♪(14)ゆりかごの少年
告白の瞬間がしばらく過ぎても、鏡は無言だった。
うつむいた顔にかかる前髪の隙間から様子を伺いながら、茜の胃は緊張にぎゅうぎゅう縮み上がっていた。
「あの……。 ほんとにごめんなさい」
たまりかねて茜の方から沈黙を破ると、鏡のため息が白いシーツにこぼれた。
「つまり君は、恩田さんの、お姉さんだってこと」
「そ、そう。 学年は同じだけど、約一年違いなの」
鏡はいきなり両手で顔を覆い、くぐもった声で毒づいた。
「うわー。 勘弁してくれよ」
不機嫌な反応が、茜の心臓を握り潰さんばかりに圧迫する。
「ごめんなさい。 で、でも聞いて。 青井愛子って、私の友達の名前なの。 彼女すごくかっこいい女の子で、私の憧れの人なの。 あんな風になりたいと思っている相手なの。 だから、ついなりすましてしまったのよ。 鏡くんにも、カッコいい私を見て欲しかったから」
「それで文字は?」
鏡は苦しげに体を起こすと、サイドテーブルから大学ノートを取り出した。
使っていないページを開いて、ボールペンと一緒に茜に突き付ける。
「書いて」
「え?」
「名前を漢字で書いてよ、フルネームで。
もう、1日かかって調べたのにまた振り出しなんだもんな」
「な、何が」
「いいから書いて!」
仕方なく、一番上の行に「恩田 茜」と書いて渡すと、鏡は熱心に画数を調べ始めた。
「あ、大丈夫だ、あんまり悪化してない。
ついでにここんとこに、誕生日と血液型も書いといてくれない?」
鈍い茜にも、だいたい見当がついて来た。
「それって、もしかして‥‥占い?」
「そ。 なんか重くない本持って来てってクラスの連中に頼んだらいろいろ持ってきてくれたよ。 なにしろ一日中暇だからね。 相性占いをやり倒すんだ。 片思いの相手がいるやつなら、絶対おんなじことすると思うぜ」
「するかなあ‥‥」
「するって。 あ、やった。 俺もO型だよ」
想像していたのと全然違う反応をする鏡に、茜は戸惑った。
「鏡くん、ウソついてたこと怒らないの?」
「怒んない。 だって自首したもんな」
「だましてたのよ?」
「うん。でもさ、例えばだけど、夜中に財布を盗んだ犯人が、夜明けと共に反省して戻って来て、財布を返したら、盗られた方だってそうそうふん縛って警察に連れて行ったりは、しないもんじゃないかな」
「そう‥‥かな」
「そうさ。 あ、でも、利子くらいつけて返せ、とは言うかもしれないな。
いい考えだ。 俺も言っていい?」
「は?」
「利子がわりに、アカネって呼び捨てにさせてくれる?」
子供みたいに目を輝かせてそう言われると、断るにしのびなく、茜は赤くなってうなずく。
「やった! 俺って押しが強いなー」
屈託なく叫んで、鏡はまたベッドに横になった。
そして、へへっと唐突に笑い出した。
「そろそろホントのこと、バラそうか」
「なに?」
「知ってたんだよ」
茜が息を飲んだ。
「正確には、ここに入院してからわかった。
恩田さん、ええと美登里ちゃんね、何回かお見舞いに来てくれたんだ。
その何回かの間には、ガラス越しにしか会えない日もあって、廊下と中とで携帯で話したりして。
その時に、家が近いって話になって、場所を聞いたら、あれ?って。
だからもしかしてって思って、『賢女に行ってる姉妹がいるか』って、俺から聞いたんだ」
「じゃ、私たちが知り合いだってこと、美登里も知ってるの?」
「いいや」
否定されてほっとした。
美登里は鏡を気に入っている。 茜が鏡と付き合いがあることを知ったら、「抜け駆け」「横取り」「ずるい」となじりまくるだろう。
「やたらに人に言うかよ、もったいねえ」
鏡は言い放ち、照れたように笑った。
「好きな子の話ってのは、特別なんだ。 そんな大事なことは、一番の親友にだけソッと打ち明ける、みたいなのが俺の理想なんだよな。
ところが長患いで、ろくに友達なんて作れなかったからさ。 今のところこんな話ができる相手と言ったら、テツだけだ」
鏡は、枕元で開きっぱなしになっていたノートパソコンを引き寄せた。
「テツに会って行くか?」
***********
テツ、起きてるか? 昼寝が過ぎるとまた看護師さんに叱られるから寝るなよ。
今、俺はカノジョと一緒だ、お見舞いに来てくれたんだ。
念願のデートが無菌室ってのは情けないが、とりあえず大躍進だろ?
