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01.道路を挟んで反対側

 最近気になっている女性がいる。

 名前は知らない。名前どころか、ほぼ何も知らない。

 だから、好き、というより、気になっている、という方がよっぽどかしっくりくる。

 二十四歳。二十代前半最後の年。大それた恋愛を! などと高望みはしない。そんなことをして、上手くいった試しなどない。

 それでも神様。可能であれば、恋の神様よ。いたいけな少年(いや、もう明らかに青年か)に、どうか救いの手を。何かこう、向こうの女性も運命を感じてしまうような、唐突かつロマンチックな出逢いを。………無理だろうなあ。

 僕は、はあ、と溜め息を吐く。突拍子もない出逢いを提供されたところで、僕は多分、テンパって何もできなくなる。分かり切っている。僕は“そういう人間”だ。誠に残念なことに。


 さて、僕の嘆きだけを語ったところで、しょうがない。まずは何を語ろうか。僕の名前? 彼女への想い? 衝撃的な恋の始まり?………どれも需要が無さそうだなあ。特に最後のは、そもそもタイトルが捏造気味だ。

 ここは順当に、出てきた順番に従うことにしよう。

 まず僕の名前は、春日池朝也という。うん。読めないよね。かすがいけ、ともや、と読みます。これまで読めた人はいません。

 ちなみに小中高で共通のあだ名は、あさや、だ。あだ名なのか、それとも全員が素で間違えているのか、非常に微妙なところではあるが。友人ですら、「あれ、お前の本名ってなんだっけ?」と言う始末。名前のインパクトにやられるのか、名字すらも憶えられないパターンも多々ある。今のところ、春日井、春日矢などがトップ2だ。

 歳は先程述べた通り、二十四歳。職業は一応、経理課。経理課なのに、客先訪問をしたり、企画提案をしてみたり、業務内容は意外と多種多様。何故かは知らない。多分それなりに理由があってのことだろうけど、今のところ僕の頭じゃ分かりかねる。入社六年目。割とベテラン。しかし、自他含む様々な事情によって、自分の将来に悩むお年頃。

 ついでに言うと、趣味はランニング。知りたくないって? いやいや、後の話で意味が出てくるから、聴いておいてくださいな。平日休日問わず、毎日二時間は走っている。ルートは気分によって変わる。鍛えてる人は、自分の体力の目安を見るために、慣れ親しんだ道を行くのかもしれないけれど、僕の場合はただ好きで走っているだけなので。違う景色をいろいろ見ることが好き、という理由もあるけれど。

 以上、僕の自己紹介。

 続いて、彼女に対する想いについて。

 …とはいえ、僕は彼女をほとんど知らないから、言うべきことは少ない。

 彼女は、僕の数あるランニングルートの途中でたまに見掛ける。歳は、たぶんそう変わらないだろうと踏んでいる。高校生にしては大人な雰囲気を纏っているから、きっと大学生。もしくは社会人。…つまり、分からない。

 服装は、夏も冬も、スカートが多めだ。この前見た時は、胸元に茶色のリボンをあしらった白のブラウスに、ゆったりとしたグレーのフード付きコートを羽織り、カーゴ色のロングスカートを合わせていた。

 肩甲骨の下あたりまで伸びた髪は、真っ黒なストレートで、場合によって下ろしていたり、肩あたりでシュシュで留めていたり、バレッタを使っていたり…こちらはバリエーションが豊かだ。

 どちらかと言わなくとも、清楚な装いが多い。

 顔と首はほっそりしていて、目はトロンと垂れている。綺麗系とも可愛い系とも称し難い。強いて言うなら、のほほん系。

 初めは、危ないなあ、と言う印象だった。僕がランニングする時間帯は、会社帰り。要するに、19時くらいが一番多い。季節によっては真っ暗だ。まして、いかにも大人しめの女性だ。つまり…そういったことの餌食になっても、なんらおかしくはない。

 しかも、彼女の足取りは非常にゆっくりなのである。もう襲ってくださいと言わんばかりの、好条件揃い。

 実際どうだったのかというと、その通りだったわけだ。それが、僕が彼女を気になりだしたキッカケでもある。

 僕が華麗に助けた? いやいや、全然違うよ。

 その日も彼女は、スカートを履いていた。冬の寒い日だったので、上はそれなりに厚着している。その背後に、不審な影があった。僕は思わず立ち止まる。

 彼女は、僕とは反対側の歩道にいた。間には、片道二車線の大きな道がある。その上、低い街路樹があるため、簡単には道路に出られないようになっている。

 まだ背後の男が、それと決まった訳ではない。だがしかし、すごく怪しい。危機管理がなっていない彼女も問題だとは思うが、かといってか弱い女性がただ凌辱されるのを見て見ぬ振りするのも、目覚めが悪い。僕は運動が抜きん出ていい訳では無いが、壊滅的な訳でも無い。警察を呼んでから、数分間ならなんとかなる…のではないか、という期待レベル。

 幸運なことに、ランニングで鍛えられた持久力はあるので、それでなんとか。

(よ、よし…っ!)

