初の予定どおり熟睡させてもらえたってわけだ。
目を覚ましたときにはホールルームはほとんど終了状態だった。
黒板には僕が寝ている間に決めたんだろう各委員の名前が書かれている。ふん、やっぱり風紀委員のところにミカちゃんの名前があるよ。あとは知らない名前ばっかりだ。まあ、覚えたいとも思わないけどね。
机の上に積まれていた教科書をカバンではなく机の中に収納していると、皆が席を立ち始めた。どうやら終わったみたいだね。
教室内が一気に賑やかになる。どこのクラブに入るだとか、帰りに遊びにいく打ち合わせだとか、高校に入学したばかりだというのに大学予備校の情報交換だとか……。実に平和で面白みのない会話ばかりだね。
そうかと思うと、前の席からは
「……漆原竜斗ごときに不覚をとるとは……私もまだまだ修行が足りぬ……もっと精進せねば……」
などと、ブツブツ言ってる声も聞こえてくる。
ホント、平和だねえ。
立ち上がりもせず、教室内を眺めていると、リュートちゃんが近づいてきた。
「おう、梨鈴、目が覚めたか」
心配するどころか、清々しい顔をしてるじゃないか。リュートちゃん。おかげさまで熟睡できたよ。と、言ってやりたいところだったけど、あえて言葉にはしないでジト目で返してやる。
「昼飯どうする? 学食に行ってみるか?」
しかし、リュートちゃんは僕の表情なんて気にもしない。
「ファーストフードも飽きたしな。ここの学食は味はそこそこだけど、量だけはかなりあるらしいぞ」
それでも僕はジト目の無言を通したけど、リュートちゃんは、カツ丼の大盛りを頼んだら洗面器レベルの大きさで出されるとか、ざるそばは五段重ねだとか、二十分以内に残さずに食べきれば一週間分の食券がもらえるスペシャルラーメンがあるとかを、平気で話し続ける。
ダメだ。やっぱりリュートちゃんにはこういった心の機微ってやつを言葉にしないで伝えることは不可能だ。
「――しかも、特大パフェってのが……」
「あいにくと胃にもたれるようなものを喰らわされたんで、お腹いっぱいなんだよね、僕」
「なんだ、朝からタルタルソースをたっぷりかけたグラタンコロッケでもヤケ食いしてきたのか?」
どうして僕がそんなことをしなきゃいけないんだよ。遠回しな言い方でも気づかないか……って、今の遠回しだったかい?
「いつから教師の手先になったのさ、リュートちゃん」
「ん? 何のことだ?」
「ウサギちゃんに頼まれてケンカをとめるなんて、リュートちゃんらしくないよ」
「ああ、そのことか。俺もケンカに割って入るなんてマネなんかしたくなかったんだけどよ」
「だったら――」
「けどな、そこで思ったんだ。俺は『優しい人間』になろうとしてるわけだ。となると、俺はどういう行動をとるべきかってな」
「つまり、ケンカをしないだけじゃなく、ケンカをとめる側の人間になろうってわけかい?」
「お、さすが梨鈴だ。いいとこに気づいた。そういうのもアリだろ?」
「……知らないよ」
まったく単純な男だねえ。リュートちゃんらしいって言えば、リュートちゃんらしいけどさ。怒ってるのがバカらしくなるよ。
僕が少しばかり機嫌を直しかけたところに、ガタリと音がして、ミカちゃんが立ち上がった。振り返り、そして僕とリュートちゃんを睨むと、
「次は…………負けぬ!」
言い捨てて、教室から出て行った。
それを見送っているうちに、僕とリュートちゃんの口に自然と笑みがこぼれる。
ん~~、何か気分いいね。完全にご機嫌モードだよ。リュートちゃんに負けず、僕も単純な女だね。
そう考えたら、お腹も減ってきたよ。リュートちゃんが行きたがってる学食にでも行ってみるとするかな。スペシャルラーメンとやらに挑戦してみるのも面白いかもね。ん? そういえば、リュートちゃんはどこからあんな学食情報をとってきたんだろ。リュートちゃんにそんなことを教えてくれる知り合いや人脈があるとは思えないんだけど。
ようやく席から立ち上がり、僕とリュートちゃんが教室から出ようとする直前――
「あ、リューリューとリンリン、ちょっと待ってほしいのです!」
底抜けに明るい大声がかかった…………って、何だ、その呼び名は!
見ると、昨日の三人組み。双子のようにそっくりな従姉妹のコンビとルリちゃんだ。
「トモ、何なの、その呼び方は」
「可愛い呼び方をトモが考えたのです。だから、ルリルリのこともこれからはルリルリと呼ぶのです」
「……えっと……それは喜んでいいのかしら……」
ルリちゃんが困ったように微笑む。
髪を左に分けた方が朋子だったっけ。じゃあ、その朋子の後ろに隠れるようにしてるのが晶子か。外見は髪の分け方以外そっくりだってのに、性格は真反対みたいだね。朋子は僕たちを怖れるどころか、今の呼び方でも分かるように、あまりにも馴れ馴れしい。晶子は僕たちに目を合わせることすら怯えているようだ。ま、晶子の反応が一般的だと思うけどね。
「ごめんなさいね、鬼頭さん、リュートさん。あ、リュートさんって呼んでよかったのよね」
「かまわない。何か用か、薬師寺」
リュートちゃんが立ち止まり、ルリちゃんの方へ歩いていく。僕としては早く学食に行きたかったけど、仕方がないのでそれに続くことにした。
ふむ。あらためてルリちゃんを見て思うけど、美しさってのは一つじゃないんだねえ。あの女オオカミが夏の陽射しなら、ルリちゃんは春の陽だまりだよ。ぽかぽかと柔らかくて、干したばかりのフトンのように包まれて居眠りしたくなるような魅力があるよね。……ま、僕も負けてないけどね。むしろ勝ってるけどね。
「あの、昨日のことなんだけど、本当にお願いしていいのかしら」
昨日のこと? 何だっけ?
「あの後、宇佐木先生に訊きにいったのです。そしたら、五人揃えば大丈夫だと言われたのです」
「大丈夫とは言ってなかったッスよ、トモ。まずは五人必要だって言ってたんスよ」
五人? 何の話だか知らないけど、僕も入ってるのかな?
