♪(2)校門くぐって3分で
「恩田さん!おはよう!」
下駄箱のところで初めて、知った顔に出会った。
「カリノさん」
苅野まひるは、昨日から隣の席になったクラスメートだ。
大柄で肩幅の広いスポーツマン体型である上に、剛毛の髪の毛をしっかりと編んだ三つ編みが、神社のしめ縄のように太いので、全身からものすごくたくましい印象を受ける。
「見たぞ見たぞぉ、じゃれ合っちゃって。 なーにあれは、カレシ?」
いきなりごつんと小突かれた。
「ええ? カレシって」
「バスの中で話してたじゃん! 髪の毛メデメデされちゃったりしてウラヤマシイ!」
「メ、愛で愛で‥‥」
そんなんじゃない、と言おうとしたら、もう相手は目の前からいなくなっている。
「横チーン! おっは!」
「わッ、カリ出た! カリキモイ!」
「出たとかカリとか、エロイこと言うな!」
「んなら横チンも言うな!」
廊下で、すでに次の友達とつつき合っている苅野は、新生活の不安とは無縁であるように見えた。
(入学早々、顔の広い人‥‥。 多分付属中学から来た人だな)
茜が感心して見ていると突然、廊下に怒号が響き渡った。
「こらあ! そこの1年3人!」
怒鳴りつけたのは30代前半に見える男性教師だった。
ジャージ姿で下駄のように四角い顔。 絵に描いたような体育の先生、しかもあきらかに熱血臭がする。
そいつが廊下をヘンな恰好で滑り寄って来た。 廊下を走ってはいけないので、なるべく速く歩こうとして、そんな歩き方になるらしい。
「廊下で騒ぐな! お前らのキンキン声が、応接室まで響いて接客ができん!
ああ、それからそこのダブルモップ!」
(ダブルモ……え? 私!?)
茜は飛び上がった。
「その髪は違反だ。 指導室へ来い!」
「‥‥は?」
「今すぐ! 生活指導だ」
「ええッ、で、でもすぐ予鈴が」
「5分で終る。 来なかったら家に連絡して、親の方を指導せにゃならんがいいか!」
(うそ! 初日で呼び出しなんかかかったら、母さんに殺される!!)
茜はあわてて体育教師の後を追った。
信じられない。 校門をくぐってまだ3分しか経ってないのに、教室にもたどり着かないうちに叱られるとは。
生活指導室は部屋というにはあまりにお粗末で、階段下の狭いスペースを、無理やり使って作ってあった。
2畳ほどのスペースに、デスクと椅子のセット。 その前にパイプチェアを1つ置いたら、もう部屋は一杯だ。
茜はパイプチェアに座らされ、生徒手帳を開かされた。
校則のページだ。
「4を読め」
教師が横柄に命じた。
「‥‥第4条『長い髪は、耳の下でふたつに結ぶか編む』」
「6も」
「‥‥第6条『断髪は同じ長さに揃えて切る。 いずれも髪が乱れないようにまとめる』‥‥?」
「そうだ。 長い髪は結わえただけだと広がってばらばらになる。 編める長さになったら、ちゃんと編め」
(そ、そんならそう書いといてくれないとわかんない!)
