♪(6)おねーさんと呼ばれる人たち
「よく来てくれたわね。 あたしは部長の仁科と言います、ヨロシク!
さあ、入って!」
3-Dの教室で迎えてくれたのは、今日はジャージでなく制服着用の千手観音だった。
茜と青井は、教室中央に机を集めてギターを弾いていた5人ほどの集団の所に連れて行かれた。
一同、簡単に名前だけで自己紹介する。 ひとりは仁科とデュオを組んでいる浅木という3年生、残りの4人は2年生だ。
椅子に腰掛けるや否や、ギターをボンと膝の上に置かれてびっくりした。
「別に楽器はギターでなくてもいいんだけどね。
でも、学校から許可が出ていて、持ち運びが出来て、ここで教えることが出来るものというと、今のところアコースティックギターだけなのね。 ピアノやキーボードも演奏許可は出てるけど、音楽室に行かなきゃダメだし。
青井さんに恩田さん、ギターの経験は?」
「わたしは兄貴のを少しいじってますが」青井が答えた。
「恩田さんは?」
「わ、私は全然初心者で」
「初心者歓迎よ。 ギターの他にも各自できる楽器があれば、それを申請して使っていいわ。
でもねえ、エレキギターとドラムスの許可が下りないのよねえ」
「え? 軽音楽部なのに?」
「そうなの! 信じられる? バンド活動させると不良化するって言う迷信が、先生達にあるみたいなのよねえ。
なかなか大変なのよ、偏見と戦うのが」
「へ、偏見‥‥」
「そうよ、昨日だってどうして制服じゃなくてジャージで歌わされたか、知ってる?」
「どうしてですか」
「『ステージで足を組んで、下着が見えたらどーすんだ!』ですと」
「うわ古くさ!」青井が笑った。
「仁科のおねーさん、それ古いんじゃなくて無知なんだと思いません?」
向かい側の離れた机でチューニングをしていた鳥羽という2年生が、仁科に言った。
「クラシックギターみたいに、座って演奏するとこしか見たことないんですよ。
ベルトで釣るのはエレキだけと思ってるんです、チャンスは」
(おねーさん?‥‥チャンス?)
耳慣れない単語を聞いたと思ったが、ドッと笑いが起こって聞き返しそびれた。
「あはは、ありえるありえる」
「チャンスの頭の中、70年代で止まってっから」
「チャンスって、人の名前ですか」
青井が尋ねると、浅木がうなずいた。
「顧問よ、ここの。 この学校で一番古株の、嘱託で来てるじーちゃん先生でね。
ほら、前髪だけ残してつるつるに禿げてんのよ」
「ああ、だから『チャンス』か」
そこでわかったのは青井ひとりだった。 茜が首をかしげると、みんなが説明してくれた。
「『チャンスは前髪をつかめ』って言うじゃない。
チャンスの神様って、出会い頭にそこをつかまないと、とらえ様のない神様なんですって」
「ずいぶん凝ったあだ名ですねえ」
茜が感心して言うと、仁科がきゃっきゃっと笑った。
「それも古いセンスなわけよ。 昔むかしの先輩から、脈々と受け継がれてきた、骨董品のニックネームなの」
「そ、そんな昔からハゲてた‥‥?」
「ははは、そこが気になる?」
「私、用務員のじーちゃんだと思ってました」
「あははは、この子おもしろーい」
アットホームな少人数の部活だった。
その日茜たちは、先輩から2つ3つのギターコードを教わり、音の出ない弦を苦心して弾いた。
「この学校の文化祭は6月なの。
一年生は1曲ずつでもステージ可能な曲をマスターして貰いたいから、入部するなら早めに言ってきてね」
仁科が言うと、浅木が腕組みして言った。
「でもどうすんの、ギターとピアノとキーボードしか許可おりてないんでしょ?
