「それでも僕は君が好きなんだ」
「この時期になると桜の花びらが舞い散ってとても綺麗だ」
なんて、僕が好きだった小説の台詞を反芻するくらいに、うれしい気持ちが込みあがっ
ていった。
晴れて自分が行きたかったそこそこ頭のいい人が集まる大学に入学できた僕、島原結城
(シマハラユウキ)は、現在親の協力のもと一人暮らしを始めている。まあ、本当は別の大学
を狙っても良かったのだが、どうしてもその大学に入りたかった理由があった。
大学のガイダンスも一通り終えて、サークル活動の慌ただしい勧誘が校内の音を埋めて
いく。
僕はそんなことなど目にくれず、持ってきた複数枚の紙と一緒に、とある一つの部屋に
入っていった。
「あの、文芸サークルってここでしょうか?」
そう、僕がここに入りたかった理由は、過去何人もの小説家のプロを輩出してきた文芸
サークルであった。
「ああ、そうは言ってもメンバーは募集していないが」
「部長!そんなこと言うから年々サークルメンバーが少なくなっているじゃないです
か!」
部長、と呼ばれる薄ら紺がかった黒髪の男性と、その人に対して叱っているツインテー
ルの女性、そしてそれを影からみている和装のちっこい女性。
「さて、ミーティングを……おや、新入り希望者?まあ僕は歓迎したいけどね……ここ、
なかなかきついよ?」
少し後からして優しそうな表情をした金髪の男性が入ってくるなり、ノート型PCを開い
て自分の作業に取り掛かった。
「そういうわけだから、帰った帰った」
それでも、僕は小説をこのサークルで書いて行きたいという気持ちは抑え切れることも
なかった。
「あの、これ……良かったら読んでみてください!」
僕はその複数枚ある紙を金髪の優しそうな男性に差し出す。彼は苦笑すると、周りにい
たメンバーを呼んで僕の小説をぱらぱらとめくっていった。
「中々のものですね」
「あたし的には好きだけど、構成がちょっと甘いかな」
「ふん、恋愛小説など下らん」
「……この人なら文芸サークルについていけそう」
今集まっているメンバー全員がそれぞれの感想を言い合い、そして僕の処遇について真
剣に語り合っているときであった。
「……お帰り、副部長」
部長でさえ声を失い、しんと静まる部屋内。
全員が視線を向けるその先は、髪をナチュラルにおろし、きりっとした黒い目をした、
副部長と呼ばれる少女みたいな女性。何処か幼く見える容姿はそれでいて妖艶で、思わず
一目見ただけで惚れてしまいそうになるほどだ。
「新入り?あたし、小説とかそういうのに関しては結構厳しいよ?」
その点でいうならば部長も厳しいように見えるが、あくまでも見ただけでの好き嫌いで
物事を決めてしまうような人物だというのは後に知ることになる。
その少女は小説を見るや否や、目を見開いて僕を見つめてきた。そうして、恐る恐る聞
いてきた。
「……もしかして、ハーゲンティさん……?」
「そうですけど……?」
「やっぱり!あたしハーゲンティさんのファンなの!」
さっきの妖艶な笑みはどこへ行ったのか、まさかの出来事に歓喜する副部長と名乗る少
女。それをぽかん、とした表情で見ている僕とメンバー一同。そして、今度はその妖艶な
表情を取り戻して、僕に詰め寄ってくる。
「ねえ、ここでもっといっぱい小説書いてくれる?」
「……はい、喜んで」
少しだけミステリアスで、大人で、少女な咲の笑顔と、それを認めるような全員の表情。
こうしてまた一人、文芸サークルのメンバーが増えることになる。
文芸サークルは、大学祭に向けて集まれる日にプロの作家宜しく皆それぞれの小説を書
き始めたり、語彙力を増やすために何か色々行ったり、時にはいろいろな場所に旅行に行
くこともある。因みにいうと、今年入ったメンバーは僕一人だけだ。
「あー、タツ。俺の小説の推敲頼む」
「了解です部長」
タツ、と呼ばれた金髪の男性が部長のもとへ向かい。
「優香、この小説どう展開したらよくなるかなー?」
「……主人公よりキャラクターのサイドになって話を展開した方がスムーズにいく」
茶色めの髪をしたツインテールの少女ことミサトが、和装少女の優香にアドバイスをも
らいながら筆を進めていく。
そして、副部長こと咲は、全体を見て回り推敲やアドバイスを受け、僕は一人黙々とる、
