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♪(7)その病名は

 「自分の作った風に追いまくられてはダメ。

  風が足りなくて、メロディに催促されるのはもっとダメ。

  自分の風とぴったり一体になってごらん」

 父はいつも幼い茜に、そう言ってベローを引かせた。


 茜は昔から、母の言葉よりも父の言葉の方が好きだった。

 母のように、ふたりの娘を全て平等に扱うつもりが、父には全くなかったからだ。 アコーディオンを教える時も、茜には長時間楽器を抱かせたが、美登里には弾いて聞かせるほうが多かった。

 「ミドリは演奏家向きじゃないよ。 それより譜面を読んで、知識を増やした方がいい」

 何を基準にそういう差をつけるのか、具体的な説明を聞いたことはなかった。 多分、父も直感でやっていたのだろう。


 アコーディオンの懐かしい音色は、あの頃の無邪気な自信を思い起こさせてくれる。 今現在の茜にないものを、手が届かないまでも上空に浮かび上がらせる音色だ。 無心に演奏するうちに、茜の心は子供のように透明になって行くような気がした。


 


 「アカネちゃん、9時になるからそろそろやめなさいって、母さんが」

 美登里が部屋を覗いて、そう言った。

 「もうそんな時間なの?」

 茜はあわてて楽器を膝から下ろした。

 

 「なんでそれ、急に弾く気になったの?」

 言いながら、美登里が部屋に入って来た。 右手に携帯を握っている。

 「部活のステージで使おうかって話が出たからちょっとね」

 茜は、学校の事情を簡単に説明した。 エレキが使えないことや、先生の頭が固くて大変なことも、愚痴混じりに付け加えた。


 「軽音楽でアコーディオンって、ヘンじゃない?」

 話を聞くと美登里は、露骨に馬鹿にしたような表情で言った。

 「そんな物持ってステージに立ったら、昔のお笑い芸人みたいになっちゃうよ。

  父さんがカラオケ代わりに伴奏で出た時も、なんかカッコ悪かったじゃない」

 美登里は小さい頃から、茜が何か始めるのを見ると、必ずこき下ろす癖がある。 女の心得は先制攻撃にありと、幼少期からわかっているのだ。 良い気分に水を差されて、茜はつい声を尖らせた。

 「あのねえ、格好のためにやってる最先端バンドみたいなのと違うのよ。

  どうせミドリの学校の部活の感覚じゃ、わかりっこないから黙ってて」

 プイと後ろを向いて片づけを始めた茜に、妹は屈託なく別の話を始めた。

 「ね、見て見てこれ。 ミラーマンのメアドもらっちゃったよん」

 「え?」

 「さっき第1便送ったら、すぐ返事くれた」

 自慢そうに携帯を見せられた。

 

 “メールありがとう、恩田さんのメアド登録しました。

  オレはまだ通院してるんで、放課後の部活は難しいかも。

  演劇部はなかなかハードと聞いてます。健闘を祈る!”


 「ミドリ、演劇部に入るの?」

 「うん、わりと有名みたいだよ、うちの演劇部。

  でも、ミラーマン誘ったら断られちゃった。 中学でやってたって言ったから期待したのになあ」

 「あんたまさか、それが動機で演劇部選んだんじゃないでしょうね」

 「えー、いーじゃんそれでも。 何がエンジンになってても、要は真面目にやって結果出れば文句ないんじゃん」


 (ミドリの考え方はいつもそうなんだ。 公立高校受験も、共学が良かったから選んで、結局手に入れたんだ。 部活もそういう感覚で選んでるんだ。

  なによ、あんなメール、ただの世間話じゃない。

  私なんて、付き合って欲しいって言われたんだから‥‥。 いや、言われはしなかったけど)


 もしあの時メアドを教えていたら、自分にはもっと親しみのこもったメールが入ったはずだ。

 自分でふったことは棚に上げて、茜は鏡からのメールが欲しいと思った。  





 朝、いつものお花畑バスに乗りこむと、車内を見回して鏡の姿がないかと探す。 あの朝以来、それが茜の楽しみになっていた。 

 (いた!)

