♪(3)自分が自分じゃなくなる魔法
午後からは、1年生全員を対象に実力テストが実施された。
クラスメートたちはブツブツ言っていたが、茜は逆にテスト時間の方が気持ちが落ち着いた。
その時間は人間ではなく、紙と向き合っているだけでよかったからだ。 人と話さなくて済むことが、茜をほっとさせていた。
(こんなんじゃ、友達なんかできっこない)
考えたら中学1年生のこの時期は、美登里と一緒に登下校していたから、自然に友達と話もしていた。 今更ながらオンブ抱っこでやってきていた自分に気づいて愕然とする。
「クラブ見学行く?」
「あーあたし、演劇部見てみたいなあ」
「えー。 バスケやめちゃうの?」
他の生徒達は、もう互いに他愛ない会話を交わしている。 たった1日で、昨日とは違う新しい人間関係がそこかしこで生まれているのを感じる。
茜に話しかけて来る生徒は、ひとりもいなかった。 茜本人も、自分から誰かに話しかける勇気もきっかけも見つけられず、そのことにどこか安心している。 そんな自分が嫌だった。
掃除を終えるや否や、後も見ずに教室を飛び出した。
胃の辺りがズキズキと痛んでつらかった。
「ああ!! よかった、一番乗りで出て来てくれて助かったよ!」
校門を出たところで、叫びながら駆け寄って来たのは、見覚えのあるジャケット。
(今朝の長髪ボーイ!!)
びっくりして胃痛がどこかに行ってしまった。
「友達とワイワイ出て来たら困るなと思ってたんだ。 あ、ちょっと逃げないでくれよ。
あ? あああ! あああああああ!!!!」
「な、なんですか大声で?」
「だって、三つ編み! 三つ編みにしちゃったあああ!!」
あとから校門を出て行く女生徒が、怪訝な顔でこっちを見ている。
「し、静かにして。 一体なんなんですか」
「なんで編んじゃうんだよぉ」
「校則違反だったです。 あなたの言ったとおりで。
ちょっと‥‥泣かなくてもいいじゃないですか」
「オトコの夢を踏みにじる、サイテーの校則だな!!」
長髪ボーイはすっかり涙目になって、茜を恨めしげに見た。
そして、右手を差し出した。
「生徒手帳、見せて」
それからバス停までの道のりを、つかず離れずの距離で、ふたりは歩くことになった。
長髪の変人ヒーローが、食い入るように茜の生徒手帳を読みふけっていたからだ。
「変わった校則だな、ふっるくさー。
なんか、後乗せツギハギで不自然な感じもするしさー」
口の中でワケのわからないことをつぶやきながら、すっかり集中している。
茜はまたその横顔をみつめてしまう自分に戸惑っていた。
(こんな変人相手にしちゃうなんて、どうかしてるかな、私‥‥)
自分でもどうしてなのかわからない。 ただ寂しかったのか、自分が認めてもらえたのが嬉しかったのか。
(ううん、それより、この人なんだか憎めない)
「すげー。 どーゆー恰好させたいんだろう。 ほらッ、ここ見て」
手招きされて、茜もつい顔を寄せた。
「『髪は全体を全て同じ長さに切る』だって。
これ、段カットとかシャギーとかを禁止してるのかも知んないけどさ。 この書き方だと、前髪を目の上んとこでパッツンと切るのも禁止だろ。 そしたら、オカッパは校則違反だぜ」
「えええー??」
「イマドキ全ての髪が同じ長さってもな。 美容院でも、多い部分はすき切りにするし無理だよな。
しかも、前髪に関する校則はないと来てる。
普通、目にかかる前に切れとか、一行あるもんだけどな」
「そういえば、ないわね。
じゃあホントにパッツン禁止なの? 私も目の上で切ってるから、これも違反なのかな」
「それだけじゃない、長い前髪がユーレイみたいに顔にかかっててもオッケーってことだろ」
「そうなの?」
「だってヘアピン禁止じゃないか」
「でも、広がらないように整えろって書いてあるのよ。 それもすごくいろんなことに当てはまるわ」
「じゃ、今流行の『おだんご』はセーフか? まとめりゃいいんだろ」
「そうね‥‥っていうか、そうよ、そうなんだわ。
これ最初から、大部分の人が髪をくくっているものとして書かれてるのよ。 だからおかしな感じがするんじゃない」
茜は入学説明会の時の、校長の話を思い出した。
「うちの学校、大正時代に開校してるの。 その頃は、ハイカラさんたちの花嫁学校だったんだって」
「まさかその当時から、風呂敷流行かよ」
「それはどうかしら。 第一、風呂敷OKとか紙袋禁止とかいったことは、手帳には書いてないのよ」