これが文芸サークルの日常なのだが。
咲は自らの小説を犠牲にしてまで、と言ってもいいかもしれないくらいに他のサークル
のメンバーのアドバイスに回っていた。とりわけ僕に対しては懇切丁寧にだ。彼女と話し
ている時間は、小説のことでもそれ以外のことでも楽しかった。やがてそれは好きなのか
な、という疑問を僕に浮かばせるほどだ。
そんな日常の中でもう一つ、誰かの突然の提案を出されるとそれは非日常に変わってく
る。そういう時も、大抵の提案は僕か部長が「どこか外に行きたい」というものなのだが。
その日はタツの提案でサークルが使っている部屋で王様ゲームをやろうと
いうことになった。最初の五回は一人だけを指定、或いは二人であっても男同士もしくは
女同士で何かをするって感じに進んでいった。普段強面でクールな部長がタツを口説く様
子はシュールを通り越して全員で爆笑し、優香とミサトのポッキーゲームは何故か全員が
和む展開になった。ここまで僕が王様になることも、指名されることも奇跡的になかった
のだが。
「じゃあ……三番が四番にハグしましょう!」
六回目、ミサトが王様になる。今迄当たってこなかった僕も、自然と当たるときが来る
わけで。四番を引き当てた僕は三番が誰なのか、まあどうせ半分は男子だからな、なんて
悠長に構えていた。
「あ、あたしだ」
「っ!?」
日本男子としては小さ目な165cm前後な身長の僕。それとほぼ同じくらいの咲がぎゅっ
と抱き着いてくるなんて、そんなことは微塵にも思ってもいなかった。
ふわりとバニラエッセンスが混じった甘い香りとその体の柔らかさが、思わずで人前抱
き返してしまいそうなほどに魅力的だった。お互い顔を赤面したまま、メンバー全員が何
も言えないような空気に包まれ、その日はそこから全員がただ黙々と執筆作業に取り掛か
ることになった。
おかげで嫌になるほど小説が進まない。忘れようにもメンバーとして彼女がいるから、
忘れられるはずがなかった。妖艶に微笑む咲に「もう一回、抱きしめてもいいかな」と言
われながら抱きしめられる夢まで見てしまった。
咲も同じような感じだ。あの出来事があってから、まるで僕と接してこようとしない。
僕が話しかけようとしても、俯いたまま「ごめん、後にしてくれる?」なんて事を言って
きたりすることが殆どだった。
そんな時に限って最近最後に残る人が僕と咲になりやすかったりするから困り者だ。必
死に会話を探そうとして、沈黙が訪れるばかり。夕暮れ時に二人で掃除して、鍵を閉めて、
帰る日々。
昔からネット小説の感想を見るときすら、いつも恐怖に似たような何かがついて回るか
ら、告白なんてできる筈もなかった。
「……あの」
それでも、小説の感想や指摘も、告白の失敗も、その人の糧になることを知っていた。
失敗を恐れていては、何も始まらない。
「……何?」
「僕のこと、どう思ってるのかなって気になっただけです」
言ってはいけない様な言葉でもあるかもしれない、そうだったら次はそれを言わなけれ
ばいいだけだった。
ただ、咲はやはり少しだけミステリアスな少女だった。後ろから僕に向かってぎゅっと
抱き着くと、其の侭大きく息を吸って、吐く。
「男性の匂いって、遺伝子が近ければ近いほど体臭になるけど、遠ければ遠いほど、好
きな匂いになるんだよ?」
そのままくす、と微笑むとこっそり耳元で「いい匂いがする」と答える。
「副部長、さん」
「ねえ……二人っきりの時はお互い名前で呼び合わない?」
今度は先輩後輩物でよくあるような、仲良くなった時に言う台詞だ。
「咲……?」
「ユーキ。」
するり、と手を放して夕日をバックに微笑む咲。
「咲……!」
あの時したくてもできなかったことが、今ならできる気がして。好きな小説のワンフ
レーズが脳内にちらついて、僕をそういう物語の通りに動かしていく。咲の身体を思いっ
きり抱きしめて、そのまま顔を肩に乗せて。驚いたような表情をしていた咲も、直ぐに抱
きしめ返していく。そのまま、壁に置いた時計だけが一秒をリズミカルに……
\ガラッ/
「二人が仲良くなったって思ったら、いい関係にまで発展してるじゃないか」
って、またタツが粋な計らいをしたのか!