 気合を入れて、街路樹を跨ごうとした時に、背後の男が、動き出した。彼女は、ちょうど細い道の横を通り過ぎようとしていた。

 あっという間に二人の距離が詰まる。背後の気配を感じて、彼女が振り返る。そして、目の前に迫る見知らぬ男の存在に、普段垂れてトロンとした目を見開く。叫ぼうとするが、一手遅く。その口を塞がれ、両腕を拘束された彼女は、そのまま路地裏へ引きづりこまれる。

「ひ…っ!」

 悲痛な声が男の指の隙間から漏れ出す。男はこういったことに手慣れているのだろう、両腕を素早く壁に押し付けると、その手は彼女のトレードマークであるスカートの下に潜り込み、細い足を撫で、駆け上がっていく。普段見られない生足が、惜しげも無く外気に晒される。

 ―――という不埒なことにはならなかった。

 どこから違うのか、と問われると、ほぼ最初から、という答えになる。

 彼女が細い路地に差し掛かった時に男が距離を詰めたのは事実、彼女が振り返ったのも事実だ。そしてそれ以降は全て僕の想像の中の出来事で、実際は違う。

「い、いでででででっ!」

 僕の目の前には、腕を捻った状態で押さえつけられ、痛みによる悲鳴を上げる男の姿がある。無論、押さえているのは僕、ではなく彼女だ。その表情はいつも通り、穏やかなものだ。それが逆に怖い。とんでもなく怖い。

 彼女は振り返るなり、流れるような動きで男から伸びて来ている腕の軌道を変え、そのままいとも簡単に捻り上げたのだ。いったいどうやったのか、サッパリ分からない。分からないが、その間、彼女の表情が一切変わらなかったことの方が重要だ。

 僕は、しばし立ち尽くした。どうしたらいいのか、分からなかったのだ。

 中途半端に踏み出した足が、虚しい。かといって、足を引くタイミングも外し、僕は途方に暮れた。

 とりあえず。

「大丈夫ですかー?」

 道路の反対側から、大声で話し掛けてみる。彼女の肩が、ピクリと動いた。どこから声が聴こえるのかと、キョロキョロしている。僕は慌てて街路樹を超え、轢かれないように左右を見渡し、小走りで彼女に近寄る。

 捕まっている側の男は、この隙にと思ったのか、それともこれ以上目撃者が増えると洒落にならないと思ったのか、逃れようと身体を動かし、「いでででででっ!」と悲鳴を上げている。その罪は罰せられるべきものだが(同じ男として、か弱い女の子を襲うなど、許せん!…しかし彼女は、か弱いのだろうか)、ここまで情けない姿を晒していると、何故だが憐憫を覚える。

「あの…す、すみません…えぇと…」

 声を掛けてみたものの、何を言ったものか、困る。

 対する彼女は、まるで恥らうようにサッと俯いた。少し力が入ったのか、「いいいででででッ!?」更に悲痛な声が上がる。ちょっと反応の意味が分からない。分からないが、耳が暗がりでも分かるほど真っ赤だ。何が理由かは不明だが、恥じらっているのは確かなようだった。

「ええっと…あ、そうだ警察! 警察を呼んだ方がいいんじゃ…」

「警察…」

 彼女はパッと顔をあげると、困ったように眉を寄せた。頬は先程の名残で、少し上気している。なんとも可愛らしかった。こんな場面でなければ、見惚れていた。いや、白状しよう。こんな場面でも、見惚れている。

「あなた」

「いでーッ!」

「少し質問があるんです、いいですか?」

「い、いだッ…や、やめっ」

 男は痛みで顔を真っ赤にさせて、必死で頷いた。結構無理な体勢で頷いて首を痛めないかと思うのだが、それ以上に肩が痛いようだ。ひぃひぃと喘ぐように息をしている。ご愁傷様です、本当に。

