06.相手を想って空回り
「志野原ことねです。二十歳です。大学生で、えーっと、趣味は………」
一瞬困り、止まった隙を突いて、隣の女の子が私に抱き着きながら、笑う。
「読書と護身術だよねーっ、ことちゃん!」
「読書はイメージあるけど…護身術!?」
「そうなの、そうなの。意外だよね。でもすっごく強いんだから!」
確かに読書は趣味なんだけど、護身術はあくまで護身のためであって趣味でやっている感覚では無いんだけどな。それに強いっていったって、男性より力を付けるものではなくて、いなして逃げるためのものなのだけれども…。
もっと元を辿れば、彼女と話したのは数回限りで、ことちゃんなんて呼ばれる間柄でもないし、私が強いかどうかだって見たことないでしょう。
違和感ありまくりな状況に、けれど私は場の空気を壊すことを恐れ、黙して合わせた。愛想笑いだって、バレているかな。どうなのかな。
それから、思う。合コンって怖いな。
そもそも私がこんな時間に外にいること自体が、異例なのだけども。
ははは、と笑いながら、ギギギ、と首を動かし、友人の香里を見る。彼女の顔は、『ファイト!』と言っている。
私がここにいるの発端は、私の知らない誰かが、急用で参加できなくなったことだ。そこで白羽の矢が立ったのが私だったと言うわけだ。レベルが低すぎもせず、かといって高すぎもせず、かつ参加者一人のお友達。うん、狙い目。
上手い言い訳が思いつかなかった私は、結局今、この場にいる。
「でもなんで護身術なんて?」
目の前に座っている男性が、好奇心を剥き出しにして訊ねる。
「あ、それあたしも知りたぁい!」
隣の女の子が、便乗した。これは、うん。馬鹿でもわかるよ。この子、目の前の男性を狙ってるんだ、って。なんなら席を変わるから、この話を即座に流して欲しい。
私はなるべく穏やかに見えるように笑いながら、答えた。
「若いうちに、運動する習慣を身に付けようと思ったんです。それなら、実利がある方がいいかなぁと」
「ぷっ」
目の前の男性が、思わずというように笑った。隣の女の子もケラケラ笑ってる。
「あーっ、おっかし! ことちゃんって、ホント少しズレてるよねー」
「そ、そうかなぁ…あはは」
帰りたい。割と本気で。
私は愛想笑いが引き攣らないようにするだけで、精一杯だった。大体、私、この子の名前すら知らないのに。…いや、それは単に最初の自己紹介の時に私が聞き逃しただけかな。辛うじて苗字は憶えている。
こういった席が初めての私は、とにかくどうしたらこの場で後腐れなく終われるか、ということばかり考えていた。疲れる。すごく疲れる。
だからか。
「つかれた…」
その言葉が、自然と口から零れた。
程々に喋りながら、食事をとったが、お腹が膨れた感じがしない。食べる量が少なかったこともあるが、それよりもリラックスして食べれなかったことが大きいだろう。しかし食欲よりも睡眠欲。ベッドにダイブしたい、という気持ちの方が高い。
なんの因果か、目の前の男性とは連絡先交換をするハメになった。いや、正確に言うと、少し違う。
アドレス教えてよ、という男性の言葉に、私は辛うじてソレはマズイということを知っていたので(隣の女の子の殺気によって、だ)、携帯を忘れたという言い訳で、なんとか食い繋いだ。それで勢いを削がれたのか、なんなのか、男性は、例の女の子とも連絡先を交換していない様子だった。
だというのに。
去り際に強引に渡された名刺。私はそれを前に、困り果てていた。
『大学生になったんだから、過去の恋なんてスッパリ切り捨てて、次に進むべきだよ』
香里がそう言って、私を窘めたのは、もう随分前のことだ。私は曖昧に笑って、否定も肯定もしなかった。
彼女が私の為を思って言ってくれていることは、よく分かっている。
相手が、同級生なら良かった。いや、先輩でも後輩でも、あるいは教師という立場であっても。多分、私の恋の相手より、近しい。
恋に落ちた相手は、見ず知らずの男性。年齢不明。職業不明(スーツを着ていたから、社会人の可能性大)。おまけに会ったのは、たったの一度きり。名前も知らない相手だ。――私が香里の立場でも、きっと、同じことを言う。
再会の予定なんて、どこにもない。
そんな相手をずっと想うだけなんて、勿体無い。ましてや、相手には最悪妻子がいるかもしれないのだ。
暗い夜道を、トボトボと歩く。できれば、こういう道を、こういう時間帯に歩きたくはない。いつ何が、どこであるかなんて、誰にもわからない。
――あの日だって。いつも通り高校に行く為に、通い慣れた電車に乗った。ただそれだけだったのに、痴漢に遭った。