まあ、こうして僕と咲は然るべくして付き合うことになった。
咲は僕の一つ上の先輩なのに、少女だった。
一泊二日で優香の別荘に泊まりにいくことになったその夜、ほんの事故で僕が咲の裸体
を見てしまった時には赤面して怒ってきた。その日はひたすら咲の機嫌を取るのに一日を
費やしたような気がしてくる。
初めてキスするときもそうだ。唇と唇を合わせるだけでも、目を瞑って顔を背けようと
するからじれったくなって顎をくいっと持ち、そのまま衝動的に口付を交わす。その日の
咲は一日中照れ隠しをして、さながら不機嫌に見えたが、帰りにぽつり、嬉しかったなん
て言葉を言ってきたから余計に可愛いなんて思ってしまった。
それと同時に咲は妖艶でミステリアスな女性でもあった。
ミサトの提案でお題を決めて短編小説を作るとなった時に、あろうことか僕は官能小説
のお題を引き当ててしまった。官能小説自体は参考として見たことはあるが、何しろ女性
の経験というものが無い僕は途方に暮れていろいろ試行錯誤せざるを得なくなった。そん
な時に咲が耳元でこっそり、「あたしが教えてあげる」なんて言ってきたときには心臓が破
裂しそうな勢いだった。
そんなくるくると性格を変えてくる咲がアドバイスを受けて作り上げた小説は、時を得
るにつれてネット上の読者、更には編集者たちの心をつかみ、そして段々とファンタジー
小説家として有名になっていった。僕には全て順調に進んで、それがとても幸せなことに
思えてきた。
でも。
こんな幸せな時間も、そう長くなかった。
普段全く風邪をひかない筈の僕が、ある冬の一日に酷い風邪を引いて倒れてしまった。
しかもそれが治るのに二週間ほどもかかってしまった。
それだけではなかった。その後ちょっと走っただけでも動悸が激しくなってしまい、目
の前がくらくらとしてしまうほど、体が弱くなっていった。
医師に原因不明の衰弱病、と言われた。入院して最初のうちはまだ自由に動けたが、段々
歩くどころか、立つのにも辛くなってきた。そんな毎日でも僕は唯一の楽しみとして、病
棟の殆どの時間を小説を書くことに費やした。もういつものように戻ることは無い、と言
われても僕は信じることはできなかった。
もう一つ、そうじゃなくても僕はとても寂しかった。メンバーたちが毎日見舞いに来て
くれるが、その中に一度も咲の姿を見ていない。
「咲は元気にしている?」
「いや。最近表情がちょっと虚ろでね……」
タツもはぁ、とため息をつく。咲自身、文芸サークルには顔を出すが、推敲を間違えた
りすることが多くなっていったと聞いてとても心配になる。
時々他愛のないメールでのやり取りはしているが、それでも彼女に会いたいという思い
は募っていく。そういう意味でも早く元気な姿を見せたい、そのためには衰弱した体に鞭
を打って必死のリハビリも受けた。
だが、現実はとても非情だ。
次第に体全体にかかる倦怠感はその牙を深々と突き刺していく。手が動かなくなり始め、
次第に病院で既定した睡眠時間以上に眠ってしまう身体になっていく。リハビリを行うど
ころか、点滴をして十分な栄養を取らなければ意識すらままならない。
今日も腕に刺さる点滴がまた一つ増えた。点滴の痛みこそ感じはしない、それより、日
を増すごとに体が重くなる感覚と、異常な眠気。看護師さんによれば最近の睡眠時間は平
均18時間近くらしい。特にここ一週間になってからは声を出そう、とか何か考えよう、と
かするのにもかなり苦労するくらいだ。既に手が動いて、医師が言うに、このスピードだ