えんえんバラードと70年代フォーク系?」
「うーん、一時間弾き語っちゃったら飽きるかなー」
仁科も考え込んだ。
「シンセサイザーはどうですか?」
ずっと黙っていた青井が言い出した。
「シンセなら、大抵の音を代用できます。
イメージも悪くない、というより、きっと先生方の感覚としてはキーボードと区別つかないから使えるんじゃないかしら」
「誰がシンセなんか買えるのよ」と、仁科。
「わたしが持ってます」
青井の言葉で、一同騒然とした。
「金持ちやん」
「お嬢がいるぞお嬢が」
大騒ぎするのを、仁科が止めた。
「青井さん、それ毎日持って登下校できる?」
「移動? いえそれは無理です。 大きさはキーボードと同じだし、第一、精密機械なんですよ?」
「そしたら、保管の面で許可が下りないと思うわ。
出来たばかりの部で、鍵付きの部室もロッカーもないからね。 ギターでさえ置かせてもらえないんだもの」
(ああ、それで千手観音になるわけか)
「わたし、入部するわ」
帰りの下駄箱のところで、青井が言った。
「感じよかったじゃない。 仁科のおねーさんもいい人だったし」
「その、さっきも気になったんだけど、おねーさんって?」
聞き返した茜を、青井は驚いたように見た。
「知らないの? この学校、先輩のことを、ナニナニのおねーさんって呼ぶのよ」
「ええええ、それヘン!」
「有名な話じゃない。うわ、知らない人もいるのね」
「聞いたことなかった、それも伝統ってやつなの?」
「かもね」
「なんかレズっぽくない?」
「ぽいね。でも単なる習慣でしょ、慣れるって」
青井は少しも気にならないようだった。
「で? 恩田ちゃんはどうする?」
入部するかと聞かれて、茜はうなった。
実は、ひとつの可能性を考えていたのだ。
「あのねえ、楽器って、ほんとになんでもアリかな」
茜は思い切って言ってみた。
「アリもナシも、許可可能なものが少ないんだから、こっちが選んでるゆとりはないんじゃない」
「あの、アコーディオンってだめかな」
「アコーディオン!?」
青井が目を見張った。
「それなら音楽室にあるから、借りられるんじゃないかと思って」
「いいけど、恩田さんが弾くの?」
「うん、昔、習ってたの」
「珍しいものをまあ」
「父がやってたのよ、カラオケが普及する前は仕事もあったらしいわ」
「へえ、プロの人かァ」
「プロっていうかわかんないんだけどね。 でもアコーディオンの音は独特だから、曲の雰囲気が限定されるかも。 軽音楽っぽくないし、合わせる楽器もあるかどうか」
「シンセが入れられれば、アコーディオンに合う音色を作ることは可能よね」
青井は何度もうなずいて考え込んだ。
「つまり、恩田ちゃんは入部する気あるんだわね」
「え‥‥と、もしそれができるなら、やってみてもいいかなって」
「よし、戻ってチャンスと音楽の先生に聞いてみよう!」
「これから?」
「そうよ、善は急げ、チャンスは前髪よ!」
チャンスの神、白井先生の口利きで、音楽室のアコーディオンを借りる算段がついた。
それによって、2つのことが決まった。
ひとつは茜と青井愛子が、軽音楽部に入部すること。
もうひとつは、ふたりがグループを組むこと。
「よろしくね」
茜は、あの手製の名刺を青井に渡した。
「ありがと、今日必ずメールするわ。 携帯はないけど、パソにメアド作ってあるから」
青井が言った。
彼女が約束を破らないことは、それまでの短い触れ合いから充分信じられた。
「父さん、ちょっといい?」
夕食後、茜は父親に声をかけた。
ソファでテレビを見ながらゴロ寝を決め込んでいた父が体を起こす。 久しぶりに茜の方から声をかけたので、父は嬉しそうだった。
「あのね、昔、私にくれるって言ったアコーディオン、まだある?」
「取ってあるはずだよ。 父さんの部屋の押入れだろう」
「探してみる」
「弾くのか」
「うん」
押入れから発掘した箱は、見るだけで懐かしさがこみ上げて来る代物だった。
赤いびろうど張りの古いケースを開くと、中からメタルブルーのアコーディオンが出て来た。
腕に抱えると、ずしりと重い。 でもその重さを、茜は「軽い」と感じた。
このアコーディオンを弾いていたのは、小学校4年生までだ。
当時の小さな体格では、この楽器はひどく重かった。 ベロー(蛇腹)を引っ張る力も弱かった。
だからいつも20分も練習するとクタクタになった。
それでも、弾くこと自体は嫌いではなかった。
アコーディオンはピアノと違い、操作する場所を視認できない。 耳を頼りに、探りながら音を組み立てて行く。 それがなんとも職人的な感覚なのだ。 思い通りに弾けたときの万能感は、魔法使いになったかのように感じて心が踊った。
子供時代の茜にとって、アコーディオンは風を操る神様になれる楽器だった。
そう、小さな頃には、茜にだって自信に溢れていた時期もあったのだ。
そんな大好きなアコーディオンへの熱が冷めた理由はいくつかある。
まず第一に、5年生になって反抗期に入り、教えてくれる父親を、だんだん「ウザい」と感じるようになったことだ。
同時に勉強が難しくなり、宿題も増えた。 自由な時間がなくなったのだ。
だが一番の理由は、やはり美登里の存在だっただろう。
美登里はあまりアコーディオンが好きではなかった。 練習も姉につきあってしぶしぶ手ほどきほどのものを受けただけだった。
それが、5年生になってから急に熱心に弾き始めたのだ。
小学校の音楽の授業で合奏をやるようになり、アコーディオンを弾けることが自慢できたためだった。
演奏の実力は茜の方が数段上だったが、内向的な茜はそれを学校で自慢したり、人前で発表することを全くしなかった。 そこが妹と茜の違いで、美登里は、できることは全て学校でも見せるので、結局人から賞賛されるのは彼女の方だった。
妹さんはすごいね、と友人にまで言われ始めて、茜は演奏に万能感を感じなくなった。 そして次第に練習もしなくなってしまったのだった。
ベローのベルトをパチンと外す。
右手でキーを押さえながらベローを引くと、実に軽々と風が入った。
(すごい! こんなに軽かったんだ‥‥)
思い通りになる!
茜は夢中で弾き始めた。