♪(27)みんなが改正を願ってる
恐怖は、同じ情報を持つその場の人間に伝染する。
そのスピードたるや、幸福や友情と言ったプラス要素の、ゆうに8倍を超える速度だ。
悲鳴を上げた茜の隣で、昨夜の幽霊を見てもいない青井と山吹までが、昇降口のドアを見て凍りついてしまったのは、伝聞という情報のためだった。
「ででで、出たあ!!」
古い校舎の屋上に立ち込める宵闇の中に、枯れ木のような老女がゆっくりと漂い出て来る。
着ているものは、紫がかった白の和服。
皺だらけの痩せた顔面に、落ち窪んだ眼窩が黒い穴のようだ。
しかし次の瞬間、茜は信じられない光景を見た。
屋上でバイキングを楽しんでいた教師たちが全員、老婆の幽霊に向かって深々とお辞儀をしたのである。
「お疲れ様です、学園長先生!」
「が、学園長?」
「生きてる人?」
「ってか、学園長ってなんや?」
1年生3人が騒いでいると、笠井が手近な山吹の頭を小突いた。
「こら、おまえらも挨拶せんか! 賢聖女子学園学園長、蘇芳タエ先生だ、入学式でお会いしとるだろうが!」
3人は反射的に頭を下げたが、状況が理解できたわけではなかった。
「これこれッ、笠井先生。 生徒さんに手えだしたらいけませんでしょ」
老婆がしゃべった。 入れ歯ががたついて、顎の鳴る音が聞こえるような気がした。
まだドキドキしている心臓をなだめながら、茜は老婆をまじまじと見た。
暗い中なのでやはり妖怪めいて見えたが、落ち着いて見ると確かに、幽霊にしてはリアリティがありすぎる。
入学式の時にこの老婆を見たかどうかは、ついに思い出せなかった。 日頃記憶力のいい青井も覚えていないらしい。
「でも学園長って? 校長の上ってことよね。 賢女では、小学校、中学校、高校それぞれに校長がいて、1番トップが理事長先生っていうことだったと思ったけど」
青井のつぶやきに、チャンス白井が小声で注釈をしてくれた。
「理事長というのは経営者ですから、教育者である必要はないんですが、校長は教師じゃなくちゃなりません。 青井さんがおっしゃる通りこの学園には3名の校長がおいででして、この3役を統べる学園全体の教育者としてのトップというのが、学園長先生です。 蘇芳タエ先生は、学園の創立者である藤成玄一郎先生のお孫さんで、小学校の蘇芳道子校長と中学校の蘇芳キリオ校長のお母様でもあり、ここにおいでの蘇芳重太郎校長の叔母さまに当たられる方でもある」
「い、一族で教育者」
「ヤバ、偉い人なんや」
「幽霊呼ばわりしちゃったし」
団子になってひそひそやっていたら、老婆の視線がぴたりと茜たちを捉えた。
「昨夜は死ぬかと思いましたよ。 誰もいないはずの校舎から歌声が聞こえてきて。 合宿の人が騒いでると思って注意しに行ったら、まあ真っ暗な中で。 幽霊かと思いました! どなたなの、あんな夜中に歌を歌ってらしたのは」
「ひゃあ! すすすみません私です!」
「どなた」
「い、1年の恩田茜です」
茜が飛び上がって頭を下げると、学園長は突然、入れ歯を鳴らしてケタケタと笑いだした。
「まああ! こんなに可愛らしいお嬢さんだったのねえ、ふほほほ。 昨夜はものすごく怖い顔の幽霊に見えました。 腰、抜けてしまって這って帰ったんですよ」
「すみません、私もでした」
「やですよ、一緒にしちゃ。 こっちは老い先短いんですから。 心臓だって繊細よ」
学園長の年齢はなんと96歳。 周りの話を総合すると、現在では実務的な仕事からは遠ざかって隠居生活をしているらしい。
学園の敷地の片隅、ちょうどあの北校舎のすぐ脇に、小さな家が1軒ある。 なんの建物だろうとこれまで疑問に思っていたのだが、そこが学園長の家だった。 前任者でもあった夫と死別して以来、老女はそこで独り暮らしをしているという。
「96歳」
見かけは今にも倒れそうな老女だが、矍鑠とした態度は歳を感じさせない。 おまけに記憶力も相当確かだった。
「恩田さん、あれの話をしてらっしゃったですね。 ほら、記事で校則改正の話」
「えッ、学園長先生、あの新聞お読みになったんですか」
「そりゃ読みますよ、うちの学校の新聞ですから。 文化祭のお歌は聞きにいけませんでしたけども」
「すみません、生意気な生徒で」
「何をおっしゃるの? 校則の改正は必要よ。 ぜひやるべきです。
今時、こんなに時代遅れな、わけのわからない生徒手帳を使ってるなんて、恥ずかしくてね。 他校の先生に見せられませんよ」
3人は驚いて飲み物を吹き出しそうになった。 これまで校則に異論を唱える茜たちを、教師が支持してくれることなどなかったのだ。