と意識が保てるのは残り一か月、余命は二か月ない、と言われている。とにかくこのまま
復帰するのは絶望的だろう、僕はそう思った。
それくらいだったら死んだ方がまだましだろう、なんて思うこともあったが僕はまた、
死ぬことをひどく嫌っていたかも知れない。夢にちょくちょく出てくる死神が「お前の命
を刈り取っていく」と何回も言われて、その度に真っ暗闇の病棟が見えて、息が絶え絶え
になる。恐怖に見舞われるあまり、携帯を取って何度も何度も助けて、と咲に送るが、何
も返事が返ってこなくなり余計に疲れを増していく。
そんな僕でも、毎日訪問してくれる文芸部のメンバー達。既に週に三〜四回は深く眠っ
ていることがあり、訪問ができない状態にあることも多くなった。専ら、来た時も殆どが
プロット書き通りに進められた小説を言って、部員たちがそれを写しているだけの作業に
なってくる。
だから、他愛のない話をすることは丸一か月くらい無かった。それでも数少ない楽しみ
を、文芸サークルのメンバーと過ごすことができ、そんな過酷な状況の中で遂に、記念す
べきだろう出来事が起こる。
「「「「「連載小説終了お疲れ!」」」」」
僕の一つの物語がまた、これで完成した。恐らく僕にとってもう書く機会がないだろう
連載小説の最後の言葉が紡がれ、喜ぶメンバー。死ぬ前に無事に完成できてよかった、と
画面越しに見える文字の羅列にほっとする僕。
「それと、明日になるけど。お誕生日おめでとう!」
それよりも更に嬉しかったのは、サプライズです、と言わんばかりに訪れた。
咲が入院してから初めて、ここに来てくれた。
一階の売店からお菓子とジュースを買ってきた咲たち女子と、看護師さん二人も交えて
誕生日パーティーを開く。ほとんど寝たきりになっていた僕を可動式ベッドで起こし、咲
にあーんとポテチを食べさせる姿が写真に収められたり、久々に咲の身体に抱き着くと、
ほんのりと甘いバニラの香りがしたり、皆で咲の手作りケーキを食べたり、看護師さん達
と一緒にしりとりをしながら談笑したり。気の持ち用、なんていう言葉があるとおりなの
か、この日は強烈な眠気もなく、やけに調子良く過ごせた気がする。
そんな楽しい時間だからこそ、一瞬で過ぎ去ってしまうわけで。
「じゃあね、ユーキ。また元気そうな姿見せて!」
「大丈夫、俺がちゃんと纏めて編集者に送ってやるよ」
僕と咲を除いて、残りのメンバー達が帰っていく。もうあと何日こうしていられるか分
からない状況を忘れるかのような、楽しさ。そして、数か月振りに咲と二人っきりになれ
る、嬉しさ。
ただ、ほんの数か月前は当たり前のように咲とだけの楽しいお話も、あと幾つできるか
なんて言うカウントダウンを自ら行ってしまうほどに逼迫した、焦り。
ここ数か月の咲は何か違った、なんてメンバー達は言うが、僕が見ている限りの咲は、
特におかしかった気がする。
看護師さん二人に対して、お話があるから外で待ってくれなんてお願いしているから。
一生懸命頭を下げる咲に、渋々看護師さん二人も何かあった時は直ぐに呼ぶように、とい
う伝言を残して病棟の前で待機していることにした。
「……君に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
今にも泣きそうな顔をした咲が夕暮れに照らされている。僕には、謝らなきゃ行けない
ことが何か、分からなかった。
そりゃ、分からない筈だ。それはとんでもなく現実から離れていた言葉であったから。
「あたし……リャナンシーなの」