**********
返信は数分後だった。
ノートパソコンの白い画面に、カウボーイハットを被った、小さな男の子のアパターが現れた。
*********
お前みたいな暑苦しい男と付き合おうって言うんだから、気合いの入ったいいお嬢さんだろう。
あんまり理想論ばかりぶち上げて、呆れられるなよ。
とりあえず、俺からもよろしくと伝えてくれ。
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ずいぶんと大人びた文面のメールだと感じた。
鏡にそう言うと、当然だとばかりにうなずいた。
「テツは45歳だよ。 長期入院中の患者が集まる掲示板で知り合ったんだ。
肝臓を悪くして、インターフェロンをやったのを皮切りに、いろんな病気を併発してもう7年も病院を転々としてる。 職業は物書きだそうだ、病院で仕事もしてるって書いてあった」
「45って、私たちの親の世代よね」
「でも一番気が合うんだ。 物知りだし面白いやつだしね。
悪いと思ったけど、きみんとこのイジメについても相談させて貰ったことがある。 その時のメールを見せようか」
メールの履歴を辿って、3日前のものを、鏡は画面に出してくれた。
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とにかく証拠を保存して置くように言っといたほうがいいな。
訴えるにしてもそうしないにしても、そういう行為は犯罪なんだから、どうやったって被害者側に利がある。 それを証明するために、記録は絶対に必要だ。
怪我をさせられたら、その傷の写真を撮れ。
物を壊されたら、壊れた物を日付別に保存するか、無理なら写真で残しておく。
学校に提出して、警察に行ってもいいか校長に相談したり、教育委員貝に訴える手もある。
そこまでしなくても、加害者を脅す効果もあるだろう。
出るとこに出るのを恥ずかしいと思わないように伝えてくれ。
*********
「いいおじさんだろ?」
ノートから顔を上げ、鏡が微笑んだ。
「うちの保健の先生と同じこと言ってる」
茜はため息をついた。
「要するに、こそこそするな、公にしろってことね」
「それが正解なんだ。 イジメなんて、人間関係を他の方法で解決できないガキがやることだと思う。 それに対向すんだから、とことんガキになるか、極限まで大人になるかしかないんだ」
「とことんガキになる?」
「いじめられるたびに、泣き叫んで大人に言いつけるのさ。
対処して貰える貰えないに関わらず、ひとつずつ泣きついていく」
「あ。 こないだココちゃんがやったやつ」
「そうそう。 根本的な解決にはならないけど、受けたものをひとつずつ人目にさらして行くから、歯止めになりやすいと思う」
「じゃあ、大人になる方は、教育委員貝とか警察に働きかけるの?」
「そうだね」
「どっちも大騒ぎね。 もうすこししっとりやる方法ってないのかなあ」
「そう言ってナイショナイショしちゃうから、付け上がられるんだよ」
そこまで会話して、茜はハッとした。
謝るつもりで、しかもお見舞いに来たのに、いつのまにか自分の相談になっている。 しかも、話しているうちに、自分がすごく落ち着いて来ているのがわかる。
気分が軽くなった。 大きなベッドに横たわっているのは、茜の方ではないかと思うくらい。
改めて目をやると、腫れあがって赤らんでいる鏡の顔が、以前よりずっと魅力的に見えた。
鏡くん。 片思いじゃないかも知れないよ。
私はとろいからまだよくわかんないけど、すッごく胸が熱いんだよ。
それを鏡に言うにはもう少し、勇気が足りなかった。
家に帰るとすぐに、茜は自分のノートを開いた。
このゆったりと満たされた感覚と、昼間の怖さの狭間を、書いてみたいと思った。
思いつくまま書きなぐったものを、ファックスで青井愛子に送信した。
30分後、返信はパソコンからのメールで入った。
***********
あんたのカレシに300000点!