「それって何が違うのです? 五人揃えば、文芸部復活なのです」
「ぜんぜん違うッス。まずは五人で同好会としてスタート。そんでもって、実績によっては部に昇格できるって話だったッス」
「そんなこと言ってたのです?」
「言ってたッスよ。何、聞いてたんスか」
「ああ、文芸部ね。思い出した、思い出した」
いきなり出した僕の声に、晶子が痙攣したように身体をビクッとさせ、今さらながら再び朋子の後ろに身を隠した。まるでリスとか小動物のようだね。取って食べやしないから、そこまでロコツに怖がらないでほしいよ。
「リンリン、忘れてたのです? うっかり屋さんなのです」
それに対して、こっちは……。満面の笑顔を浮かべてくれるのはいいけどさ。僕はパンダじゃないっての。どっちかって言うと、僕は朋子の方が苦手だよ。そのうち殴っちゃうかもしれないね。
「ルリルリ、文芸部で実績って、どうするのです?」
「……その呼び方、決定なのね」
「一ヶ月に何冊本を読んだ~とか報告するのです? 先生に夏休みの宿題みたく読書感想文を出せばいいのです?」
「ちょっと違うかも……。でも、そうね、読書感想文とか書評の公募があるから、そういうのに投稿するのも一つよね。そこで賞を取れば、実績として認めてもらえると思うわよ。他にも、自分たちで文芸誌とかを出して、その反応が良ければ、それも実績になるんじゃないかしら」
「ふむふむ、なるほどなのです」
「本当に分かってるんスか、トモ」
分かってるに決まってるのです、と言い返す朋子に、じゃあ他にどんなことすれば実績になるか言ってみるッス、とさらに言い返す晶子。どうやらお互いに対しては強気になれるみたいだね。ま、仲のいい従姉妹だよ。
「そういうわけで、まずは同好会として始めることになるの。でも、その同好会も五人は集めなければいけないみたいなのね。それで、昨日リュートさんが協力してくれるって言ってくれてたから、もし気が変わってなければ、お願いしたいと思って」
後ろで口ゲンカが始まってるってのに、ルリちゃんは気にもかけない。こんなことは、日常チャメシゴトってことなんだろうね。
「もちろん協力させてもらうぞ。『優しい人間』なら当然のことだ」
リュートちゃんはそうだろうね。そう答えると思ったよ。
僕は……どうするかな。小学校のころはビジネス書や哲学書なんかも乱読してたけど、今はマンガすら読まないもんね。本を読むってこと自体は嫌いじゃないけど、書評だの文芸誌の自作だのっては面倒だよね。そんなのに協力するなんて、僕のキャラじゃないよ。でも――
「幽霊部員でもいいなら、名前だけは使ってくれていいよ」
と答えた。
リュートちゃんの一生を見届けるのが、僕の使命だ。文芸部に入ることで、どんな面白いことをしてくれるのか。それは、やはり特等席で見ておきたい。
「ありがとう、鬼頭さん。これで同好会の申請ができるわ」
嬉しそうに笑うルリちゃん。なんだろね、この穢れのない感じは。眩しくて、羨ましくて、妬ましいよ。こういう女が男の保護欲をかきたてて、男を強くするのかもね。そういうところは、僕やあの女オオカミとは違うんだよなあ。あの女オオカミは男の見栄とかプライドを刺激するタイプだよ。強くみせたいって気持ちに男をさせて、虚勢を張らせて、あげくに自滅させるに違いない。あ、ちなみに僕は男を手玉に取るタイプね。
「今日、時間あるかしら? お昼を食べたら、図書室に行こうと思うんだけど」
ええ~、いきなり~~? 面倒くさぁい~~って内心では思ったけど、そんな笑顔で言われたら断れないじゃないか。リュートちゃんは一も二もなく同意しちゃってるしさ。
前言撤回。
やっぱり悪女だよ、このコは。
図書室ってのは、文化棟の三階にある。
文化棟には、他に音楽室や美術室、視聴覚教室、パソコンルームなどなどが入ってるらしい。僕たちがいる東校舎からは、南校舎、西校舎を通り抜けなければいけないので、けっこう遠い。
スペシャルラーメンに完敗した僕とリュートちゃんは、並んで図書室に向かっている。ルリちゃんたちはお弁当だったので、教室で食べて、先に図書室に行っているはずだ。
「うう、気持ち悪い……」
「シャレにならない量だったな。なんだ、あのドンブリ。子供だったらフロおけに使えるぞ」
「あのトッピングだってそうだよ。バベルの塔でも建てるつもりなのかね」
「創業してから、達成者が四人しかいないってのは聞いてたが……」
「四人もいるのかい。それだけでも奇跡だよ」
思い出しただけでも、リバースしそうになる。食べても太らない体質だから、スタイルを気にする必要はないけど、それでも一週間分は食べたような気がするよ。当分はラーメンどころか、ネギやモヤシすら見たくないね。
と、そんなことはどうでもいいんだった。今のうちにリュートちゃんに訊いておきたいことがあったんだ。朝は駅員に追いかけられたり、そのことでリュートちゃんがブツブツ文句を言ったりで訊けなかったんだよね。
「で、どうなのさ、リュートちゃん」
「ん? 何がだ?」
「何がだ……って、あの女オオカミのことだよ。追い出すことにしたんだろうね」
「ああ、優雨のことか。追い出すってのは可哀想だろ。掃除や料理はうまいようだし、恩返しだとは言ってるけど、本人は親切でやってるわけだしな。まあ、本人が納得するまでは置いてやってもいいかなとは思ってるんだ」
「ゆ……ゆう……? ま、まさか、名前をつけてやったのかい? 真名じゃないだろうね?」
「ああ、何かそんなことを言ってたな。生の関西弁って難しいよな。なんとなくは分かるんだけどさ。関西の方だと、あだ名のことを真名って言うのか?」
――言うわけがない!
真名ってのは、その存在そのものを表し、縛り、決めつけ、支配するものだ。そんなことはマンガやアニメ、ゲーム、ラノベでは常識、知らない方がおかしい。それをリュートちゃんがあの女オオカミにつけたってことは、実質的にも本質的にもご主人様になったってことじゃないか!
そうなれば、追い出すどころじゃない。どちらかが死ぬまで添い遂げることになる。そんなことも知らなかったなんて、リュートちゃんらしいって言えば、リュートちゃんらいしいけど。それにしても、なんて浅はかなことをしたんだよ。
あの女オオカミが言ったことが本当なら、かなりの大妖のはずだ。五千年生きてるとか言っていたけど、もしかしたら、それ以上かもしれない。『月喰らいのオオカミ』ってのも、自称や誇張じゃないだろう。つまり、それだけの力は持っているということだ。いや、封印されたから持っていた、か。今がどの程度なのかは分からないけど、いずれはかつての力を取り戻すだろう。
真名を与えたということは、つまりその力はリュートちゃんのものでもあるということだ。あの女オオカミが僕の想像どおりの大妖であるならば、国の一つや二つ、三日で壊滅させるだけの力があるはずだ。それだけの力を得て、リュートちゃんはリュートちゃんでいられるのか。
どれだけ精神的に強い者であっても、力を得れば変わる。それが、金であれ、権力であれ、暴力であれ、その者にとって過分な力を得れば、百人が百人、千人が千人、同じではいられない。良い方向にも悪い方向にも変わらずにはいられない。その力を支配し、御し、自己を制することは並々ならぬ精神力がいる。
リュートちゃんがその力の大渦に溺れてしまうとは思えない。思いたくないというのが、正直なところだけど、実際には分からない。しかも、そのうえで、リュートちゃんは『優しい人間』とやらになろうとしている。いや、そんなものになれるはずがないことは分かりきってるけど、それをリュートちゃん自身が認識し、あきらめてしまったとき、どれだけ暴走することか。単独でも現世に地獄を現出させるほどの男なのだ。その暴走にあの女オオカミの力が加わるとしたら――。
まったく、面白……じゃなくて、やっかいなことになったねえ……。
考え込んでいる間に南校舎から西校舎に移っていた。始業式やホームルームが午前中で終わっているだけに、残っている生徒は少ない。とくに西校舎は三年生のクラスが中心だ。最後の大会へ向けての部活練習や大学受験の準備など、目前にしなければいけないことが多くあるのだろう。
西校舎から文化棟へ。
文化棟の地下は、音楽室だ。オーケストラのコンサートが開けるほどで、収容人員は三千人。
一階が美術室。絵画、彫像だけでなく、漆器や着物など国宝クラスの美術品、工芸品が展示されているスペースがある。
二階を抜けて、三階へ。
上の階は、四階が視聴覚室。文化祭時には映画館としても利用されるらしい。上映できるスクリーンは六つ。さらに、一二〇インチモニターを備えた部屋が八つ。
最上階の五階は化学、工学、地学、科学などの実験室だったかな。
それでもって、屋上にはプラネタリウムと天文観測所がある。
この文化棟を利用したくて、雪藤学園に入学したって生徒はけっこう多い。
僕は違うけどね。
さて、いよいよ、図書室――。
……っと、これは……すごいね。
向こうの壁が見えないよ。壁をぶち抜いて、三階フロアすべてが図書室ときたもんだ。大型書店が二つ三つ集まってもまだ余るよ。っていうか、これを図書室なんてレベルで呼んでいいのかい?
