♪(25)思いを込めて歌うこと
「そない落ち込むことないで。 茜ヘタやないし、ちょい上がっとっただけやんか」
「そうよ。 落ち着いてもう一回やれば問題なくパスできるわよ」
青井と山吹が慰めてくれたが、せっかくみんなで作った夕食の味が、茜には少しもわからなかった。
(どうしよう。 どこを直したらいいんだろう。
心を込めて歌え、と言われたのはわかるけど、それってどう練習したらいいのかわかんない。
第一もう夜になるし、これから練習できる時間あるんだろうか……)
ぽつんと取り残された思いの上に、焦りばかりが募る。
ほかの部員たちは夕食の片付けが終わると、トランプをして大騒ぎをしたり、自分の好きなCDをみんなに聞かせたりして盛り上がっていた。 中には明日に備えて、作詞や作曲をはじめる者もいる。
部屋の隅でギターを抱えてみたが、喉が塞がったみたいで少しも声が出ないし、室内がうるさすぎて小さい声では聞こえない。 仕方なくギターコードをおさらいしているうちに消灯の時間になってしまった。
暑苦しい教室の中で、床に直接雑魚寝である。 そうでなくても寝られそうにないのに、これではなおさら目が冴えてしまう。
茜は何度も床の上で寝返りを打った。
同じように眠れなくて、暗がりでボソボソと話をしている青井たちの声が、それでもだんだん寝息に変わるのを、辛抱強く待つ。
部員全員が寝静まったのは、3時を回って室温が下がってきた頃だった。
学校の廊下は、思いのほか明るかった。 中庭に照明が点いているし、道路が近いので街灯の明かりもよく差し込むのだ。 古い校舎だからもっとホラーチックになるものと思っていたので、これは嬉しい誤算だった。
どこがいいだろう。 ギターの音をさせても気づかれないところ。
音楽室の隣にピアノ練習室があるが、きっと鍵がかかっているだろう。 1階の職員室横は警備員室で、そこで顧問の白井先生が寝ているはずだから、そこからも近くないほうがいいだろう。
ギターと楽譜を抱えて、茜は本館と北校舎をつなぐ、渡り廊下の前に立った。
北校舎というのは賢女で一番古い建物で、その昔は一般の教室だったと思われる作りだ。 今ではクラス数が増えた時の予備教室として使われる以外は、生徒会室、図書室などの一部特別室と、文化部の部室や倉庫としてしか利用されてない。
渡り廊下といっても立派な天井や壁を持つ「建物」状のものだ。 入口出口、合計2箇所の引き扉がついているのだが、北校舎側の扉が歪んで動かなくなっているため、各校舎に施錠したあともその扉は開けっ放しにしてある。
(本館の扉を締めて、北校舎側に行けば、歌っても聞こえないかもしれない)
渡り廊下は、さすがに少々不気味だった。 足元も見えないし、その先の北校舎の中は、ぼっくり穿った穴のような暗がりが、四角く広がっている。
(「学校の怪談」にあったっけ。 誰もいない夜中の廊下で足音がするとか、音楽室のピアノが聞こえるとか……。)
そこまで考えて、茜は突然おかしくなりクスクス笑った。 これからギターの音をさせて、怪談のネタになりそうなことをしようというのは自分なのだ。
そう思うと突然怖がるのがバカらしくなったので、さっさと扉を締め、渡り廊下を渡ってしまった。 この勢いに乗じて始めてしまわないと、絶対できっこないという気負いもあった。
廊下の暗がりの中にべったり座ると、暗くて譜面は読めなかった。 もう覚えているのだからと、目を閉じてギターの弦を探る。
できるだけ心を込めてイントロを弾いてみた。
真っ暗な廊下に響くアコースティックキターの音は、これまでに聞いたことのない別の楽器のように響き渡り、茜を驚かせた。 声を出してみると、これがまた地の底から湧いて広がる魔性の声としか思えない。
不気味なのでやめようかと思ったが、こんな歌が歌えるのはここだけ、今だけかもしれないと考え直し、今度は遠慮なく声を出した。 どこか半分やけくそでもあった。
自分の声と音の広がりを、自分の耳で不思議なイメージで聞く。
なるほど、さっき試験で歌った時は、自分の声を自分で聞いた気がしなかった。 それがいけなかったのかもしれない、と気づいた。
その時、カタリ、と小さな音がした。
目の前の暗がりで、何かが動いている気がする。 演奏をやめて、茜は目を凝らした。