 比較的後ろのつり革の下に立っている鏡を見つけて、一瞬単純に喜んだのだが、すぐに様子がおかしいことに気付いた。

 その時、鏡は熱心に窓の外を見ていたのだが、一心不乱といってもいい表情は、どこか鬼気迫る物を感じさせた。 少なくとも、見慣れた街の風景を何気なく眺める表情ではない。

 何故か胸を突かれる思いがした。 あとで思えば、この時彼の心にはとても深い思いがあったのだが、その時の茜にはそれを察知する能力も時間もない。


 「いたいた、あれだあれ、恩田っての」

 思いがけない至近距離から、突然聞こえてきたヒソヒソ話に、茜の思考は中断した。

 「あれか? 思いっきりフツーじゃん」

 「根性はフツーじゃないっての」

 「へえ、そんなに?」

 「そりゃあもう!‥‥あ、にらんでるにらんでる」

 

 声の正体は苅野。 相手は他のクラスの生徒ふたり。 恐らく苅野と同じクラブの付属中出身者だろう。

 茜が驚いてそちらを見ると、3人は目を逸らす。 見るのをやめると、またヒソヒソ始まる。

 その割には不必要に大きな声を出すので、こちらに聞かせるつもりでやっているのが見え見えだ。


 「初日から指導室お呼び出しだからな、代議委員が聞いてあきれるって」

 「いやーさすがに初日はみんな大人しくしとくもんだけどねえ」

 「で、2日目も指導室」

 「常連かよ」

 「笠井とできてんじゃねえ?」

 下品な冗談を言って笑う苅野たちの方を見ることが出来ず、茜は歯を噛み締めた。

 反感を表すにしたって、このやり方はあまりにも幼稚だ。

 (馬鹿じゃないの!?)

 屈辱感よりもダイレクトな怒りがこみ上げてきたが、抗議したり意思表示したりする勇気がない。 負けていると思うと情けなかった。

 

 こんな姿を見られたくない、と鏡の方を伺ったが、幸い彼はこちらに気付いてはいないようすで、硬い表情のままうつむいていた。

 次の瞬間、鏡は唐突に右手を伸ばすと、窓辺の降車ボタンを押した。

 茜は驚いた。 城南高校のバス停はもっと先のはずだ。

 苅野たちの声が、一切耳に入らなくなった。


 バスが止まると、鏡はうつむいた姿勢のままステップを降りて行った。

 足元がおぼつかないようにも見えたので、具合が悪いのではないかと、この時茜はようやく気づいた。

 慌ててできるだけ窓側へ寄って、バスを降りたあと鏡がどうするのかを確かめようとする。

 果たして彼は、バスを降りたところで2・3歩よろけ、そこにあるベンチに座り込んでしまった。

 そのまま体を二つ折りにした。 飛行機事故のときにする、安全姿勢のようだ。

 どう見ても尋常じゃない。


 走り出すバスの中で、茜は叫んだ。

 「すみません、止めてください! 降ります!!」

 