「私には、選択肢が二つあります。一つが、あなたを警察に突き出して清々する方。もう一つが、この場でもう二度とこんな真似はしないと誓い、住所氏名年齢連絡先を伝えた上で解放される方」

 後者は、何の目的で身元を押さえるのでしょうか、と訊きたくなった。彼女に弱味を握られる方が怖い気がするのは、僕だけだろうか。

 男は一瞬の狼狽の後、「け、警察に…」と言いかけた。それを止めたのが、彼女の、にっこりと笑いながらの一言だ。

「警察に行くと、後の生活に響きますよ。叩かれて困ることはいろいろあるでしょう。…私としては、後者をオススメします」

「ひぎいいいいッ!」

 完全なる脅しである。

 もはや、痛い、という叫びすらもできなかったようだ。男はカッと目を見開き、歯を食いしばっている。見目としては、あまりよろしくない。

「も、もうしないと誓いますッ!」

「よろしい」

 彼女は、さながら女王様のようだった。神聖にすら見えてきた、妙な光を灯した瞳と、薄らとした微笑み。その行動は冷酷だ。

「では、離します。でも変な真似をしたら、即座に取り押さえます。…次は、もう少し痛いですよ」

「ひっ…」

 男がぶんぶんと首を横に振る。これ以上痛いのは嫌だ、という拒否感だったのか、変な真似なんてしない、という主張だったのかは分からない。

 とにかく、男は解放された。

「これに記入してください」

 そうして差し出されたのは、ポールペンと紙だ。紙には、氏名やら住所やらを書く欄がある。まるでホテルでチェックインする時に記入する用紙のようだ。

(ようだ、じゃなくて、そのものじゃないか?)

 いや、それよりも、何故彼女はそれを常備しているのだろう。

 思わず、彼女の顔を見た。艶然と微笑んでいる。変わらず麗しい。続いて、男を見る。目が合った。目で語ってみる。

『おい、なんでこの女、こんなもん持ってるんだよ』

『ごめんなさい、知らないです。僕も初めて話したので。むしろ知りたい』

 見ず知らずの者同士だし、犯罪に走る・走らないという明確な差もあるけれど、たぶん伝わったと思う。というか、この状態でこれ以外に考えることがあるだろうか。いや、無い。

 男は、震える手で記入を始めた。恐怖のためかもしれない。あるいは、かなり肩をヤられていたので、痛みで震えているのかもしれない。

 一枚目を差し出した。彼女はスウッと目を通して、笑った。

「読めません。もう一度書いてください」

 そうして、もう一枚を自然な動作で取り出した。何枚持っているのだろう。それとも、束で持っているのだろうか。

 男は絶望的な顔をしながら、再びペンを取る。恐怖と痛みで震えていた以外に、ワザと、というのもあったのかもしれない。連絡先を教えたくなくて。…ああ、でもそれは、『恐怖で震えていた』に含まれるのかな。

 さて、この間、僕は呆然と突っ立っていた。やることなど、何も無かった。強いて言うなら、男と一緒に怯えることだ。

 一連の儀式が終わった。

 用紙をチェックした彼女は、優しげな垂れ目で、柔らかく笑う。

「はい、いいですよ。…嘘を吐いていたら、許しません」

 男は必死で頷き、時折躓きながら逃げ去っていった。

 どう許さないのか。あえて訊かなかった。彼女は手慣れ過ぎている。その筋のものじゃないか、と僕は疑っていた。そう言われた方が、むしろ安堵する。だって、こんな実力を持った人が、普通なんて、ねえ?

 それと同時に、僕はひどく彼女に興味を持っていた。やっていることと不釣合いな優しげな微笑みを見ると、何故か見惚れてしまう。現実逃避かもしれないけれど。

「あ…」

 彼女は顔を上げ、僕を見た。その顔が、一気に朱に染まる。

「あの…あの…ち、違うんですっ!」

「はい?」

「だから、その…さっきのは」

 さっきのは、と彼女はもう一度言い、俯いた。先程とは180度違う様子に、戸惑う。

「えっと、大丈夫?」

「あ………」

 彼女はパッと顔を上げた。目が合う。先程の、超然とした様子は見られない。年相応の、少しあどけない表情だ。それから、見る見るうちに、瞳に涙が滲んでくる。

「ご…」

「ご?」

「ごめんなさい〜〜〜〜〜っ!!!」

 彼女は叫んだ。そして、どうしたらそんなスピードが、と言いたくなるくらいの速度で走り去って行った。


 とても、衝撃的な出来事だった。

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