廊下の一番奥。
ここに自分以外動くものがあるわけがない、と気づいたのはその時だった。
悲鳴は怖すぎて出なかった。 立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。
唯一動くまぶたを力いっぱい引き上げて、廊下のそれを睨みつける。 目が慣れてきたのか、その輪郭がだんだんはっきりしてきた。
それは、薄白い着物を着た老女だった。
悲鳴はやっぱり出なかった。 ギターを引きずって廊下を四つん這いで渡り、引き戸を開けて本館に転げ込んだ。 途中で楽譜を落としたことに気づいたが、取りに行くなんてとんでもない話だった。
「あ! おったおった! 愛子ー、茜がおったでー!」
山吹の声が階段の方から響いて来た。 茜はその腕に飛び込み、山吹にしがみついてようやく悲鳴らしきものを上げることができた。
「どないなっとん、茜おらんて愛子が騒ぐさかい……」
「でたのでたのでたの白いのあっち」
「茜、ギター持ち出して……あんた練習しようとしたんか」
山吹はいきなり茜をギューッと抱きしめた。
「よしよし、再試験が不安やったんやな。 茜、夕べ全然寝とらんのとちゃう?」
「いやそそ、そうじゃなく」
「真面目やなあ、茜のいいとこで悪いとこや。 あと2時間あるさかい、ちょっとは寝とき」
ヨシヨシと頭を撫でられて、それまでつっぱらかっていた体から、突然力が抜けてしまった。
青井愛子も駆けつけてきて、一緒に頭を撫でてくれた。
「ごめんね、気がつかなくて。 夕食のあとあたしたちも一緒に練習付き合ったげればよかったのに」
「ほんまや、茜おらんかったら、どのみち明日の午前中はグループ練習できへんのやもんな。
明日は朝イチで一緒にやろっか」
「ココちゃん、明日じゃなくてもう『今日』よ」
「ほんまや。 見てみい、ちょっと明るなっとる」
窓の外の暗がりは、少し白っぽい色に変わっていた。
朝食のあとで、二人に付き合ってもらって西校舎の楽譜を取りに行った。
明るくなった廊下の中程に、茜の落とした楽譜が3枚落ちている。 その当たり前さがかえって不気味で、夢でも見たのだと言われてもとても信じられなかった。
「いやいや、茜は勇気あるわ。 夜中にここに来て歌おうなんて、普通絶対考えられないでしょ」
青井が盛んに感心する。
「噂じゃ、この学校って戦時中に、空襲で怪我をした人の収容所になってたんだって。 まあどこの学校にもある怪談だけど、包帯した子供の幽霊とか、出るって聞いたわよ」
「わー、愛子やめ! うちら、まだ今晩も泊まるねんで」
「お婆さんてのは聞かないけどね」
改めて聞くと、自分でもよくあの暗がりで歌ったと茜も思った。
「渡り廊下渡る時は怖くないような気がしたのよ。 切羽詰ってたからかなあ」
「思いつめとったんやな」
山吹がまた茜の頭を撫でた。
「大丈夫やって、絶対ちゃんとできるさかい頑張り」
再テストのために教壇に上がると、茜はまず窓際に腰掛けている仁科と目を合わせた。
ことさらに厳しい顔をするでもなく、仁科は昨日と同じ表情で腕を組んで座っていた。
浅木はおだやかに笑ってこちらを見ている。
続いて客席側を見ると、2年生たちが揃ってガッツポーズをして見せてくれた。 あのおとなしい葉大までが、行けいけとサインを出している。
青井と山吹に至っては、自分たちの方が緊張して両手を握り締め、カチカチの頬を無理やり緩めて笑ってくれた。
一人だけ失格した惨めさは、もう感じなかった。
自分はこの気持ちを忘れてはいけないのだ、と思った。 歌うのはひとりでも、自分はひとりじゃない。
声はよく伸びた。
痛んだ指先のせいで音が出ないことが何度かあったが、気にしないで弾き続けた。
歌いながらみんなの顔を見ると、みんな一緒に歌ってくれていた。
「そういうことよ。 わかったでしょう」
歌い終わってホウと息をつく茜に、仁科が静かに言った。
「はい。 わかりました」
答えた途端に泣きそうになった。 そう、本当によくわかった。 仁科が伝えたいことが。
「合格よ」
わっと拍手が起こる。 その音がおさまるのを待ってから、仁科は立ち上がり、ギターを持って教壇に上がって来た。
(仁科のおねーさんが、何か弾いてくれる!)