 今度は周囲がビックリして茜に注目した。

 強引に前へ移動する間中、複数の強烈な視線を浴びた。 それも当然、車内の8割が賢聖の生徒なのだ。 こんな場所で降りる生徒をいぶかるのは無理もない。

 あとで苅野に何を言われるかわからない、とは思ったが、反面、人を助けに降りたと証言してくれる生徒もいるかもしれない。


 「停留所でもない場所では止まれません」 

 運転手が言い張ったので、茜が下ろされたのはひとつ先のバス停だった。

 ほんの2ブロック程度の区間を永遠にも感じながら、茜は歩道を走った。


 「鏡くん! 大丈夫?」

 駆け寄って声をかける。

 鏡はさっきよりさらにぐったりして、ベンチに仰向けに横たわってしまっていた。

 「愛ちゃん?」

 まぶしい朝日の中で薄目を開けて、鏡が茜を見た。


 「具合悪いの?病院行く? き、救急車呼んだほうがいい?」

 駆けつけておきながら、どうすべきか判断のつかない自分に茜はいらつき、早口でまくし立てた。

 「それとも車、そうだタクシー止めようか」

 「‥‥愛ちゃん、学校は」

 「いいから、どうして欲しいか言って!」

 「大丈夫だよ。 今、お袋に電話したから」

 「迎えに来てもらえるの?」

 「うん、車で駆けつけるって。 だから愛ちゃん、行っていいよ」

 「迎えが着くまでここにいるわ」

 「遅刻すんぞ」

 「うん、する! していいもん」


 だるそうに細められた鏡の眼に、ふっと光が宿った。

 「愛ちゃんがついててくれるのか」

 「うん、ついてる」

 「夢みてえ」

 鏡がふふっと笑った。

 笑っていても、その顔は紙の様に白く、なんだか今にも息が止まってしまいそうに弱々しく見えた。


 茜は焦る気持ちを、車道を行き交う車に集中することで紛らせようとした。

 「あと5分くらいで来るよ」

 鏡が言った。 心配顔の茜を、逆に気遣っている。

 茜は反省して、なるべく落ち着いた態度を取ろうと深呼吸した。


 「鏡くんどこか悪いの? 病気なの?」

 「まあね。 俺、ほんとはもう1コ上なんだ」

 「え? 1年先輩ってこと?」

 「うん、病院出たり入ったりしてるうちに、出席日数足りなくなったんだ。

  今年の入学も滑り込みだった」

 「その‥‥なんの病気か聞いてもいい?」

 「ハッケツビョー」

 「え?」

 聞こえなかったわけではない。

 即座に納得できない情報を、脳が拒否したのだ。


 鏡がふっと吐息を漏らして苦笑した。

 「白血病だよ。 みんな同じ反応するなあ、この病名聞くと」

 茜は返事が出来なかった。

 白血病についての知識は、ドラマや映画で得たものしかなかった。 その作中の患者は、きっと治る、治らない病気じゃないと言われながらみんな死んで行った。

 彼らは病気でなく“死”と戦っていたのだ。


 「そんなに固まらなくても、昔ほど死病じゃなくなって来てるんだぜ。

  実際、薬が効いて完全寛解と呼ばれる状態になったから、退院して受験も出来たわけだし。

  でも、ジョーナンを受けたのは、この病気のためなんだ」

 「どういうこと?」

 「髪型が自由だろ、ジョーナンは」

 「髪?」

 茜ははっとした。

 「確か、白血病の治療って、髪の毛が‥‥」


 「そーそー、薬の副作用で一度全部抜けちゃってさ。 今はズラなんだけど、オジサンが剥げるのと違って、薬やめたら生えてくるだろ。 伸ばしながらズラ使うって、短いと難しいわけ。 でも大抵の高校じゃ、長髪はダメだからさ」

 「それでジョーナン」

 「選択基準が不純だよな」

 鏡は笑った。 笑顔を作るだけで辛そうに見えた。


 その時、路肩に赤い軽自動車が寄って来た。

 「来た来た」

 鏡がベンチに寝そべったまま片手を上げた。 運転席からやせ型の中年女性が降りて来て、手早く後部ドアを開ける。 茜は鏡に手を貸して、車に乗り込むのを手伝った。

 後で考えたら、この時はろくに挨拶もしなかった。


 「もういいよ、愛ちゃんは学校行って。 ほらバス来たじゃん、早く」

 この期に及んで、鏡は茜を気遣った。

 茜は病院までついていって容態を聞きたかったが、かえって迷惑になると思ってやめた。

 「そうだ、鏡くん、これ」

 思いついて、例のお手製名刺のメモを鏡に渡した。 「青井愛子」のメモだ。 

 「家に置きっぱの携帯だけど、連絡して」

 鏡はわずかに顔を輝かせ、

 「やったね」

 と笑いながら、車中の人となった。


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