幅八メートル弱、高さは天井すれすれという本棚がズラリと数え切れないほど並んでいる。いったいどれほどの蔵書量なのか想像もできない。
卓球台を四つ並べたようなテーブルも数十台。生徒はそこで本を読み、あるいは自習している。
図書室特有の匂い。紙の匂いとインクの匂い。乾燥しているはずなのに、わずかなカビ臭さ。
ページをめくる音。ペンを走らせる音。わずかなささやき声。耳が痛いほどの静寂ではなく、耳に心地良いくらいの静けさ。
ふむ。こういうのは嫌いじゃな――
「あ~~っ! きたきた! リンリン、リューリュー、こ~こ~だ~よ~~~!」
……い……。
――――!
なんつーこっ恥ずかしいことを大声で!
走っていってフライングニーでも喰らわせてやろうか。と思ったら、晶子がすかさずチョークスリーパーを極めてオトし、ルリちゃんが睨まれた周囲の生徒に頭を下げていた。見事な連携プレイ。
気まずい空気の中、僕とリュートちゃんはルリちゃんたちの元に向かう。
五十メートルほど歩いて、ようやく近づいていくと、ルリちゃんがジェスチャーで奥の方へ向かうよう指さした。
ルリちゃんが先頭で歩き出し、その後ろに晶子。その後ろに朋子が晶子に襟首をつかまれたまま引きずられていく。で、僕。最後尾がリュートちゃんだ。リュートちゃんはよほどこの環境が気に入ったのか、嬉しそうな本棚をキョロキョロと見回しながら歩いている。
さらに三十メートルほど歩くと、ガラス板で仕切られたブースが八つ。中には円卓とイスが十二脚。
そのうちの一つの扉に手をかけ、「空室」となっていたプレートを「使用中」に変えて、中に入っていく。当然、僕たちもそれに続く。
全員が入ったのを確認して、ドアを閉める。
「はい。これで、もう普通に話して大丈夫ですよ」
にっこりと微笑むルリちゃん。
なるほど。ここはグループでの勉強会やサークル活動なんかで使われる小部屋らしい。防音効果のあるガラス板を使っているので、大声でも出さない限り、さっきみたいに周りに迷惑をかけることもないだろう。
「来る前に、同好会の申請書は生徒会に出してきました。部に昇格するには、宇佐木先生に教えてもらった以上に細かい条件があるみたいですけど、それはまた考えていきましょう。それまでは、ここで文芸部として活動していこうと思います」
それぞれが席に着くと、部長――同好会だから、会長なのかな――らしく、ルリちゃんが挨拶した。とくに投票や話し合いがあったわけじゃないけど、発起人でもあることだし、何よりもメンバーの顔ぶれを見たら、至極当然のことだよね。
「で、実際にはどんなことをするんだい? 活動内容っての? さっき書評だとか、文芸誌だとか言ってたけど、僕そんなことできないよ」
幽霊部員を表明しておきながら、口火を切ったのは僕だった。
「そうね。いきなりは難しいわよね。公募とかに投稿するのは、それなりに文章力がついてからにした方がいいと思うわ。でも、投稿は自由だし、中には採点みたいなことをしてくれて送り返してくれるところがあるから、そういったので経験を積むのもいいかもしれないわね。あと、文芸誌……とは言ったけど、それは秋の文化祭を目標につくれればいいと思うの」
……いや、僕が言いたいのは、そういうことじゃ……。
「部員はどうするんスか? あと五人必要なんスよね」
あと五人? あれ? 五人揃えばいいんじゃなかったのかい?
「同好会としての申請は五人でできるんだけど、部にするには最低十人いるんだって」
表情から読み取ったのだろう。僕が口を開く前に答えた。それから、晶子に向き直り、
「部員集めについては、とくに勧誘はしなくていいと思うの。もちろん、入会を希望してくれる人がいたら拒みはしないけど、まずはこうして五人集まったんだから、この五人で活動していきましょう」
嬉しそうな笑顔で答える。嬉しそうな、じゃなくて、本当に嬉しいんだろうけどさ。
「それと、鬼頭さんが言ってた活動内容についてなんだけど、初めは感想会をしたいと思うの」
「感想会って、何スか?」
「そのままのネーミングなんだけど、それぞれ好きな本の感想を言い合うの。それで、その本を読んでみたいって他の人に思わせることができれば成功ね。表現力の練習にもなるわ。あ、何かに書かなきゃいけないってわけじゃないから安心してね、鬼頭さん。でも、別に書いてきて、それを読んでもいいのよ、晶子ちゃん」
「何であたしに言うんスか。トモだって同じッスよ」
「トモは文芸部の名前を考えたいのです!」
さっきまで気を失っていたはずの朋子が、いきなり関係ないことを叫ぶ。いつの間に復活したんだ?
「部に昇格してないのに、文芸部と言うのはおかしいと思うのです。でも、文芸同好会というのは可愛くないのです。文芸サークルっていうのも却下なのです。可愛い名前がいいのです」
「……えっと……それは宿題ってことでいいかしら。いい名前を考えたら、教えてくれる? みんなで話し合いましょう」
「トモに一任ということでいいのです?」
「……えっと……それは……かんべんしてくれる?」
◇
図書室を出たのは四時過ぎだった。
梨鈴と薬師寺はまだ残っている。
とりあえずの話し合いが終わり、来週月曜日に第一回目の感想会をすることになった。感想をいう本は、今までに読んだものでもいいし、明日あさっての土日で新しく読んだものでもいい。
俺は今日までに読んだ三十八冊の本があるし、読み終えてない本があと二十五冊ある。その中からおススメの本を選び出し、ビシッとその内容を話してやろう。
しかし、梨鈴は最近本を読んでいないらしく、感想会で話すものがない、と言い出した。俺の読んだ本を貸してやろうかと言ったら、あっさりと断りやがった。それで、図書室内を歩き回り、梨鈴が興味を持てる本を探すことにしたのだが……。
これがなかなか見つからない……と、いうこともなく、あっさりと見つかった。
小部屋を出ると、迷うことなく梨鈴は歩き出し、目的の本が並んだコーナーへ向かった。来る途中に確認していたらしい。そして、『コールドリーディングの裏をかけ!』と書かれた本や、『実践! 人の心のつかみ方・しばり方・あやつり方』『騙されたと気づかれないように騙すのではなく、騙されたと気づかれるように騙せ』といった梨鈴好みのものを選ぶと、持ち帰りの手続きをするまでもなく、座り込んで読み始めた。あまり乗り気には見えなかったが、もう少し読んでから帰る、と俺を先に追い返したところを見ると、文芸部の活動にも熱心に参加するつもりかもしれないな。
ラグビー部が練習しているグラウンドを横切り、校門へ向かう。
文化棟を見れば分かると思うが、雪藤学園は勉強以外にも力を入れており、それはスポーツ関係でも同じだ。文化棟からグラウンドを挟んだ反対側に運動部の部室棟があり、そこには近代的なアスレチックジムがあり、水泳部以外でも練習に使える五十メートルの屋内温水プールもある。ちなみに、俺たちが完敗したスペシャルラーメンを出す学食は、その部室棟の一階だ。
グラウンドも八〇〇メートルトラックが楽に描けるほどの広さがあり、地区大会の予選会場になることも多い。スポーツ特待生ばかりを集めた特待クラスが学年に三つあるだけあって、どの競技でも全国レベルではあるらしい。とくに、ラグビー部と空手部、弓道部が全国大会でもかなりの上位に入る結果を残している。
運動部特有の語源の分からない掛け声を聞きながら歩いていると、校門近くに人影が見えた。女が二人に男が三人。男は他校の奴らしい。赤茶色のブレザーが遠目にも目立っている。