「……咲、いきなりどうした?」
文字書きとして、或いは古くから言うなら詩人として、最高のインスピレーションを与
えてくれる妖精。その代わり、代償として憑りついた人の命を削っていく、悪魔のような
存在。そうだとしたらこれで僕がどうしてこんなに衰弱しているか説明できるにはできる。
でも、こんな少女が、命を削り取るような、そんな魔性を持っている人なんてとても思え
なかった。
「あたしは幼いころからずっと一人ぼっちだった。そんなあたし、小学校の時惚れちゃ
った相手がいるの。君とはちょっと違うけど、本とファンタジー系が大好きだったって聞
いたから一緒にいるようになってね。でも、その子は……だんだん学校に休みがちになっ
て、入院するようになって。それでもあたしとそばにいる時が一番楽しいっていうから毎
日学校の帰りに病院によってお話したの。でも……その子、誕生日の前にここからいなく
なっちゃった」
泣きながら、少女の独白は続いていく。
「その後もね、三年生の時、恋愛小説を書いてた一年生の後輩とかと一緒にお話してた
んだ。一年生の後輩さん、小説が飛ぶように売れて、グレモリーさんってちやほやされて
たかな。表向きは真面目だけど、あたしと一緒にいるときにはもう可愛くてしょうがなか
った。恋愛の仕方を教えてほしいなんて言って、あたしによくキスをせがんでくれたの。
なのに、その子も……同じように衰弱していって、消えちゃったの」
グレモリー、という名前は僕も良く知っている。いや、僕が小説を書いてみたい、と思
うようになったきっかけを作ってくれた恋愛作家の天才だ。その人の最期も中々壮絶で、
確か肺炎と何かの複合病にかかって亡くなっていたような気がする。
「あたしは、すっごく怖くなった。だって、人を純粋に好きになっただけなのに、皆原
因不明の衰弱で死んじゃうからね。だから、もう恋なんてしたくない、って思ってずっと
過ごしてきたんだ、でも……、偶然君の書いてたネット小説に、惹かれちゃったの」
彼女が言うからに、それは恐らく僕が一番初めに挙げた短めのネット小説。文芸サーク
ルに入るために必死に遂行して、書き直した小説だった。今思えば、それのおかげで文芸
サークルの仲間と、何より咲と出会えた。
「最初はそれで終わりかな、なんて思ったけど、運命の出会いってあるんだね。大学に
なって、文芸サークルで活動してて。あたしはもう何度も君と一緒にどこかに行って、い
ろんなことをしたけど、その度にあたしは後悔した。君が病棟に入ってからは尚更。いつ
君が死んじゃうんじゃないのか、小説がもう見れなくなっちゃうんじゃないかって気持ち
でいっぱいで、それで、もうあたしなんかいなくなってしまえばって……」
「咲!」
僕は号泣する咲の手を、あらん限りの力で握り返した。衰弱しきった身体にはとてもつ
らいものを感じた。息もかなり覚束ない状態だ。だが、それ以上に、泣いている咲をこれ
以上見たくないという感情が強かった。
「咲。……泣かないで。確かに僕は死なないって約束なんかできない。もしかしたら、
明日死んでしまうかもしれない。でも、僕は今まで先の隣にいてよかったって思ってるし、
これから死ぬまでずっと咲がそばにいてほしいって願ってる」
「でも、あたしは!」
「たとえ君がリャナンシーだとしても、僕は君とここまで来たことを一度も後悔してい
ない!」
直後に咳込んでしまう。少し叫んだだけでも肺が悲鳴を上げている。すぐに何事かと看
護師さん二人が駆けつけて抑え込もうとしていたが、僕は時間の許す限りに彼女のそばに
