02.想いは大体逆方向に伝わる
変質者撃退事件。
僕は先の出来事を、そう呼ぶことにした。彼女の印象が180度ひっくり返り、更に90度回った。元と同じではないけれど、なんだか不思議な心持ち。
今日も今日とて、僕は走っている。
艶然と笑っていた顔。耳まで赤くして俯いた顔。子供のように目に涙を浮かべていた顔。様々な一面が流れては消えて行く。流れる毎に、僕の胸は不自然に高鳴る。走っている所為かもしれないけれど。不整脈かな。まさか。
段々と息が上がってきた。いつもより、自分のペースが速い気がする。落ち着け、自分。
(これは…いったん仕切り直しだ)
僕は早々にマラソンを切り上げた。日常生活に支障が出ている。
いつまでもこのままではいけないので、終業後、マラソンを休んで、職場の先輩に相談してみた。
この人は、基本的に軽い人間だ。
もう少し重さがあれば、モテるかもしれない。なにせ、顔がいいから。でも残念ながら、非常に軽いのだ。だから、軽くしか扱われない。真剣に話してみると、真剣に返してくれるのに。しかも頭がいい。そのことに、どれほどの人が気付いているのだろう。
いつか、あなたの外見を総スルーして、話をしてくれる異性が現れるといいですね、と思うのだけれど、アクセサリーやらをジャラジャラと付けて、まるでホストみたいな格好をしているのだから、遊び相手以上を望まれない一端は、確実に先輩自身にもある。だから僕は、「なんで周りのヤツは外見でしか判断しないんだ! 先輩が不憫だ!」とは微塵も思わない。先輩だって、そんなこと思われたくないだろうし。
さて、先輩に事の経緯を話したところ、興味をそそられたらしく、目が爛々と輝いている。
「何だそれ。なんでそんな面白いことになってんだよ、アサヤの分際で」
「先輩、大事な後輩にその言い方は無いと思います」
「おいおい、大事な後輩だからこそ、言えるんだよ。愛の鞭だ、愛の鞭。………で、その女の名前は?」
名前。
そのフレーズが、頭をぐるりと一周した。名前、そうか、名前か。…ふむ。
「………知らないのか?」
「ええ、基本的に他人なので」
何しろ、話したのは、あれが初めてなので。付け加えると、あれ以降、一度も見掛けていない。避けられているのか。いやいや、避ける理由なんて、何かあるのか。避けることすら必要ないほどの距離感の人間ではないか。いや待てしかし、彼女はあの場を走り去ったのだ。相応な理由があったはずだ。その理由は、もしかすると、僕を避ける理由にもなるのかもしれない。
頭の中でとうとうと繰り広げられる、無駄な思考の嵐を前に、先輩は顔を引き攣らせた。
「マジかよ。馬鹿なのか、後輩」
「愛の鞭ですか?」
「いや、真剣に馬鹿であることを疑ってる」
愛は0%のようだ。辛辣だった。
「でも、あの場でどうしろと…」
「追い掛ければいいだろ!」
「あ、そっか」
ポンと手を打つ。それは考えつかなかった。確かに名案だ。咄嗟のことに対応ができず、ついつい走り去る彼女を見送ってしまったが、見送る義務はどこにもないのである。追い掛ければいいのだ。
しかし、ここまで考えたところで、ひとつの大きな壁にぶち当たった。
「でも先輩、僕は思うんです。あの時間帯で女性と追いかけっこをするというシチュエーションは、通報されてジ・エンドです」
それこそ、いろいろ意味で。
いやいや、でも僕ってそんな風には見えないよね。だから大丈夫。うん。
自分自身に言い聞かせるようにしてから、ふと先輩を見やった。
「………………」
目を逸らしていらっしゃった。
「愛の鞭ですか?」
「………ああ、そうだな」
僕はそこで、学習した。
否定される方が、よっぽどかダメージが少ないのだと。
「と、とにかく、だ」
先輩が気を取り直すように、盛大に咳払いをした。誤魔化す気が満載である。そんなのに騙される程、僕は能天気ではない。受けた傷は、未だにじくじくと痛む。そうか、変質者に見えるのか、僕…。い、いやいや、行動が問題だっただけで、別に外見や雰囲気は問題無かったはずだ。