「っから、イヤだって言ってるじゃないッスか!」
おや、この声は――
「それよりトモに謝れッス!」
間違いない。薬師寺といつも一緒にいる女だ。双子だか従姉妹だか知らないが、同じ顔の奴らだ。俺よりも少し前に図書室を出たはずなのに、まだあんなところにいるのか。
いつもおどおどとしている方の女が、もう片方の女の前に立ちはだかり、男たちを睨んでいる。
あの赤茶色のブレザーは芝枯学園のものだ。ほとんどの生徒が目を伏せて通り抜けていく中、何があったか知らないが、あんな連中に刃向かうなんて、一般人にしては勇気があるじゃないか。
ううむ、しかし、ここは考えどころだ。俺は『優しい人間』にならなければいけない。となると、この場合、ケンカをしないように他の連中を見習って見てみぬフリをして通り過ぎたほうがいいのか。それとも、あの二人を助けるべきなのか。どちらが『優しい人間』のとるべき道なのか……って、考えるまでもなく、決まってるよなあ。こういうのを見過ごせるほど、俺の人間性は腐っちゃいない。
問題はケンカをしないようにすることだ。当然のことながら、俺はする気はない。しかし、相手は芝枯のバカどもだ。やり合うことになるかもしれない。なるだろう。なるはずだ。なるに違いない。
けど、もしかしたら、俺が『優しい人間』になったことも知らず、中学時代の悪名だけは知っていれば向こうからケンカを避けるかもしれない。いや、避けないだろうなあ。避けないはずだ。避けないに違いない。避けないに決まった。
……となると、さて、どうするか。
ま、そうなったらそうなったで、昨日の朝のように、ケンカにならないうちに終わらせてしまおう。
「おい、どうしたんだ」
近づき、薬師寺の友人に声をかける。
「リューリューっ!」
「えっ……と……あ、ルシ……漆原くん」
二人が同時に振り向く。片方は嬉しそうに。もう片方は驚いた顔で。
「よう、薬師寺の友人AとB。ナンパでもされてんのか」
「誰が友人Aッスか! 東山晶子ッス!」
「ふえ、トモも西川朋子って、ちゃんと自己紹介したのです」
「了解、了解。晶子と朋子ね。覚えた、覚えた」
とりあえず今日のところは、という言葉は付け加えずに、テキトーにあいづちを返す。すると、
「……し、下の名前で呼ぶなんて……馴れなれしいッス……」
「何で照れてるのです? トモはぜんぜんОKなのです」
思いのほか、好反応。ふむ、これはちゃんと覚えたほうがいいらしい……って――
「どうした、そのツラ?」
片手を挙げて満面の笑みを浮かべる朋子の頬に、赤く叩かれた跡があった。訊きはしたが、答えをもらうまでもない。この状況で、蚊がいた、なんて思うわけがない。原因は明らかだ。さっき、晶子が叫んでた理由もこれだろう。
俺は朋子と晶子から、芝枯のバカどもに視線を移す。バカが三人、間抜けな顔で俺を見ている。
三人のうち、二人は変わったファッションをしていた。ムチウチの治療に使うような太い輪っかを首に巻いている。しかも、その片方は顔面を包帯でぐるぐる巻きだ。もう一人、輪っかをつけてない奴は服装は普通といえば普通だが、プロレスラーか相撲取りかってくらいの小山のような体型の男で、こちらは輪っかがなくても人目を引く。
「かなり強引なナンパじゃねえか、てめえら」
「ナンパなんかじゃねえよ。お前を呼んでこいって言ってんのに、イヤだなんて言いやがるから、軽くはたいただけだ」
輪っかをした片方、リーゼント頭のバカが口を開く。
「あ? 俺に用事だったのか? そりゃあ悪いことをしたな、朋子。巻き添えをくわせちまって」
「へへへ、友達を危ない目に合せたくないだってよ」
「お前のウワサ聞いたぜ。お前みたいな悪党に友達がいるなんて大笑いだ」
「どう言ってお願いしたんだ? 僕は一人で寂しいんです、友達になってくださいってか」
リーゼント頭の後に続いて、デカブツと包帯男とも哄笑をあげる。気に障る笑い声だ。
「うるせえ、バカども。何の用だか知らねえけど、俺に用事があるんだろ。だったら、さっさと片付けようぜ」
「何の用事だか知らねえ、だと? てめえ、俺たちのこと忘れたのか、こら」
「知らねえよ、バカ。どうせ俺にやられたハエの一匹だろ。そんなのいちいち覚えていられるか」
「この――」
「待てよ。ここじゃ、ヤバいだろ」
動こうとしたリーゼント頭の肩をデカブツがつかんで抑える。
「ここで始めたら、教師や警備員がとんでくる。昨日の公園に連れて行こうぜ。あそこなら――」
包帯男も抑える側のようだ。というより、周りの目を気にするタイプなのか? それなら、そんな目立つファッションはやめた方がいいと思うが。
ついて来い、と言って三人は歩き出した。このまま無視してやろうか、それとも隙だらけの後頭部に蹴りでも入れてやろうか、と考えたが、それもあとあと面倒だ。害虫は見つけたときに叩き潰しておいた方がいいだろう。後腐れのないように。徹底的に。
「そんなわけで、ちょっと行ってくる。ホント悪かったな、二人とも」
「え、あ、け、警察を呼んだ方がいいッスか?」
「そんなのいらねえよ。警察は嫌いなんだ」
「でも、相手は三人もいるのです」
「たった三人だ。気にすることじゃない。それに……」
「「それに?」」
「女を殴るような奴は、ムカつくんだ」
そう言うと、二人の顔が一気に赤くなった。夕焼けが映えたわけではないだろう。そして、それを見て、我ながらキザなことを言ったかもしれないと気づいた。顔に血が集まってきそうになる。ごまかすように二人に背を向けた。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「あ、でも、漆原くん――」
「大丈夫だ。心配するな」
「今日、鬼頭さんと鏡さんを思いっきり殴ってたッスよね」
「…………それは覚えてねえな」
手を振って、校門の外に出る。
後ろで、空気の読むのです、と晶子を叱る朋子の声がした。
昨日と今日しか知らないが、どちらかと言うと、晶子がしっかり者でありながら人見知りというか、小心なところがあって、朋子は天然キャラで怖いもの知らず。そんな感じだったが、実は違うのかもしれない。まあ、人は一面だけでは捉えられないからな。誰しも二面、三面を持ち、対する相手によっては、同じ面を見せていても、違うように見られることもある。そして、そんな人から見られる外面だけでなく、内面もまた、幾種類もの面をもち、本人ですら捉えきれないときもある。人の心や性格というのは、まるで万華鏡のようだ……。おっと、こんなことを考えるなんて、俺も成長してるじゃないか。『優しい人間』になろうとすると知性までアップするようだな。
自分自身に満足しながら、バカどもの後ろをついて歩く。どうやら、向かっているのは近くの公園らしい。昨日の朝、小犬姿だった優雨を助けた公園だ。
……ああ、思い出した。この輪っか二人はあのとき追い払ったハエか。そういえば、リーゼント頭に見覚えがあるぞ。そうかそうか、死にきれなくて、さまよい出たってわけだ。じゃあ、今度は完膚なきまでに叩き潰してやろう。
五分ほど歩き、公園に入る。
外灯がつき始めたばかりの公園は、少しうす暗かった。遊んでいた子供たちは帰ったばかり、そして夜桜見物にも少し早いという時間帯。都合のいいことに公園内には人影一つない。
どうやら前の三人も同じことを考えたらしい。陰惨な笑みを浮かべながら、ささやき合っている。何を話してるのか分からないが、男同士が耳元に口を寄せ合い、忍び笑いをしているというのは、見ていて気持ちいいものじゃない、というより、気持ち悪い。