いたい、と願った。だから、
「……心遣いありがとうございます。でも、僕は、咲と、話が、したい」
呼吸困難に似たような症状と眠気が襲ってくるが、そんなこといって倒れたら、咲があ
まりにも可哀想だ。
「咲……さん。貴方がいたから衰弱して死んじゃうってことがあって……私がその立場
だったらすごく悲しいかなって思います」
看護師さんの一人がまだすすり泣く咲に向かって慰めの言葉をかけながら背中を撫で、
もう一人の看護師さんが痛みに耐えながら必死に話そうとする僕の背中を撫でてくる。痛
みは大分引いたが、眠気が段々と強くなっていく。
「幸い、ここ数日間は比較的穏やかで、完全とまでは行きませんが回復の兆しはありま
す」
「ほんと……?」
看護師さん、フォローありがとう。大分泣き止んだ咲に向かって僕は微笑みかけて、気
持ちを伝えた。たとえ咲が命を削っちゃうような悪魔でも、それで僕の命がなくなっても。
「それでも僕は、咲が好きなんだ」
「!?」
僕が大好きなグレモリーさんの、最後の小説の名台詞だ。確か、魂を刈り取る悪魔と恋
をした少年の台詞だったっけな。
「その物語のように、僕が死ぬなんてことは絶対にしない」
死ぬんだなんていう諦めより、生き続けていきたいという気持ちの方が強い。
何度でも咲の隣で笑っていられるように、
「嬉しいよ。あたしも、好き」
泣きながら、咲はそれでも希望を信じて笑っていた。妖艶な姿はどこにもない、少女の
ような笑み。
「ううん、愛してる」
「咲……」
「ユーキ……!」
咲の唇と僕の唇が触れて、舌をお互いに絡ませ合う。何時振りのキスだろう、でも初め
てしたころよりずっと、ずっと、嬉しいという感情がこみ上げてくる。
これが最後になる、なんて微塵にも思っていない。寧ろ何度もキスをしたい、という強
い、優しい欲望が僕を支配しているようだ。だから、僕は。
「僕は生き続ける」
柔らかく微笑む咲の胸元で、僕はそう決意して、誓った。
あれから三年と少しの時が過ぎていった。
「この時期になると桜の花びらが舞い散ってとても綺麗だ」
僕が好きだった小説の台詞を、再び反芻する。その台詞にも、続きがあるわけで。
「その景色を二人で見れるってだけで、もっと綺麗に見えるね」
三つほど年を重ね、更に綺麗になった咲が隣で微笑んでいる。
足が一部壊疽してしまい、その影響で車椅子の生活をしなければならないという制限は
ある。それでも一時期死ぬかなんて思っていた頃よりは相当マシな身体をしていた。
ある程度生活できる範囲にまで容体が回復した僕は、その年の冬に無事退院した。大学
は流石に中退しなければならなかったが、それでも小説家として食っていけるほどの金は
あったし、これからもプロの小説作家として活動を続けるつもりだ。それだけではなく彼
女もまた、ミステリー作家として世間一般に名を轟かす存在にまで登りつめた。
そんな僕らは、この春婚姻届をだし、桜が綺麗なマイホームで暮らしていくことにした。
リャナンシーと呼ばれ、恐れられた彼女の面影は、ここにはいない。
ここにいるのは、互いに愛し合う二人の文字書きだけだ。
この小説を読んでいただき、ありがとうございます。
余談1:この短編小説、二日かけて完成したんですが、一日くらいかけて最後の展開をハッピーエンドにするかバッドエンドにするかで迷いました……(笑)
余談2:粋な計らいと書いて、余計な事と読ませるのは私の好きな読ませ方です。
余談3:他の四人の描写、せっかく名前入れたし頑張って連載したいなぁ、と思ったり。