「ひとつ、ハッキリさせなきゃならんことがある」
「なんでしょうか」
僕は心ここにあらずの状態で、相槌を打つ。変質者かあ、そうかあ。うーん、電車とかに乗ったら、痴漢に間違われるのかな。嫌だなあ。最近、そういうのが増えていると噂で聞く。満員電車では、両手をあげておかないといけないらしい。女性も大変だが、男性も大変だ。
「彼女はお前を知っているのか」
「………。………あ、すみません。もう一度お願いします」
聞き逃した。
先輩は、丹念にセットしたであろう髪を、ぐしゃぐしゃっとかき混ぜて、怒りを表現する。
「だーっ! お前というやつは! 人が、というか、この俺が、相談に乗ってやっているというのに!」
「それはとても感謝しています。でも僕は今、この先自分が犯罪者になるか否かの瀬戸際で、真剣に悩んでいます」
「………この数分の間に、お前の頭の中で何が起こったんだ?」
先輩が、不審者を見る目つきで僕を見た。そういう目を向けられるか、という部分で主に悩んでいました。そう告げると、確実に情報が少な過ぎる言葉にも関わらず、先輩は生暖かい目で、そうか、とだけ呟いた。どうやら深く掘り下げないことにしたらしい。
「お前が犯罪者になる云々は、捨て置く。ただしそうなった場合、俺の名前を出すなよ。…三度目は無いから、しっかり聴いとけ。いいか。可能性として高いのは、彼女がお前を知っている、ということだ」
「ああ、僕も彼女は見覚えがありますよ。道でたまに見掛けますから」
「そのレベルじゃない気がすんだけどなぁ…」
先輩は首を捻った。
「変質者には、手慣れた様子でいなしてる。反面、アサヤに対しては挙動不審で、妙に初心な態度を取る。その心中とはなんだ。俺が考えただけでも、いくつかパターンは考えられる」
「おお…」
流石、色男。僕は小さく拍手した。よせよ、と変に照れる先輩。気持ち悪い。
でも僕がひとつも思い付かなかった理由を、複数思い付くなんて、すごい。
「一つ目。彼女が多重人格者である。つまり、自分を害する変質者に対抗するための人格と、普段の対人における人格が存在する。ま、これは可能性としてはほぼゼロだろ。な?」
ふむ。確かに。僕はあんまり詳しく無いけれど、話す相手が変わる度に人格が切り替わる、というのはあまり無いだろう。多分だけど。いや、あり得るかもしれない。でもパッと見、そういう訳ではなかった…ように思う。だから、僕は先輩の言葉に同意した。
「二つ目。彼女は同世代に対してのみ、赤面症を患っている」
ふむふむ。僕は頷いた。赤面症ってなんだっけ。知ったかぶりで頷いている。先輩にはお見通しだったようで、しかし呆れた風ではなく、割と淡々と説明を追加した。
「人前に出ると、顔が赤くなる症状。対人恐怖症で現れる症状のひとつだな。年上の変質者に対しては平気ってあたりが引っ掛かるが、そういうやつもいるだろ。今のところ完全否定する要素が無い。よって、有効な選択肢だな」
「…先輩って」
真面目に語った先輩は、いつもと変わらず、派手な茶髪だし、耳ピアスも空いている。あと鎖もジャラジャラしてる。だというのに、というと差別になるが。
「意外と博識ですね」
「意外と、は余計だっつの」
嫌そうに顔を顰められた。僕は気にしない。
「どこで仕入れたんです、この情報?」
「あー、知り合いに一匹、いるんだよ。人と遭遇するなり、林檎みたいになるやつ」
「………匹?」
人を数える単位じゃなかった。ハムスターとかでも無いはずだから、人間なのだろうけども。
先輩の顔は、未だにしかめっ面のままだ。
「あんなの、匹扱いで十分だっつの」
「ふうむ…?」
僕はあんまりいいアイデアが出てこない自分の頭で考える。先輩のこういう表情は、極めて珍しい。その理由はなんぞや。考えて、考えた。そして結論を口にする。
「大事なんですね、その人のこと」
「はああっ!? ばっ、大事!? んなわけねーだろうが! なんであんな小娘を、俺が大事にしなきゃならないんだ!」
