四角い窓の景色
短編です。
四角い窓。
僕が唯一許された、外の世界へと続く場所だ。
朝は木々がざわめき、小鳥が囀り、太陽の光が誰にも平等に与えられる。
でも・・・僕には平等じゃない。
ベットから動く事が出来ない僕にとって、太陽の光すら遠い存在だ。
開かない窓。
外気に触れる事は、僕にとって死を意味する。
母は、その命と引き換えに僕を産み落とした。
僕は未熟児のままこの世に生を受けたのだ。
そして、検査の結果判明した事。
それは、僕の体にはあらゆる抗体が存在しないという事だった。
父は、そんな僕を嘆き、いつの頃からか会いにすら来なくなっていた。
15年。
僕が、母を殺してから過ごした時間。
この無菌室に、僕は15年も暮らしている。
定期的に来る医師と看護師を除いて、僕に会いに来る者はいない。
僕は、何のために生まれてきたのだろうか?
僕は、なぜ生きているのだろうか?
会いに来ない父。
入院費だけを払い続ける生活に、父はなんとも思っていないのだろうか?
わからない。
僕には何もわからない。
存在理由が・・・・・・僕にはわからない。
移り変わる外の景色を、薄いシート越しにただ見詰める。
僕にはそれしかやることが・・・・・出来ることが無い。
無数に貼り付けられた電極が、僕の行動すら制限する。
時折鳴り響く機械音が僕の鼓膜を振るわせると、不快な感情が渦を巻く。
僕はなぜ・・・・僕はなぜ・・・・・生きている・・・・・
今日もまた、一日が始まる。
いや、今日という概念が、僕にはどうでもいい事だ。
また、一日中無意味に過ごす他、ないのだから。
何も無い。
何も出来無い。
本はもう飽きた。
「本が読みたい」と言えば、消毒されたどこか粉っぽい本が届く。
だがもう・・・本はいらない。
見た事が無い物を、いくら言葉で伝えられても、僕にはわからないのだから。
空は今日も青い。
蒼穹。
雲のない、青く晴れた空。
本で覚えた知識だ。
僕は知っている。
だって、目の前にあるんだから。
青く澄み渡った空。
あれが青。
本当に綺麗だ。
『空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた』
有名な宇宙飛行士の言葉だ。
1961年、ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させたユーリイ・ガガーリン。
彼が見た地球は、僕が見ているこの空と、同じ色をしているのだろうか?
見てみたい。
彼が見た地球を。
でも、僕には無理だ。
なぜなら、僕はここから1歩も動けないのだから。
今日もこのまま終わるのだろうか?
何も無く。
叶わぬ願いを描きながら、そして落胆するだけの。
そんな今日が終わるのだろうか?
「空はいいな」
ボソリと呟く僕の声。
ひさびさに声を出した。
何年ぶりだろうか?
しゃがれて潰れたカエルの様な声だった。
僕は声すら満足に出せないのか。
自分が本当に嫌になる。
空はいいな。
あれほど青く綺麗だ。
それに雲という仲間がいる。
時に黒い雲に蔽いつくされ、その姿を隠されても、必ずまた顔を出す。
仲間。
僕には居ない。
たった一人。
母も死に、父も来ない今となっては、本当に誰も居ない。
・・・・・やめよう。
気分が悪くなる。
こんな事を考えても、答えなど出ないのだから。
不意に、何かが聞こえた。
透き通るような声が。
僕には聞こえた。
誰かが、歌っているのだろうか。
『清廉なる我が友よ。その心をいつまでも、忘れず胸に秘めたまえ』
その言葉が、その歌詞が、何故か僕の心に響いた。
気が付けば、僕は涙を流していた。
なんだこれは・・・・
僕は今、泣いているのか?
何故?
どうして?
僕の心はこんなに震えているのだろう?
わからない。
わからないよ。
僕にこんな感情があっただなんて、僕は知らない。
怖い。
でも・・・・・不思議と嫌じゃない。
胸がホッと熱くなる。
この感覚は、とても心地良い物だ。
忘れたくない。
僕はベット横のサイドチェストからノートを取り出すと、書き殴るように言葉を紡いだ。
どうしてそうしたのか、僕にはわからない。
でも、もしかしたら、これが僕の生まれた理由なのかもしれない。
僕という存在を、このノートに書き記そう。
知ってほしい。
僕を。
僕はここに居る。
誰にも知られず生きている。
だから・・・・
僕は書く。
それから、何度も、何度も書き続けた。
毎日。
毎日僕は書いた。
1冊のノートが埋まり、2冊目のノートを埋め尽くすまで、僕はひたすら書き続けた。
そして、とうとう書けなくなった。
腕が、身体が、僕の行動を制限した。
電極の数が増え、室内には機械音がその存在を誇示していた。
僕はもう、動けない。
指のひとつも動かせない。
やっと終わる。
僕の時間が。
15年間。
僕はいっぱい願ってきたけど、今の願いはたったひとつだけ。
このノートを、誰かに託したい。
そこへ、父がやってきた。
おそらく、僕の最後を見に来たのだろう。
数年ぶりの父の姿は、とてもやつれて年老いて見えた。
無塵衣から伸ばされる父の手が、そっと僕の頬に触れる。
宝物の様に触れる手が、僕の頬をゆっくり伝う。
ああ、父さん。
そんなに優しくしないでください。
僕は貴方に、何もしてあげられないのだから。
もの悲しげな父の瞳に、僕は涙を流した。
ごめんなさい。
母を奪って。
そして・・・・先に行きます。
本当に・・・ごめんなさい。
やがて僕の鼓動が活動を止める。
ゆっくりと、僕の意識は薄れていく。
さようなら。
父さん・・・・・・
「逝ってしまった」
物言わぬ我が子の前で、1人の男性は目を潤ませた。
隣の看護師が黙祷を捧げる中、医師がそっと手渡した。
「息子さんの残した物です」
それは、少年が自らを書き記したもの。
美しい調べを聴いて、思い立ったかのように、必死に書いた2冊のノート。
男性はそれを受け取ると、大事そうに胸に抱えた。
「う・・・・うぅ・・・・」
溢れ出る涙を拭わず、崩れるように息子に縋り付く。
室内には、家族を失い打ちひしがれる男性の、泣き声だけが聞こえていた。
それから3年。
1冊の本が人知れず発行された。
本屋の片隅に置かれた本は『四角い窓の景色』と書かれていた。