「ほ、他の先生はそんな風にはおっしゃらないです。 笠井先生もいつだって決まりを守れって」
「現行の規則は、そりゃ守らなきゃ。 でも、その内容が恥ずかしいのは別のことです。 先生方、いつも嘆いておいでですよ。 だけども、生徒会から改正案が出なきゃ、変更できないじゃあないですか」
「じゃ、改正を歓迎してくださってるってことですか」
「今の社会に合わない決まりは、変えないとねえ」
「そうですけど、聞いた話だと、改正案を退けたのは先生方だったってことでしたが」
「あら、そうでしたかね? 笠井先生、かーさいせんせー?」
学園長が声を張り上げると、笠井教諭がビールを放置して2つ向こうのテーブルから飛んで来た。 酒が回って、日焼けした黒い顔が赤紫になっている。
「はははッ、なんでしょうか学園長」
「5年前に出された校則改正案、髪型のこととか出てましたあれね。 あれって学校がダメを出して立ち消えになったんでしたかしら?」
「いやあ、ダメというんじゃないっすよ、あれは。 あの時は、最初全然改正運動らしきものをやらずに、生徒会役員が全校生徒にやったアンケートをもとに提案だけ出してきたんで、保護者会まで持って行けなかったんす。
しかもクロガネってのが生徒会長だったんすが、本人も微妙にスリボレでしてね。 その状態で不便を説いてもらっても誰も納得せんと言ったら、意地になって制服買いなおして来まして。 そんならみんながその姿勢を受け取る形で運動してみろ、と言ったらそれきり提案が出て来なかった。 尻すぼみですわ」
茜たちは顔を見合わせた。 若草たちから聞いた話と少々ニュアンスが違う。
「じゃ笠井先生、例えばどんなふうに改正運動をすれば保護者会まで持ってって頂けるんですか」
それまで黙っていた青井が口を挟んだ。 笠井はちょっと嫌な顔をしたが、それでも明快な返答をした。
「アンケートじゃなくて、そうだな、署名運動とか」
「署名ですね」
「だけじゃないが、実際にやってみてここが不都合という意見書を募ってそれをまとめるとかいったことだな。 研究も運動も努力も何もした証拠がないのに、生徒の不満だけで学校が動くのは問題がある」
「盛り上がった証拠が要るということですね」
「盛り上がったで片付けるな。 運動の結果を出して持って来いと……」
「はい!」
「ホントにわかっとんのかお前は」
「はい!」
元気よく答える青井を見て、笠井はますます嫌な顔になり、青井の後ろ頭を軽く指で突いた。
「笠井先生!」
学園長が再度たしなめる。
「困るわね、笠井先生はコレが早くて」
プイと立ち去ってしまった体育教師を見送って、学園長が指先で頭にツノを生やす身振りをしてみせた。
「いくら体育会系ったって、そうポンポン殴ってたら、女の子ばかりなんだから嫌がられるでしょうに。
それでなくてもあんな、素揚げのナスみたいな色の顔なんですからねえ」
「……揚げナス」
その場にいた全員が吹き出した。
この秀逸な表現を気に入った軽音メンバーによって、その後笠井教諭のあだ名が校内に定着したことは言うまでもない。
夕食の席が一段落したあと、青井愛子は仲間である山吹と茜にとんでもない台詞を吐いた。
「勝算が立った気がするの。 先輩方の意向はこの際どうでもいいわ。
この勝負は、勝てる。 だから怖気付いたりしないで、立候補しましょう」
「か、勝てるかなあ」
茜はまだそこに確信は持てなかった。
「大丈夫よ、学校側が変えたがっているものを変えるんだから」
「学校の思うように変えるんやったら、生徒の希望が入らん形になるんちゃう?」
「改革は1つじゃなくいっぺんに何箇所かやるでしょう? そんなに何度も何度もできることじゃないんだから。 生徒の希望も取り入れて考案できるわよ」
「ホントにできるかな」
「信じなさいって。
卒業する時は私、婚約者と手を取り合って楽勝で正門を出て行くわ!」
茜は高揚した青井の顔を何度も見直した。
このガッツのある友人は、これまで一度もノロケのようなことを口にしたことがなかったが、本当は婚約者のことをとても好きなのではないかという気がした。
その晩、茜の携帯は1本のメールを受け取っていた。
「『やったー! 次の土日に外泊許可が出そうな感じ。
家でゴロゴロするから、茜遊びに来てね!』だって」
「ミラーマン家に帰れるんや! よかったな茜」
「病室じゃないとこで会えるじゃない。 おうちデートよ、いいわねえ」
合宿最終日に仲間が拍手で喜んでくれた。