頭の中でものすごい反発が起こったが、怖くて言えなかった。
「まあ今回は入学したてだから仕方ない。 直しておけよ、この次からは生徒手帳に記録を残すからな。
この記録が3つになったら、親の呼び出し。 5つになったら停学だ」
(うそ‥‥)
「帰ってよし!!」
廊下に出てから、茜はしばらく放心していた。
輝かしい高校生活のスタートになるはずの日なのに、台無しだ。
しばらくぼんやりしたあとで、はっと我に返り、急いで髪を三つ編みにした。
同じ事で何度も注意されたらたまらない。
急いで教室まで行き、ドアを開けてまたしてもひっくり返りそうになった。
室内が不気味に静まり返っている。
クラスメート達全員が席に着いて、手を膝の上に置き、黙って目を閉じているのだ。
何が行われているのか、わからなかった。
「遅刻ですよ!」
厳しい声が、教壇の方角から飛んで来た。
そこには3年のバッヂをつけた上級生がふたりいた。
「予鈴が鳴ったら正座の時間です。 すぐに着席しない人は、この時間中は席に着くことができません。
正座というのは5分間、精神を落ち着けてから本鈴を迎えるため、目をつぶって呼吸を整える時間です。
集中している人たちの邪魔になりますから、遅刻者は中に入らないで下さい。 その場で座って、目を閉じてください」
いかにもカタブツそうな、眼鏡にお下げの先輩が言った。
「この場? ここに? す、座るって正座するん、ですか」
「当然です!!」
目の前が暗くなる気がした。
まだ名前も覚え合ってないクラスメートの前で、正座。
それもドアの前で、直接床の上に。
この処置は絶対に、罰ルールとして設定されたものではないのか!
(ひどい、私は遅刻してない!
学校には来てたのに、教室に入りたくても入れなかっただけじゃないの!!)
でも、気の弱い茜に反論できる雰囲気ではない。 やむなく唇を噛み締めて、床に正座する。
「かわいそ」
「シーーッ」
クラスメートの囁きが聞こえる。
ここの高校は、どうかしている。
髪をくくるだけで編まなかったのが、それほど悪いこと?
学生らしくないと言うなら、あの万国旗みたいな風呂敷の流行はどうなのよ。
赤い下着が丸見えだったあの3年生はノーチェック?
学生らしく真面目な服装に見えないのは、あの人たちであって私じゃない!
(おかしい。 おかしいよ。 こんなことして、何の意味があるわけ?)
目を閉じたまま、茜は考え続けた。 怒りなのか落胆なのか、瞼の裏がじんわりと熱くなっている。
長い5分間が終わり、ようやく本鈴がなった。
「正座の時間を終ります」
3年生がクラスに宣言したあと、茜に向かって、
「遅刻者は、生徒手帳を出してください。 遅刻の記録が3回になると保護者の呼び出し、5回で一日分の欠席扱いになり、指導室で生活指導を受けていただきます」
と言った。
(またそれ?)
茜の生徒手帳に、最初の記録が残った。
しかもただ返してくれたわけではなかった。
「遅刻者は、遅刻の理由をみんなの前で言ってから、着席してください」
「ええ!?」
クラス全員の目が茜に集中する。
茜の体が震え出した。
人前で喋るのは苦手だ。 タダでさえ緊張するのに、この同情と好奇心一杯の目。
「早く! 時間がないのよ!」
先輩にせき立てられて、ますます咽喉が詰まる。
「せ‥‥生活指導室に‥‥呼ばれてました‥‥」
蚊の泣くような声で、やっと言えた。
ホオッと、教室にざわめきが広がった。
「何やったの?この子」
「服装はまともだよね」
「アレじゃない?」
「アレって?」
「見てないの? バスの中で」
「オトコ?」
席に着いた途端、涙がパタリと机に落ちた。
最低だ。
こんな学校、来なきゃ良かった!