「あ、女の子なんだ」
「………………」
先輩がグッと言葉に詰まり、黙り込んだ。先輩が大事にしている女の子。ふむふむ。僕は微笑んだ。
「なんていうか、ファイトです」
「テメェふざけんなよ…」
「え!」
何故怒られたのだろう。
目をパチクリしていると、先輩は盛大に溜め息を吐いた。それから、じっとりとした目で、僕を見る。
「そうだった…お前はそういうやつだった…。もうちょっと考えろよ、人の気持ちとか機微とか、その辺り」
キビってなんだろう。僕は首を捻った。今度は、説明は追加されなかった。うーん、と考えてから、答える。
「僕なりに考えたんだけどなあ。でも百戦錬磨の先輩には、負けます」
「ふざけろ。お前は一般的な恋愛経験を積んだやつよりも劣ってる。むしろ、恋愛未経験の妄想魔にも劣っている」
「え!」
そこまで自分が劣っているとは、思わなかった。そうかあ。そこまでかあ。
どうやったら伸びるんですかね、その分野。僕、二十代前半最後の歳に穏やかな恋愛を経験してみたいんです。たすけてください。そう言おうと思ったが、その前に先輩が口を開いた。
「話を戻すぞ。三つ目だ」
ああ、そういう話をしていたっけ。僕は頭を切り替えた。
「三つ目、彼女はお前をなんらかの形で知っていた。彼女にとって変質者をとっちめる場面は恥ずかしいことで、知り合いに見られて赤面した。正直、この可能性が高いんじゃねーの、って思ってる。勘だけど」
「えっと、知り合いに見られると恥ずかしいんですか?」
先輩は、ゴミを見る目で僕を見た。流石に酷いんじゃないだろうか。しかし、そこは人格者の先輩である。お前な、と言いつつも、例を挙げてくれる。なんだかんだでお人好しだ。見た目によらず。
「例えば、大通りで派手にすっ転んだとする。見ず知らずの人に見られるのと、好きなやつに見られるの、どっちが恥ずかしい?」
「どっちも恥ずかしいです」
「なるほど。一理あるな。俺も反省しよう。訊いた俺が馬鹿だったよ」
先輩は死んだ魚の目をしていた。先輩にこんな目をさせたのは、間違いなく僕だろう。責任を感じ、口を開く。
「先輩は頭がいいですよ。いろんな方面に対して、知識豊富ですし」
「殴るぞ」
「え!」
何故!
恐れ戦いて、上半身を後ろに反らせた僕を見て、先輩は壁に手をつき、再度、がっくりと項垂れた。うーん、申し訳ないです。
しばらくして、先輩が復活した。
僕は会社の備品である電気ケトルで、お湯を沸かしていた。緑茶の茶葉を拝借し、湯を入れる。さて頂こうか、というまさにその時だった。部屋にはお茶のいい香りが漂っている。
「何のんびり茶ぁ飲んでんだよ」
先輩は、凄むと非常に怖い。中高時代は、この辺りで名を馳せた不良だった、という噂もある。なるほど、堂に入っている。
「あ、先輩の分も入れましたよ。どうぞ」
「お、サンキュ」
素直に受け取り、フーフーしながら口をつけている。先輩は猫舌だ。
一口飲み、味に満足したのか、ニンマリ笑う。多分だけど、先程の凄みの理由には、自分にも飲ませろ、が入っていたように思う。ちなみに、顔に似合わず、和菓子と抹茶も好きなのである。
「って、違ぇよ!」
お茶をしっかり飲み干した先輩は、完全復活を遂げたようだった。「お代わり入ります?」と訊ねると、「要らん。一杯で十分だ」と律儀に返事があった。それを聞き、いそいそと片付けを始める。出したものは片付ける。これ常識。
「じゃなくてだな、お前、大体な…」
コホン、と空咳をして、気を取り直した先輩は、僕を睨む。
「お前は、赤面して逃げた理由を知って、何がしたいんだよ」
問われた時の僕の顔は、傑作だったと思う。見事にポカンとしていたはずだ。そのまま熟考。僕は一応、考えたら答えを出せる人だ。口を開こうとして、既に半開き状態だったことに気付く。唇が渇いている。お茶を飲んだ。少し落ち着く。
それから、改めて答えた。
「考えたんですけど、分かりませんでした。分からないから知りたいだけなのかもしれません」
刹那、先輩の鋭い拳が炸裂した。