04.甘酸っぱいというより苦い記憶
それを運命と呼ぶなら、あえて否定はしない。ただの偶然だと言われても、同じく否定をしないように。
日常とは一線を画しているが、しかし特別かと言われると、そうではなかっただろう。
ただ、その日はたまたま僕が一本早い電車に乗ったこと。それだけは、紛うことなき偶然だったけれど。
揺れる車内で、吊り革に掴まる。学生の通学ラッシュに完全に被った時間帯。座る余裕などないし、立っていても他者との接触が免れることは無いだろう。それくらいには、混んでいた。
昨今は、女性側が男性を嵌めて、痴漢を作り出すともいう。一部男性が女性に対して不埒を働くことも(残念ながら)事実なのであるが、逆のことを考えると、男性側も無関心・不用心ではいられない。
女性専用車両を作るなら、男性専用車両も作って欲しい。そうすれば、痴漢冤罪に怯える日からオサラバできる。いや、しかし、どうだろう。あまりにも華が無いから、結局は男女共用車両に乗り込んでしまうかも。
そこに、『まさか自分が巻き込まれるとは思えない』という根拠なき絶対的自信があるのは否めない。一年後に必ず痴漢の冤罪を掛けられます、と言われたら、華など求めず素直に専用車両に行くだろう。…まあ、男性専用なんて無いんだけどね。
そんなことをとうとうと考えながら、必死に吊り革に掴まっている。もう片方の手では、鞄をしっかり握って。
この中にも、事件に関わる人がいるかもしれないのだ。僕は鷹揚に周囲を見渡し、そして首を傾げる。
(………おや?)
なんら変哲のない、電車の中。
しかし僕は、微かに違和感を覚えた。
軌跡を辿っていく。すると、顔を俯かせて、肩を強張らせた女の子がいた。市内の高校の制服だ。残念ながら、それ以上は分からない。僕はそういうものに疎い性質だから。
だけど、分かることもあった。
震える肩。俯く顔。…背後でにやにや笑っている男性。
やっぱり、女性専用車両は必要だ、と思う。たとえ男性専用がなくても。あん女性が出るなら、あるべきだ。
僕は考えた。僕にはよく分からない感覚だが、女の子は、自分が痴漢にあっていたことを知られることも、恥ずかしいというか…嫌、らしい。別にいいじゃないか、何も悪くないのだから、と僕は思うのだが、それは彼女の気持ちを無視する言い訳にはならない。
助けない。見て見ぬ振りをする。
そんな選択肢は採れなくて。
僕は慌てる頭で対策を捻り出し、逡巡の後に、行動した。
「やあ、久し振り! こんなところで会うなんて、奇遇だね!」
マナー違反にすらなりかねない声量で、女の子に呼び掛けながら、人の間をすり抜けて、彼女に近付く。迷惑そうな顔で見られたが、知ったことか。優先度は僕の事情の方が上だ。
彼女はその大声に顔を上げ、そして自分を見ながら迫ってくる男性の姿に、目を見開いた。それから、思案顔。誰だっけ、と思っているのかもしれない。
「前に会った時はもっと小さかったのに、もう高校生かあ」
犯人も、まさか人と話をしている最中に事を進める気は無いようだ。僕は彼らの間に割り込み、そのついでに、男の足を事故に見せ掛けて踏んづけた。最初から狙いを付けていたから、間違っていないはず。
「いっ…」
悲鳴を上げた男に、笑い掛ける。
「失礼。なにせ、混み合っているものだから。…本当に、とても混んでいる。足ではなく、手なんかが誤って触れても、おかしくないくらい」
笑っていない目と、それから何かを示唆するような物言いに、男はサッと青褪めたかと思うと、恐れ戦いたのか、ちょうどタイミングよく開いた扉を抜け、駅のホームを足早に逃げて行く。
彼、本当にここで降りて良かったんだろうか。不意に思ったが、気にしないことにした。向こうが僕のことをどんなに忌々しく思おうが、被害者は女の子で、加害者はあの男だ。会社に遅刻しようが、それこそザマァミロくらいにしか感じない。
「あ、あの…」
女の子が、躊躇いがちに声を発した。
「はい?」
「あの…」
彼女はその後も「あの」を二回ばかり繰り返すと、黙り込んでしまった。彼女もおそらく混乱しているのだろう。
「…悪いね」
僕は、苦笑しながら言った。
「君にとっては、赤の他人である人に、急に話し掛けられても、困るだけだよね。ごめん、ごめん。大丈夫、僕は黙って立っているから!」
言い切ってから、彼女側にある手を、吊革へ。もう片方の手で、バッグを握る。よし、自身の冤罪対策はしっかりしたぞ。うん。
それから、ろくな会話もしないまま、僕は電車を降りた。彼女は、どうしたらいいのかわからない顔をしたまま、僕を見送った。
良いことをした、という感覚も薄い。
ただこれから会社かと思うと憂鬱だった。いつもより早い時間に会社に着き、仕事の準備をしたり新聞を読んだりしていると、先輩が出社して、僕に言う。
「お? アサヤ、いつもより早いじゃないか」
「おはようこざいます、先輩。アサヤじゃなくてトモヤです」
時間帯が変わろうが、いつも通りの変わり映えの無い応酬だ。日常と非日常の間をふわふわしていた意識が、日常側に引き戻される。
あの女の子は、大丈夫だっただろうか。
最後にふとそんな想いが過ったが、その日の夜には見事に忘れていた。
『彼女はお前をなんらかの形で知っていた』
三つ目、と指を立てた先輩の姿が脳裏に浮かぶ。
「あの時の女の子ってこと…?」
一人、おそらく正しい答えであろうことを思い浮かべる。
自分が親戚を騙り、なんとなく助けてみたような形になった、あの女の子。あれは確か、三年前のこと。高校一年生だとしても、大学生にバージョンアップしていることは確実だ。
「うわ…全然、気付かなかった」
『彼女にとって変質者をとっちめる場面は恥ずかしいことで、知り合いに見られて赤面した』
『例えば、大通りで派手にすっ転んだとする。見ず知らずの人に見られるのと、好きなやつに見られるの、どっちが恥ずかしい?』
追い打ちを掛けるように、先輩の言葉が僕の心を刺してくる。
うん、そうだよね。僕にはよく分からないけどさ、きっと嫌だよね。そんな過去を知る人がいるなんて。しかもそいつは、過去にどこで会ったか、などと訊いてくる。うわ、最悪。
『はい、一度だけ。でも………些細なことですから』
これは、流石に。
鈍感な僕でも分かる。
「…全然、些細なことじゃないだろー」
僕は頭を抱えた。
思い出した方が良かったのか。
思い出さない方が良かったのか。
本人のみぞ知る、ですね。