「ワクワクしますわね! 何を隠そう、あたくし今年が担任デビューなんです!」
朝のHRが始まるや、担任の橋本ウタコ先生は巨体を震わせて感激した。
ウタコ先生は、コロンコロンに太った30代の女性だ。
昨日の入学式のあと教室で、彼女が黒板に名前を書くと、生徒全員が笑いを噛み殺した。
「ウタコ」のウの字に、想像上の濁点をつけてしまったからだ。
「皆さんの輝かしい3年間のスタートを切る役ができて幸せです。
さあ、一時間目はオリエンテーションですから、体育館へ移動してくださいな。
あら? 河野さん、いま何故上着をお脱ぎになったんですか」
河野と呼ばれたクラスメートは目を白黒させた。
彼女は一番窓際の席で、さっきから目まいがしそうな陽射しにさらされていたのだ。
汗だくになった顔を見れば、理由など聞く必要はないはずだ。
「なぜって。 暑いから‥‥」
馬鹿じゃないのか、と言いたげに、河野は答えた。
「失礼だと思いません?」と、ウタコ先生。
「上着というのはみなさんの正装ですからね。 脱ぐ時は、目上の人に一言断ってから脱ぐべきです。
この次からは、こう聞いて下さい。『先生、失礼して上着を脱がせて頂いていいですか』って」
はあ? という表情を、河野ばかりでなくクラス全員がした。
茜も同じで、この先生が何を言っているのかサッパリわからなかった。 自分が何枚着ていようが、他人に遠慮することがどこにあるか思う。
やっぱりわけがわからない学校なのだ。
「ヴタコは、担任デブーなんです!」
体育館へ続く廊下をぞろぞろ歩きながら、河野がみんなを笑わせていた。
苅野まひるが、ガハガハと大口を開けて腹を抱えている。
茜は笑う気になれなかった。
クラスメートが楽しい人たちだと喜ぶより、その辛辣さに怯えたのだ。
この人たちは、自分がいない場所では、きっと今朝の正座の時間のことを引き合いにして、こんな風に笑うのではないか。 そう思うと胃の腑がキリキリ痛む。
攻撃的な教師。 皮肉好きの同僚。
さっきの正座のショックで、クラス全体がこわい存在になってしまっていた。
オリエンテーションで何を聞いても、さっぱり頭に入らない。
美登里さえいなければ幸せになれると思っていたとは、自分はなんて甘いんだろう。
公立に落ちて、ここに拾ってもらうしかなかったのに、この学校にも馴染めなかったら、どうしたらいいんだろう。
ギターの音は突然に、茜の放心状態を破った。
続いて響いて来た歌声が、耳から頭の中に直接突き刺さるように思えた。
ステージの上にいつの間にか椅子置かれており、そこにひとりの女生徒が腰掛けてギターを弾いていた。
見覚えのある少女だと思ってよく見ると、今朝の千手観音ではないか。
茜が一人で悶々としている間に、クラブ紹介が始まっていたらしい。
千手観音は、どういうわけか制服ではなく体操着のジャージ姿だった。
体操服でギターを抱えているとものすごくブサイクな格好に見えたが、茜はその姿に釘付けになった。
歌声が一瞬で胸の中を駆け抜ける。
決してうまい歌ではなかったが、よく通る、印象的な声だった。
ロックでもジャズでもフォークソングでもない。 なんのジャンルと言われても、茜の知識では判断できない。
胸が熱くなったのは、初めて生で演奏を聴いたことへの感動だろうか?
心臓をこすって行くようなメロディ。
公衆の面前で、たった一人でそれを歌うことへの恐怖はないのだろうか。
この人は、すごい。
この人は神に愛されている。
キラキラしている。
何が私と違うんだろう。
痴漢を退治した長髪ボーイも、そうだった。
あでやかに声の網を広げるこのひとも。
一体、何に支えられて、自分を解放しているんだろう?
教えて欲しい。
どこから、何を持って来たら、そんな風になれるんだろう。
「私たち軽音楽部は、まだ発足したばかりです。
総員たった7名で、全部自分達で決めながらやっています。
一から作り上げていく楽しさと難しさ、そして喜びがあります」
ギターの爪弾きに重ねて、舞台裾に出て来た別の女生徒が原稿を読み上げた。
「曲はオリジナルがメインです。
作詞や作曲をしてくれる人の入会ももちろん歓迎です。
でも、出来れば一緒にプレイしていただけたらもっと嬉しいです」
舞台の上で、千手観音がにっと笑った。
その視線が、自分の瞳を捕らえているのを、茜は確信した。
(出来っこないじゃない、あんなこと)
茜は下を向いた。