「どこまで行くんだ、バカども」
俺が声をかけたことで、ようやく立ち止まりやがった。
「駅に行くなら方向が違うぞ。それとも、このまま帰ろうってのか?」
「ふざけんな、バカ野郎!」
「ふざけてんのは、てめえらだろ。それに、芝枯ごときにバカ扱いされたくねえぞ。取り消せ」
「てめ――」
「待てよ。まずは話し合いだ」
今にも飛びかかってきそうだったリーゼント頭をデカブツが再び止める。
「なあ、小僧、てめえ『ルシファー』なんてイキがっちゃいるけど、たかだか一年坊主だろ。それを他校とはいえ先輩にケガさせて、詫びもなしってのはおかしいんじゃねえか?」
身長は俺より少し高いくらいだが、厚みがまるで違う。上着ごしだが、二の腕なんか、梨鈴の太ももくらいある。締まってはいないが、弛みきってもいない。耳が潰れていないところを見るとレスリングや柔道などの格闘技はやってなさそうだ。恵まれた体格をスポーツではなく、不良のケンカに使ってるタイプか。ふん、イキがってるのは、てめえだろ。
「こいつらの治療費と慰謝料、二人合せて十万でいい。来週までに用意しておけ」
「言ってる意味がわからねえ。イシャリョウってのは、医者料のことか? それと治療費とどこが違うんだ? そこの包帯ぐるぐる男、お前わかるか?」
「な……。い、慰謝料ってのは、医者にいった金額のことじゃなくて……えと、その……とにかく、こういうときに払う金のことだ」
……やっぱりバカだ、こいつら。残り二人もフォローしないところを見ると、同じレベルなんだろうな。ちなみに、俺はこいつらをからかっただけで、ちゃんと意味は知ってるぞ。
「意味のわからない金を払う気はないし、わかっていてもお前らに払うつもりはない」
「てめえ、いきなりこいつらを蹴り飛ばしてくれたそうじゃねえか。こいつらが、てめえに何かしたのか? 何もしてねえだろ? つまりケンカ売ってきたのは、てめえってことじゃねえか」
「おかしなことを言う奴だ。俺はケンカなんかしてねえぞ」
「なんだと! 俺たちじゃケンカにもならなかったってのか!」
リーゼント頭、三度目の激高。でも、事実だろ。あ、そうか。一瞬で潰されたのがカッコ悪いので、テキトーにウソを入れて、このデカブツに話したんだな。それを隠したいってわけだ。不良ってのは仲間内でも見栄を張らなくてはいけないから面倒だよな。
「もういいだろ。金ならこいつが自分から払わせてくれって思うようにすればいいだけの話だ」
「そういうことだな」
リーゼント頭と包帯男が二人揃って俺に向き直り、ポケットからナイフを取り出した。
素手だと勝てないからって、いきなりこれか。賢明な判断かもしれないけど、安っぽい奴らだ。それにしても、こんな奴らが簡単にナイフなんかを手に入れて、持ち歩いてるなんて、警察は何をやってるんだろうな。本当に物騒な世の中だ。
よく、なぜ人を殺してはいけないのか、なんて問いがあり、その答えに法律や道徳、人間としての尊厳なんかを使ったりしてるのを見かけるが、俺の答えはもっとシンプルだ。人を殺していいという世の中は、つまり自分も殺されることを想定しなければいけない世の中だってことだ。戦争を考えればわかる。人を殺す代わりに、自分も殺される。だいたい、なぜ人を殺してはいけないのかって訊く奴は、自分が殺す側になることばかり考えていて、殺される側になるなんてことは考えていない。
こいつらもそうだ。ナイフを取り出したってことは、俺を刺したり切ったりすることは考えているんだろうけど、その後どうなるのかまでは考えが及んでいない。まして、自分たちが刺され、切られることなんてカケラも考えていない。そんなことにも頭が回らないくせに、いや頭が回らないからこそ、安易にナイフなんかを見せる。使う。脅すために出しただけ、なんて言い訳が通用するほど世の中は甘くない。それ以前に俺を相手にそんなマネをしたらどうなるか、骨の髄まで、心の奥底まで思い知らせてやる。
「どうした? これ見て、ビビったの――ぎゃあああああああっっっ!」
リーゼント頭が何か言おうとしたようだが、そんなものを律儀に聞くつもりはない。
ミドルキックを一閃。
左にいた包帯男の右手を蹴り飛ばす。ベニヤ板を割ったような感触。包帯男の手の甲が砕け、持っていたナイフがはじけ飛ぶ。それを確認しないうちに、右のハイキック。首の輪っかを粉砕。意識がとんでしまう前に、髪の毛をつかみ、顔面に膝蹴り。後頭部に向けて肘を打ちおろす。
包帯男を地面に投げ捨てたときには、デカブツが俺を狙っていた。包帯男への攻撃で虚をつかれたはずなのに、すぐにこの反応。さすがにケンカ慣れしている。だが――
デカブツの右ストレートに合わせて、カウンターのライトクロス。重い衝撃が腕全体に響く。構わず踏み込んで、左フックを肝臓に突き刺す。三連打。落ちてくる顔に向けてショートアッパー。のけぞったところに飛び膝蹴りを顎へ。しかし、この体格だけあって耐久力はあるらしい。鼻と口から血を撒き散らしながら、なおも殴りかかってこようとする。アウトステップ。距離をとる。空振りさせ、がら空きにになったこめかみへ右ハイキック。グラリ、と体が揺れる。目を白黒させ、焦点が合ってないにもかかわらず、それでも、腕を振ってくるのは大したものだ。だが、もうムリだろう。大振りし、デカブツの体が前に泳ぐ。ハエがとまりそうなパンチをダッキングしてかわしつつ、踏み込む。膝のバネを充分にきかせ、ロングアッパーを振りぬいた。デカブツの足先が、俺の腰くらいまで宙に浮き、半回転して落ちる。〇・一トン以上の体重を肩と首で受け止めるかたちで地面に叩きつけられ、デカブツは大の字に寝転んだ。
あと一人――
向き直ると、リーゼント頭はしゃがみ込んで、涙と鼻水を垂らしていた。
「うぎぎぎ…………いでえ……いでえよおおお~~~~」
押さえている太ももには、ナイフが突き刺さり、ズボンを赤く染めていた。さっき蹴り飛ばした包帯男のナイフだろう。
俺が近づくのにも気づかず、自分の傷口を見ては、泣き喚いている。
情けない奴だ。やはり自分が傷つくことになるなんて思ってもいなかったのだろう。その覚悟もなくナイフなんかを取り出した報いだ。
ジャリッという、靴が砂をかむ音が聞こえ、リーゼント頭はようやく俺の存在を思い出したらしい。見苦しい顔で俺を見上げてきた。
「ひぐっ……いでえ……」
バカが同じことしか言えなくなっている。お前が痛かろうが知ったことか。
「どうした? 俺を刺すつもりじゃなかったのか? そのナイフで。こんなふうに!」
いまだ左手に握ったままのナイフを見、俺はリーゼント頭の太ももに刺さったままのナイフの柄を蹴り込んだ。柄口までナイフは入り込み、ズボンを染める赤色が勢いを増す。
「ぐぎゃあああぁひひいいあああぐげいいい~~~~っ!」
意味をなさない叫び声。しかし、容赦するつもりはない。
潰す。徹底的に。完膚なきまでに。
首に蹴りを放つ。首の輪っかがどれくらいダメージを吸収するのか分からないが、ちょうどいい高さだ。もう一発。さらに一発。蹴りを受けるたび、ひぐっ、ひぐっ、と呻きをあげるが、やめるつもりはない。七発入れたとき、輪っかが壊れ落ちた。
うずくまろうとするリーゼント頭の後ろ襟をつかむ。
「も、もうやべで……」
「あん? 聞こえねえな。俺に刃物を向けたんだ。これくらいで終わるかよ。まだ、撫でてやった程度だぞ、こら」
「ぞ、ぞんな……ずびばぜん、ずびばぜん……がんべんしで……」