「うん、指定カバンAとBのみとする、とあるね」
「そのAがこれ」
茜はうなずきながら、自分の学生カバンを掲げて見せた。
「イマドキ肩掛けにも肘下げにもならない昔タイプの、オーソドックスな学生カバン。
で、Bは今日持って来てないけど、体操服なんかが入れられる補助カバンよ」
「見たことあるある」
「でもどちらもB4までの物しか入らないから、大きなものを持つために風呂敷を許可したのだって、説明会では言ってたわ」
「ふうん、おもしれー。 つまり、学校側の意図に反した方向で流行ってんだ。
あれ、昭和22年で一応改正してるじゃん。
げ、もしかしたらそれっきり改正なしでやって来てんのかよ」
ブツブツ言いながら、目を輝かせている長髪ボーイは、ゲームに夢中な小学生のようだ。
「‥‥変わった人‥‥」
茜は思わずクスクス笑い出してしまった。
相手がふと視線を上げて、茜をじっと見た。
「え? ‥‥な、なに?」
ドキッとして視線が泳ぐ。
「きみに見とれてんだ」
相手がしゃあしゃあと言ったので、茜は赤くなった。
「今まで髪ばっかり見てたけど、笑顔も可愛いなあ。
ね、名前教えてくれない?」
「えー‥‥」
典型的なナンパだ。 茜はどうしたらいいかわからず、地面に視線を落としてしまう。
(こんな時、ミドリならどうするだろう。 気の強い子だから、きっと‥‥)
「人に名前を聞くときは、自分が先に名乗るもんじゃないの?」
わざと高飛車に言いつけてみた。
「おおッ、そう来たか。 オレ、カガミっていうんだ。 カガミ・ユーダイ」
「鏡 雄大‥‥」
はて、何処かで聞いたことがある。
どこでだったろう。 なんで、読みを聞いた途端、漢字が頭に浮かんだんだろう。
「鏡さんって、有名人?」
「なんで? あ、鏡くんでいいよ、同じ学年だし」
「ええ? 高1? 見えないし!」
「ふけてるかなー」
「そうじゃないけど、私服だから大学生かと」
鏡は笑って頭をかいた。
「服装は自由なんだ、ジョーナンだから」
「え?」
ジョーナンと言うのは、妹の美登里が通っている県立城南高校の通称だ。
茜の背筋を冷たい風が流れた。
「1年何組?」
「2組だけど、なに? 知り合いがいるの?」
「ち、ちがう!!」
よりによって美登里と同じクラスだ! 一番嫌なパターンだ。
何しろ今まで友人に、かなりいろんなことを言われて来たのだ。
「ほんとにこっちがおねーさん? 逆じゃないの?」とか、「似てねー! かわいそー!」とか。
「‥‥で? 名前教えてくれるんだよね?」
ものすごく嬉しそうに、鏡が尋ねて来た。 はしゃぎ回る子犬のような目をしている。
茜は必死で頭の中を検索した。 恩田の姓を出したくなかったのだ。
「私は、あ、青井愛子!!」
適当に浮かんだ名前を口にした。
「愛子ちゃん、いい名前じゃん。 ねえ、カレシいるの?」
「う‥‥うん、いる!」
答えた途端、心臓がビクンとした。 相手の顔が、凍りついたように曇ったからだ。
これまでの軽いノリからは考えられない表情だった。
「‥‥ウソだよね?」
泣きそうな声で聞いて来た。
(可哀想だったかな。 軽いナンパ男かと思ったら案外マジなんだ、困ったな。
でも確かに、いかにもオトコ慣れしてない私が、中学時代すでにカレシがいたって設定はウソ臭いかも)
咄嗟に茜はにっと笑った。
「ごめーん、ウソだよん」
相手がハアッと息をつく。
「ごめんごめん。 でもね、マジで好きな人いるのよ。 これはホント」
「‥‥マジで? どんなヤツ?」
「大人の人。 フツーのリーマンだよ」
「オジサンじゃね?」
「そんなにトシじゃないよ。 27だったかな」
「いいヤツ?」
「うん。 でも私は、子供だと思われてる」
「オレも、愛ちゃんから見たらガキに見えるだろ」
「どうして?」
「大人のオトコがタイプなんだろ? オレなんかさ」
「ううん、鏡くん充分大人っぽいよ。 だけどそういうことだから。‥‥ごめんね」
しゅんと小さくなってしまった鏡を見ながら、茜は逆に興奮状態だった。
(こんなに男の子と自然に会話できるなんて!)
自分の名前を捨てて、別人を名乗っているせいだろうか。 それとも鏡のキャラがそうさせるんだろうか。
まるで自分の口ではないみたいに、思い切った言葉が出て来ることに夢心地になった。
それは茜にとって、生まれて初めての経験だった。
(まるで魔法みたい!)