怖くて、叫ぶことなんてできなくて。ひたすら耐えることしかできなかった私を救ったのは、ある男性だった。
「やあ、久し振り! こんなところで会うなんて、奇遇だね!」
彼は親しげに私に声を掛けたが、私は彼が誰なのか分からなかった。親戚だよと言ったけれど、私の親戚に彼のような人はいないはずだ。多分。
混乱する私を余所に、彼は――痴漢のいる方向へ、身体を割り込ませた。突然上がった悲鳴。そして。
「失礼。なにせ、混み合っているものだから。…本当にとても混んでいる。足ではなく、手なんかが誤って触れても、おかしくないくらい」
丁寧なのに、底冷えするような、声。
それでようやく気付く。この人は、私を助けてくれたのだ、と。
お礼を言いたかったのに、言えなかった。痴漢に遭ったことが恥ずかしくて。だって、私、そんなに綺麗じゃないし、可愛くもない。可愛ければ、あぁこんなに可愛いんだから仕方ない、って言ってもらえそうだけど、そうじゃないから。もし、貴女にも落ち度があったんじゃないの、なんて思われたら…立ち直れない。
「君にとっては、赤の他人である人に、急に話し掛けられても、困るだけだよね。ごめん、ごめん。大丈夫、僕は黙って立っているから!」
―――違う。
違うんです。困っていたのではなくて。ただ………。
私は、泣きそうになりながら、だけど何も言えずに、俯いた。
何駅目かで、彼は「それじゃあ」と一声掛けて、降りて行った。私はそれを、ただ黙って見送った。
結局お礼も、言えなくて。
高校に着くなり、泣きながら香里に縋った。結局、二限目まで出れなかった。
それで、終わるはずだった。
その時のことなんて、二度と思い出したくない。…はずだった。
同じ目には遭いたくなくて、護身術を始めた。運動神経は程々だったけれど、これに関しては、非常に真剣にやった。明日は我が身。それを体験しておきながら、これまでと同じまま過ごすのは、あまりにも怖かったから。
私にとってあの日は、思い出したくもない、日。
それなのに。
『やあ、久し振り! こんなところで会うなんて、奇遇だね!』
その声を。
脳裏に浮かべる度に、高鳴る鼓動が。
どうにかなりそうだった。
―――これを、この気持ちを、恋と呼ぶのかはわからない。
助けられた恩があることは事実だったけれど。でもまさか…自分がそんなに単純だとは思っていなかった。
だって、何も知らないのに。
恋に対して、少し潔癖なところがあるのだという自覚があった。
何も知らない、ただ一度助けてくれただけの相手を、好きになるだなんて。
そんなの、あまりに、短絡的で。一時の感情なんじゃないの、って思えて仕方がなくて。
否定して、否定して、否定して。
それなのに、否定しきれなくて。
高校を卒業して。大学に入学して。ズルズルと、心に残ったままの気持ち。私はそれを、ようやく恋だと認めた。
(認めたからって、何も進展は無いんだけど…)
はあぁ…、と息を吐く。虚しい。
その私の横を、風が抜けた。
「………ぇ」
立ち止まり、慌てて振り返る。
離れていく背中。スポーツウェアを着た男性の顔は、見間違いじゃなければ。
「うそ」
―――私が恋に落ちた人。
私は、呆然とその背中を見送った。
夜道は危険。だから、出歩きたくない。だけど。
だけど…。
(数日に一回…)
そのくらいの頻度で、彼はここに現れる。今までどれだけ祈っても、もう二度と、会うことだってできないだろうと思った相手が。手を伸ばせば届きそうな位置にいる。
なんてことだろう。
自然と、しなくていいオシャレに、力が入る。
「危ないわよ」
心配そうな顔をする香里に、私もそう思う、と返す。
「そんなことずっと続けるくらいなら、話し掛けた方が絶対いいって! 待ってるだけじゃだめよ」
至極正論なソレに、けれど私は頷いて同意はしても、行動には移せずにいた。
―――怖かった。
もし、憶えていなかったら? 既に付き合っている人がいたら?
夢見ていたかったのだと、思う。現実を受け入れる準備が、できていなかった。好きだ、と伝えることで、相手の困った顔を見るかもしれないと思うと、余計に。向こうにとってみれば、面識の無い娘だ。いや、私にとっても、彼は面識が無いといっても差し支えないほど、一度きりの邂逅だったわけで。
話し掛けようとして、諦める。
そんな、進展の無い恋をする日々を送っていた。
ここからは、彼女のターンです。
彼の視点からは見えなかったこと、分からなかったこと(当然、逆もありますが)、伝えられるようにがんばっていきます!