「聞こえねえって言ってんだろ」
無理やり立たせてもよかったが、そうはせず、引きずって歩き出す。向かうは公園の外だ。
「だじをしゅるぎ……」
何をする気……と言ってるようだが、涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになった声では、いよいよ何を言ってるか分からなくなってきた。ま、何を言おうと聞くつもりはないが。
だから、先に答えてやる。
「お前ら、治療費と慰謝料がどうこう言ってたな。十万だっけ? それを稼がせてやるよ」
「び……? ぼう、ぞでば……」
「遠慮するな。俺が払うわけじゃない。お前がお前の身体で稼ぐんだ」
公園を出る。ガードレールの向こうでは、車やバイク、トラックが気持ち良さそうに走っている。帰宅ラッシュ前なので、朝のような渋滞はまだ発生していない。広い幅の道路だけあって、どの車も法定速度を無視して走り去っていく。
「どれにする? どうせなら高そうなのがいいよな。いい車に乗ってるってことは、金も持ってるだろうし。それとも、何かの営業車にするか。会社のメンツを気にして、たっぷりと保険料で支払ってくれるぞ。そうだな。できるだけスピードを出してるやつの方が狙い目かもしれないな」
「――――! じょ、じょうだん……ば……」
俺が何をするつもりか分かったのだろう。そして、俺の顔を見て、それが脅しや冗談でないことも分ったのだろう。ただでさえ血の気を失って真っ白な顔をしていたのが、さらに蒼白になった。目だけが気持ち悪いくらいに血走っている。
そして、動かない身体を必死に動かして暴れ、逃げようとする。しかし、逃がすわけがない。
「びやだ! ばなぜ、ばざじでぐだじゃい! じゅびばじぇん、じゅびばじぇん!」
「だから、何言ってんのか分らねえって。おいおい、これから交通事故に遭うやつがナイフなんか持ってたら、おかしいだろ」
「ぐびぎゃっ!」
ナイフを握り締めたままの左手を靴底で踏みつけた。
「そうか。これも抜いておいたほうがいいのか」
太ももに刺さっていたナイフを遠慮容赦なく抜きとる。治まりかけていた血がまた噴き出た。ズボンがぐっしょりと濡れている。しかし、太い血管を傷つけている様子はない。止血さえしっかりしていれば、病院にでも行って縫えば終わりだったろう。俺が相手でなかったら。
「おい、いいのが来たぞ。見ろ。あのトラック、携帯で話してやがる。運転中の携帯電話使用禁止なんてのは、免許のない俺でも知ってんのに、バカな奴だ。しかも、けっこうなスピード出してやがる。よかったな。ここはひとつ、交通マナーってのを身をもって教えてやれ。授業料は、慰謝料に加算して、ふんだくってやれ」
「びやだ…ばなじで……」
四tトラックが走ってくる。俺はそれに合わせられるようリーゼント頭の襟首を持ち上げる。
「ぼべんざだい……じゅるじでぐだだい……」
「タイミングが大事だよな。避けられたら意味ねえし」
「だじげで……だじゅげじぇ……」
「大丈夫だ。お前を道路の真ん中に放り投げるくらい朝飯前だ。安心して任せておけ」
「じゅげげりゅ……だじゅげりらが……」
「よし、いくぞ。い~~ち」
「ぶががががが……!」
「にぃ~~~の」
「げぶうあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!」
「リュートさん!」
その声にタイミングが狂った。
腕が動かなかった。
目の前をトラックが走り抜けていく。
声のした方を見ると、竹刀をもった薬師寺がいた。
その後ろには、晶子と朋子。梨鈴だけが遅れて歩いている。
「だ、大丈夫ですか?」
息を切らせながら言う薬師寺に、俺はとっさに言葉を返せなかった。何を言われたのかが分らなかった。心配され、気遣われる言葉というものを長く受けたことがなかった。それが俺に言われたのだと、気づくことさえ忘れていた。
「ケガは? ケガはないですか?」
「…………あ……ああ」
覗き込んでくる大きな瞳。それを綺麗だと思い、そこでようやく我に返った。
「俺がケガなんかするかよ。なんだ、こいつ、邪魔だな」
白目を剥いて気を失っているリーゼント頭を放り捨てる。車道とは反対方向に。
「あんな奴らの攻撃、一発も喰らっちゃいない。おかげで、すこぶる元気。絶好調」
「だから言ったんだよ。心配するだけ損だって」
薬師寺の脇から顔を出し、梨鈴がジト目で俺と薬師寺を見る。
「それなのに、ミカちゃんから竹刀まで借りてさ。ムダな体力つかっちゃったねえ」
「そんな、これは……」
「うむうむ、言わずとも、分ってます。分ってますよお」
一人うなずきながら、梨鈴は俺の横をすり抜ける。
薬師寺たち三人には見えないように路上から何かを拾い上げた。それがナイフであることを分っているのは俺だけだろう。ナイフ二本。しかし、梨鈴がどんな顔をしてそれをポケットに入れたのかまでは、俺にも見えなかった。『鬼娘』の二つ名がしめすような凄惨な笑みを浮かべていたのかもしれない。
「……えっと、じゃあ、本当に大丈夫なんですね」
「大丈夫だって。俺がこんな奴らにどうにかなるわけないじゃねえか」
「……そうですか。良かった……」
緊張していたのだろう。ため息のように言うと、薬師寺の体から一気に力が抜けた。
「でも、どうしてこんなケンカなんて……」
「そうッス! 助けてくれたのは、ありがたいッスけど、ケンカしたなんて学校にバレたら停学か、ヘタしたら退学になるッスよ。そうなったら、どうする気なんスか。……いや、助けてくれたのは本当にありがたかったッスけど……」
「そうなのです。そうなったら、立ち上げたばかりの文芸部だって、いきなり取り潰しになるかもしれないのです。ルリルリがせっかくガンバろうとしてるのに。リューリューだって、そういうのはヤなはずなのです。そういったことまで考えてなかったのです? ……でも、助けてくれたのは嬉しかったのです。ありがとうなのです」
「だぁいじょうぶだって。不良がケンカしてやられたからって、学校にチクるなんてカッコ悪いマネしないっての。不良は不良なりに、ちんけなプライドと役にも立たないメンツってやつは持ってんだからさ。リュートちゃんたった一人に三人がかりでケンカに負けましたなんて、仲間内でも話せないよ」
「本当ッスか?」「大丈夫なのです?」
「見物人もいなさそうだし、問題ないんじゃないかな。よかったね、リュートちゃん」
「おいおい、ちょっと待てよ。誰がケンカしたって?」
「え……?」「誰って……」
「俺はケンカなんかしてないぞ」
俺の発言に晶子と朋子がキョトンとした顔をした。梨鈴がため息をついて、首を振りながら額に指をあてる。
「いいか。俺はさっき言ったように、一発も殴られてはいないし、蹴られてもいない。殴られる前にすべて片付けた。触れられることさえなくな。わかるか? つまり俺はケンカなんかしていないってことだ。おっと、だからって勘違いするなよ。イジメじゃねえからな。イジメなんて腐ったマネは大嫌いなんだ」
「あの……?」「それって……?」
「やれやれ、物分りの悪い奴らだ。仕方ない。教えてやろう。そもそもケンカとは――」
「あっああ~~~っと、リュートちゃん?」
俺が晶子と朋子に高説を述べてやろうとしたとき、梨鈴がおかしな声をあげた。見ると、片手を謝罪するように顔の前に出し、苦笑を浮かべている。というか、あれを苦笑というのか? イタズラが見つかったのを誤魔化すような、イタズラが成功したのを喜んでいるような、そんな顔だぞ?
