08.壁にある耳より本物の耳で聴け!
もう少し頑張る。
そう誓いを立てたところで、できることは、ひとつだったりする。
薄暗い中を散歩する。それだけ。
(………なんだか、な)
頑張る方向性は、これで合っているのだろうか。
正直、自信が無いです。
(劇的に関係が変わるような出来事が起きたらいいのに、なぁんて)
例えば、そう、二人で異世界に飛ばされちゃうとか、就職先が同じで先輩後輩の間柄になっちゃうとか。
自分の発想を、鼻で笑う。
異世界なんてありっこない上に、そんな吊り橋効果狙う前に、文化も何も違う土地で生活することがまず大変そうだ。それに就職先って、何年後の話なの、自分。まあどうせ何年も待ったあとなんだから今更二、三年………いやいやいや、長いよ!
(じ、地道に行こう。そう、地道に。そう、ね!)
よし、と顔をあげたら、バッチリと片思い相手と目が合った。
「あ…」
思わず、声が零れる。次いで、先程までの幼稚な妄想が頭に広がり、それとは正反対で、スポーツウェアに身を包み、爽やかに現代を生きている彼が視界の中央に立つ。
途端に、恥ずかしくなった。
頑張ろう。そう思った時が、私にもありました。
例外なんて作っていちゃ、キリがないし、意味も無いんだけど。
(ごめんなさい、ほんとごめんなさい)
―――志野原ことね、逃げます。
踵を返して全力疾走。低い靴でよかった、と心底思う。それにしても、大学生のうら若い女の子が全力疾走ってどうなんだろう、ビジュアル的に。現実逃避気味に、そんな無意味なことを考えていると、後ろから、聞こえるはずのない声がした。何かを言っている。待って、と聞こえる。………え、“待って”!?
もしかして、もしかしなくても、追い掛け、られてる?
え、どういう状況?
混乱する頭に、『女子大生を追い掛けるスポーツウェアの男性』という光景が浮かぶ。え、あれ、それ、ちょっと…。
(酷なことをさせているんじゃ…!?)
私の頭が、ポーンとその言葉を弾き出したと同時に、背後から、少し情けない、悲鳴のような声がした。
「た、頼むから止まって! 止まってください! ストーップ! そうじゃないと、僕が犯罪者になっちゃうから!」
やっぱりですか! 肩を震わせ、思わず立ち止まる。近くの同年代の女の子二人が、コソコソと話をしているのが聞こえる。ごめんなさい、それ、その人が悪いのでは決して無いんです。ただ、私の妄想が恥ずかし過ぎて起こっただけなんです。
居た堪れない気持ちのまま、彼の方を恐る恐る振り返る。
彼は、肩で息をしている状態だった。そのままよろよろと、その場に蹲ってしまう。私は慌てて駆け寄った。
「あ、あの………大丈夫、ですか?」
オロオロしていると、視線が向けられる。荒い息をしながらも真剣な目を向けられ胸が高鳴るが、平常心、と唱えることで動揺を薄める。
「ごめんなさい、もうちょっと待ってください」
彼のお願いを私は聞き入れた。
追ってきてくれて嬉しい、なんて。
そんなこと思ってない。…少ししか。
ひとまず立ち話もなんだから、と、近くの公園に入る。未だに辛そうな彼のため、というよりも自分がまず一旦落ち着くために、ジュースを買いに行くことにした。
(ど、どーしよう…)
ぐるぐるしながら、スポーツドリンクを買う。ガコン、と音が鳴る。出す。自分の分を買うためにお金を入れ、しばし悩む。甘いものにしよう。オレンジジュースを買った。ガコン、とまた音が鳴る。ちょっと落ち着いた。
ベンチに戻ると、だいぶ息が整った様子の彼がいる。どうぞ、と手渡すと、200円を渡された。そんなにしない。慌てて返そうとするが、いいから、と押し切られてしまった。
「あの…」
彼が、静かに口を開く。なんの話だろうか、と身体が震えた。当たり障りの無い話ならいいな、と、到底そんな話では無さそうな空気の中で、思う。
「えっと、あの後、特にお変わりないですか。へ、変な人がいたりとか」
予想外に、普通の話題だ。しかし、触れて欲しくは無かった。…私が、変に凄んでしまった、あの件について。
「えっと、大丈夫、です」
「あ、お、そ、そうですか。それは、良かったです」
「………」
「………」
やっぱり。
(やっぱり怖い子って思われてる気がするー!)
だらだらだら、と変な汗が出てくる。この上、汗臭かったらどうしよう、なんて思うと泣けてくる。
女子力が、今、切実に欲しい。
あの合コンの女の子から極意を訊けば良かった、と今更どうにもならないことが頭に浮かぶ。いや、訊けても真似なんてできないから、どうしようもないか。
「あ、あの」
「あ、は、はい」
「その…か、格闘技っ、でも習ってるんですか?」
…相当、強く見えた、んだろうか。
見えたんだろうな。
実際、それなりに、強いわけだから。
「そ、そうですね。少しだけ…」
そう、少しだけ、のはずが、変なところで変に才能が開花してしまったのだ。
我ながら、何故そんなところで、と思う。文化部なのに、と。
現に、ほら。彼が私を見る目には、「あれが、少しだけ…?」と書かれている。違うんです、と全力で否定したいが、それもできず、居た堪れなくなる。
あの合コンの場なら、何を言われても平気だったのに。相手が違うだけで、こんなにも違う。
ズーン、と沈んでいる私に、彼が恐る恐る口を開いた。
「あの…僕、あなたに訊きたいことがあるんです」
「…なんでしょう?」
この上まだ何か、爆弾が…?
聞きたくないな、と思いながら、訊き返す。
「僕とあなたって、会ったこと、ありましたっけ?」
え、と声が漏れた。
会ったことがあったか。
それは、いったい、“どんな答えを期待して、問われたものなのか”。
ゴクリ、と唾を飲み込む。俯いて、再度自分に言い聞かせる。平常心、平常心。
同時に、胸に迫る想い。
言わなくていいの、と。
私に訊く、私の声。
「えっと。夜に散歩する時にお見かけしましたし、あとそれから、あの日も…」
「それよりも、ずっと前に」
息を呑んだ。
ずっと前。
私と、彼が、ずっと前に、会ったのだとすれば、それは、“あの時”以外ではあり得ない。
乾いた唇を湿らせ、「はい、一度だけ」と掠れる声で返した。
「でも………些細なことですから」
些細。
その言葉に、嗤ってしまう。
些細なんかじゃないでしょう、嘘つき。些細であっていいわけがないのに。
「すみません、すぐに思い出せなくて…どこで、お会いしていたんでしたっけ」
追い込む声に、黙り込む。
嘘を、吐くの? これ以上、重ねて?
(それは、嫌だな)
香里の声がした。
『後悔だけは、しちゃだめよ?』
後悔。
しそうだ。このままじゃ。
正解なんて分からないけれど。
どのくらいの時間だっただろう。私は、覚悟を決めた。
「で、電車で。…っ、すみません、用事があるのでこれで」
正直に全てを話す勇気は、無かった。
私は、逃げるように走り去った。
(あ、また連絡先訊けなかった…!)
でも。
まず、一歩。進めた。はず。
「はあああああ〜…っ」
大きく、息を吐く。そして、唐突に気付く。
進めた? いやいやいや。ばか。私の馬鹿。確かに言えたけど、あれじゃ本当に、相手に挨拶すらせず、逃げてるじゃないか。失礼だ、本当に。
(ご、ごめんなさい…っ)
非常に今更な謝罪を、心の中で唱えた。