茜は急いで席を譲った。 仁科の歌声は練習の時で聞き慣れていたが、彼女の本領が練習でなくステージだということを、ここに居るみんながよく知っていたのだ。
「この軽音楽部を立ち上げる時に、じつは随分迷ったの」
軽いチューニングをしながら、仁科が話し始めた。
「なにせ、指導してくれる人がいないでしょう。 あたしたちだっていいとこ2~3年やっただけの素人だし、最初はいいけど後輩が入ってきたら何を教えたらいいのって。
実際、今だったらギターなら葉大ちゃんのが上手だし、歌だってココちゃんみたいに最初からうまい子もいるわ。
じゃ、なにも教えないで先輩面するのかって。 そりゃつらいじゃない、お互いに」
ふふっと笑って、仁科は全員の顔をぐるりと見回す。
「でもね、ひとつだけあるの。 あたしがみんなに教えられること。
まず、この歌を聞いて。 オリジナル曲よ。
タイトルは『大人になりたい』」
それは囁くような語りかけるような、可愛い調子の曲だった。
♫君がね いじめられていたら すぐにね 飛んでいきたい
僕はね 君のためなら 誰より早く大人になるよ
教室で一人 泣いていた君が ずうっと忘れられなくて
どうして僕は子供なんだろう 君を守れる大人になりたいよ
大人になりたい 大人になりたい 君をお嫁にもらいたい
大人になりたい 大人になりたい 君をこの手で守りたい
信じられないことが起きた。
歌の中盤くらいで、胸が痛んで涙が出始めたのだ。
茜が思わず周りを見回すと、ほかの部員たちもみんなボロボロ泣いていた。
こんなに可愛い単純な歌詞で、しかも明るい曲調のこの歌で、こんなに涙が出るわけはないと思うのに、どうしたわけか泣けて泣けて仕方ないのである。
「歌ってすごいパワーがあるの。 あたしはそれを、みんなに教えてあげたいの」
演奏を終わった仁科も、少し涙ぐんでいた。
「シュン君の歌ね?」
浅木がハンカチで顔を拭きまくりながら言った。
「そうよ」
仁科も軽く顔を拭いて、ため息にも見える深い呼吸をした。
「この歌を作ったのはね、仁科俊、あたしの弟よ。 残念ながら、去年の今頃交通事故で死んじゃった」
息を呑む音が、教室に響き渡った。
「そう。 これは、大人になれなかった男の子が作った、『大人になりたい』という歌なの。
あたしはそれを知っていたから、そういう思いを込めて歌ったわ。 実のところ、この歌を歌うのは結構キツくて、もう普通の思いじゃ歌えないのよね。
でも、あなたたちはそんなことは少しも知らずに聞いたでしょう? なのにそれだけ涙が出たって不思議だと思わない?
歌って、技術じゃないのよ。 そのことしか教えられないけど、そのことが一番大事だと思うから、あえてこの歌を歌いました。 湿っぽくてごめんね」
何度拭っても、涙が止まらなかった。 今度は歌のせいではなく、仁科の思いが有難かったからだ。
一人が席を立つと、全員がそれに倣った。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
口々に言って、頭を下げる。 このクラブは指導者は必要ない、みんながみんなで学んで行くんだ、そのことに気づいた瞬間だった。