「言い忘れてたんだけどね? 一般にいうケンカって、どちらかが殴ったり蹴ったりしたら、そう言うんだよ。相手に殴られてたり蹴られたりしてなくても、リュートちゃんが殴ったり蹴ったりしたら、それはケンカって言うんだよ。まあ、どうしてもケンカでもイジメでもないって言うなら、違う言い方をするけど、その場合……暴力事件? どっちにしても、『優しい人間』がすることじゃないよねえ」
あ……いや、事件というのは大げさじゃないか? 何を言ってるんだ、梨鈴くん?
確かに、ケンカでもイジメでもないけれど……?
ん? 今、聞き捨てならないことを言ったよね?
殴られたり蹴られたりされなくても、俺が殴ったり蹴ったりしても、ケンカ……とか何とか?
ウソ? いや、でも、あれ?
あれれれれれ?
う~~ん。でも……そうすると――
「……じゃあ……もしかして、俺が今したのは……」
「ケンカだねえ」
おそるおそる訊いた俺の質問に、梨鈴が一刀両断に答える。
「おい……まさかとは思うが……昨日の朝のも……」
「ケンカだったねえ」
――――!
振り向く。晶子と朋子が無言でコクコクとうなずいた。
――――!!!
脳内で雷鳴が轟く。地響きを立てて、すべてを崩していく。
そ、そんなバカなぁ!
なんてこった。お、俺がケンカをしていただと……。『優しい人間』を目指すこの俺が……。
昨日、高らかに梨鈴に宣言しておいて、そのすぐ後にケンカしていた……?
とんだ間抜けじゃないか……。
みっともない。みっともなさすぎるぞ、漆原竜斗。
『優しい人間』になるために、三十八冊もの本を読んだのも意味がなかったってことか?
いくら本を読んでも、ケンカをしてしまっては無意味じゃないか……。
ケンカをしない……そんなことは『優しい人間』の初歩の初歩じゃないか……。
それなのに、いきなりこんなところでつまずくとは……。
情けね~~。さっきまでの自信満々だった俺を今すぐ消去したいぃぃぃ。
穴があったらうずくまりたいってのは、こんな気分のことか。
すっかり『優しい人間』になりつつあるって思ってた自分が腹立たしいぃぃぃ。
なんて浅はかな男なんだ。
ローマは一日じゃ行けないって言葉もあるのに、もうたどり着いた気持ちでいたぞ。
千里ってのがどこの地名か知らないが、そこに行くにも一歩からだって言うじゃないか。
難問にして、難題。広大にして、無辺。そう自分に言い聞かせていたはずなのに……。
それなのに、俺ってやつはぁぁぁぁぁ。
ちくしょう……悔しい……悔しい、悔しい、悔しい、悔しいぞおおおおおっ!
「なぁに、一人百面相してんのさ、リュートちゃん。いい男が台無しだよ?」
「てめえこそ、何を嬉しそうな顔をしてやがる。そのニヤニヤ笑いをやめろ。そもそも、お前がちゃんと教えてくれてさえいれば、こんなことにはならなかったんだ!」
「言いがかりは見苦しいよお。僕はちゃんと言ったよ? ケンカしちゃったねえって。なのに、リュートちゃんは聞かなかったんじゃないか。覚えてないのかい?」
「うん。言ってたな。言ってたよ。言ってたけど、覚えちゃいるけど、そのときにもっと言ってくれても良かったんじゃないか? 俺が『優しい人間』になれるかどうかの瀬戸際だぞ?」
「……だって、その方が面白そうだったんだもん」
「てめっ、それがホンネか? 俺が『優しい人間』になれなかったらどうしてくれる?」
「いやいや、リュートちゃんなら僕ごときに惑わされず、自分の道を進まれるでしょう。何と言ってもリュートちゃんはリュートちゃんなんだから」
「え? あ? それは……褒めてんのか?」
「きひひひ、最大の賛辞だよ。でもさ、気をつけないと、晶子が言ってたみたいに停学や退学だってあるんだよ。高校は義務教育じゃないんだし。しかも、文芸部に入ったってことは、自分だけじゃなくて周りにも迷惑かけるってことだよ。あ、これも朋子が言ったっけ」
「ふん、そんなことは百も承知だ。俺は数々の苦難を乗り越え、『優しい人間』に――」
「そんなことは……どうでもいいんですっ!」
「な……る……」
薬師寺が叫んだのだと分かってはいても、何か現実離れしたことが起きたような気がして、一瞬言葉を失った。
呆気に取られた俺の顔を薬師寺が睨んでいる。不良をやってるバカや本職のオッサンの目つきに比べれば、子犬が牙を剥いているほどにも感じない。しかし、本気で怒っているのだけはわかる。
しかし、その理由がわからない。
むしろこの場合、俺の崇高な目的をどうでもいい扱いされたことに、俺が怒るべきじゃないのか。
晶子や朋子も薬師寺が大声を出したことに驚き、何も言えずにいる。おそらく今までにないことなのだろう。
梨鈴までが口をつぐんでいるのは、ずるいような気がする。俺に任せるつもりでいるのだ。
仕方がない。俺は少しおどけた口調で――
「おいおい、薬師寺、どうでもいいってことはないだろ? 『優しい人間』になるってのは、俺の目標であり、目的なんだ。そりゃ、文芸部に迷惑をかけ――」
――パンッ! と、音がした。
どこで鳴ったのか分からなかった。
耳にすごく近いところで聞こえた。
左頬が痺れていた。
視線が少し右にずれていた。
薬師寺に叩かれたのだと、気づくのに数秒かかった。
「文芸部なんて、どうでもいいんです……。ただ、ケンカは嫌いです……」
薬師寺の目に涙が浮かんでいる。
これは……どうするべきだ……?
女に叩かれたってのは、あまり経験がないぞ。美香になら「何しやがる、このデカ女!」と怒鳴る。梨鈴になら無言で軽く蹴りをいれる。この二択くらいしか持ち合わせがない。
しかも、泣くか? 何が哀しいのか知らないが、俺を叩いておいて泣くことはないだろ?
どうすればいいのか分からない。
何も言わずに逃げ去っていいのか? いや、それは男として、というより人間としてダメだろう。ダメな気がする。
だとしても、他に選択肢って何がある?
梨鈴パターンは……さすがにNGだよな。美香パターンは……ぎりぎり……アリか?
すがるように振り返り、梨鈴を見る。
なぜか忍び笑いをしていた梨鈴が俺を見て、親指を立てた。
……アリなのか?
向き直り、薬師寺を見る。うつむき、声を抑えて泣いている。泣きやもうとしているのに、涙がとまらないようだ。
この状況で怒鳴るのか? なんか間違ってないか……。
もう一度、梨鈴を見る。うつむき、声を抑えて笑っている。腹をかかえて笑っている。
……騙されてる。
危ないところだった。もう少しで信じるところだった。
しかし、どうする? 事態はまったく好転していない。だからって、このままってわけにも……。
仕方ない。とりあえず――
「わ、悪かった、薬師寺。とにかく……その……なんだ」
謝っておこう。何がどう悪いのか、さっぱり分からないが。
「ルリちゃんはリュートちゃんを心配したんだよ。ケガするんじゃないかってね」
梨鈴が横から顔と助け舟を出してきた。ウィンクしたところで誤魔化されやしないぞ。騙そうとしやがったくせに。
「あ? ああ、そういうことか。それは余計な心配ってやつだ。この俺があんな奴らに指一本触られるもんか」
「そうだよ、ルリちゃん。リュートちゃんの心配なんて、するだけムダだよ。山に向かって小石を投げたからって山が崩れる心配はしないよね。まあ、相手が五人以上いたら、もしかして、すり傷くらいできてるかなってくらいだね。でも、そういうのにしても、海に落とした貝殻で海の底が抜けるかもしれないって心配をするレベルの話だよ」
「そういうことだ。いまいち意味がわからないが、とにかく心配はいらないってことだ」
「……でも、私には叩かれました……」
ポソリと漏らした言葉に再び言葉を失いかける。
「えっと……それは……油断?」
「そうそう、油断したんだよね。ルリちゃんに叩かれるなんて思ってなくて――」
「同じことです。油断しても、しなくても、ケンカなんかしたら、ケガするかもしれないじゃないですか。死んじゃうかもしれないじゃないですか。取り返しのつかないことになるかもしれないじゃないですか……」
「……いや、そこまでのことにはならないだろ」
「……うん。それは大げさだよね」
「俺が相手をってことならあり得るかもしれないけどな」
「それは僕も否定できない。リュートちゃんならあり得る」
「けど、これでも手加減はしているんだぞ。紙一重でギリギリの線は越えないようにしているんだ」
「はみ出すことも、たまにあるけどね」
「半歩くらいな」
「よく言うよ。二、三歩はいってるよ」
「笑えねえ話だ」
「逆に笑うしかない話だよ」
「おかしくありません!」
「「はい! すいません!」」
笑おうとしたところへ一喝。
気をつけの姿勢なんて、小学校低学年以来だ。
「「……………………」」
そして、何も言わず黙ったまま睨みつけられる。
……これは、つらい。
何だろう。怖くはない。恐怖なんて微塵も感じない。なのに、逆らえない。しかも、それは俺だけでなく、梨鈴まで同じようになっている。
その梨鈴が俺のわき腹を肘で突いてくる。何かを言って、この事態を打開するよう促している。ずるい女だ。けど、確かに、このままじゃどうにもならない。
「……わかった。もうケンカはしない。今度こそしない。約束する」
「…………」
「え~~~と、だから、本当にごめ――」
「謝らなくていいです」
「あ、そう……?」
「………………………………本当ですか?」
「ん? あ、何?」
「本当に、もうケンカしませんか?」
「お? おお、もう二度とケンカなんかするかっての。言ってるだろ? 俺は『優しい人間』になるんだ。ケンカなんかやってらんねえっての。な、梨鈴」
「どうして僕にふるんだよ。まあ、僕はか弱い女の子だからね。リュートちゃんとは違うよ」
「よくそんなことが言えるな。けど、そういうことだ。薬師寺、これでいいか?」
訊ねる俺に、薬師寺は「はい」と言って微笑んだ。
別に薬師寺に許してもらう筋合いはないことはわかっているが、それでも、薬師寺が許してくれたことが嬉しい。そう思える笑顔だった。
カバンを学校に置いてきたことと、美香から借りた竹刀を返さなければいけないこともあって、薬師寺は学校に戻るという。
付き合う必要はないのだが、このまま別れるわけにも行かず、皆で戻ることになった。
芝枯のバカどもに救急車を呼ぶべきか、という晶子に、必要ないと梨鈴が答えた。
公園の奥を見ると、包帯男がヨロヨロしながら立ち上がっている。リーゼント頭は気を失って寝転んだままだが、こっちも自業自得の太もも以外は問題ないだろう。この二人でデカブツを運ぶとなったらたいへんだろうが、そこまで考えてやることもない。デカブツの目が覚めるのを待てばいいだけだし、どうしても必要なら自分たちで救急車くらい呼ぶはずだ。結論として、梨鈴の言うとおり、救急車を俺たちが呼んでやる必要はない。
梨鈴の言葉に朋子が同意し、晶子が迷いながらうなずき、携帯を取り出しかけてた薬師寺の背を押して歩き出した。
前を薬師寺と晶子、朋子の三人が歩き、その後ろを俺と梨鈴が歩いている。
先ほどの一件がウソのように、前を歩く三人は楽しそうに談笑している。
対して後ろの俺たちは無言。だからと言って、お互いの機嫌が悪いわけでも、気まずい空気が流れているわけでもない。ムリに会話を考えなければいけないような間柄ではないのだ。
俺としては前を歩く三人を見ているだけで、何となく楽しい気分になる。俺とは違う別世界を間近でのぞき見ているような、そんな気分。羨ましいのではない。悔しいわけでも決してない。ファンタジーの世界と現実世界を区別するようなものだ。見ているだけで幸せ。聞いているだけで嬉しい。だからといって、その世界と自分の居場所を間違えるほどバカじゃない。今の俺がこの三人の中に入れるわけがない。そんなことは分かっている。
しかし、いつか――
――いつか、俺が『優しい人間』になれたら、この輪の中に入ることが許されるのだろうか。
……キャラじゃねえよな。
ふと頭をよぎった言葉に苦笑を浮かべる。
今はまだスタート地点に立っただけだ。少しは走り出しているのかとも思っていたが、思わぬ勘違いをして、ただ足踏みをしていただけだった。
それは、まあ、いい。むしろ、たった二日で気づけたことは逆に幸運だったとも言える。
これからだ。ローマは一日で行けず。千里への道も一歩から。
もう一度、固く誓おう。
俺は『優しい人間』になる。そのためにも、もうケンカはしない。ケンカとは殴ったり蹴ったりすることだ。俺はもう人を殴ったり蹴ったりはしない。
よし! これでいい。
おっと、念のために確認しておかねば。また勘違いして、足踏みするわけにはいかないからな。
「おい、梨鈴。ちょっと訊きたいんだが」
「ん? どうしたんだい?」
前の三人に聞こえないよう、少し声を抑える。
「ケンカってのは殴ったり蹴ったりしちゃいけない。これは間違いないな」
「なんだい、そんなこと? さっき言ったとおりだよ」
「ふむ。そうかそうか。ってことは、肘や膝も当然ダメだよな」
「そりゃそうだよ」
「となると、関節技か投げ技ってことか。かなり限定されるな」
「…………」
「頭突きは? 頭突きはアリだよな?」
俺のマジメな質問に、梨鈴は新しいおもちゃを見つけた子供のような笑顔を見せただけだった。