送ってくれた詩は、ふたつに千切って、バラードとバロックっぽいもの一気に2曲作る!
そしたら文化祭の全曲クリアよ、デビューよ殴り込みよ!
明日から死ぬ気で練習だあ!
***********
テンションの高すぎるメールに、茜の胸も踊った。 このまま興奮して眠れないかもしれないと思っていたら案の定。 まんじりともせず迎えた深夜に、突然の着信があった。
「どうしよう‥‥できちゃった」
青井愛子が、茜にそう告白した。
「夜中にごめんね。 どうしても、茜に聞いて欲しかったから」
「ばかね!すぐに流しなさいよ!」
事情を知らない大人が聞いたら、間違いなくおかしな誤解をしただろう。
でもこの晩、愛子が産み落としたのは、赤ちゃんではなく恋のバラードだった。
2曲作ると言ったが、1曲作ったところで我慢できず、明日を待たずにに連絡して来たのだ。
ところがそこまでしておきながら、歌って聞かせろと言うと愛子は渋った。 前作の時は仕上がった歌をじつに朗々と歌って見せたくせに、今回に限ってはものすごく照れている。
「恋の歌って、作ってる時はすごく感情移入して没頭するのね。
でもそれを聞いてもらうとなると、メッサ恥ずかしいの! もう、どうしようかってほど恥ずいの!」
その感覚は、茜にもすぐにわかった。
ココちゃんこと山吹 琴子と、部室の先輩たちに聞かせるために、翌日すぐに歌わなければならなかったからだ。
♪他の人の前では 取り繕う 涙だけど
あなたの胸は 特別な場所
時間さえ止まる 私の揺りかご
無理に笑って忘れても 傷はいつか 開くものね
自分で越えるしかないの
誰のせいでもないから
心無い人もいるよね
毎日 牙を剥き合って
それでも 生きて行かなくちゃ
せめて今夜は そばにいて
私のcradle boy
慰めなんかはいらないからね
翼を休めさえしたら
あしたは また飛んで行ける
だから今夜は そばにいて
私のcradle boy♪
1曲歌い終わると、山吹 琴子が瞳を潤ませて感激した。
「これ、ええなあ! 絶対、女の子にしかわからん、なんか“来る”もんがあるやん」
「でしょ、でしょ! 茜に歌詞貰った時からそう思ったの。
男の感覚で女を守るのと、ちょっと違う守り方して欲しい女の子でしょ?」
青井が身を乗り出す。
「せや、この子には自分のステージが別にあるんや。 そこは自分で頑張るから、わかってもらわんでも別にええねん」
「女の世界なんか、男にわかんなくていいもんね」
「てか、わかられたら怖いわ、ドロドロやもん」
「んで、疲れちゃったよぉって、頭撫でてもらいに来てるの」
「なんだか知らんけど大変なんやなあ、ってヨシヨシしてくれんねんな」
青井と山吹がふたりでやたらと盛り上がっていた。 先輩たちも、興奮して歌詞ノートを覗きに来ている。
茜はふっと胸が熱くなった。
自分で作詞したのに、その時には感じなかった感覚が、いま胸の中にあるのだった。
この曲の向こうに、鏡がいる。
一度も実際には触れたこともない腕に、抱き締められた自分がいる。
どきどきするけど、エロでもないし、エッチでもない。
強いて言葉に訳すなら、“浪漫”かなあ、と思った。
この日すぐに山吹はメロディを覚え、自慢の声量で廊下の野次馬を涙ぐませることに成功した。
部活が終ってから、3人は2曲目の完成を祝って、学食のコーラで乾杯した。
残りの一曲の曲想などを話し合って気勢を上げていた時だった。
「ちょっと、いいですか」
改まった声をかけてきた上級生がいた。 3年のバッヂを付けた、ふたりの少女だ。
どちらの顔にも見覚えがあるが、知り合いではない。 彼女らは有名人なのだ。
丸顔で背の低い、物腰がおっとり優しそうな先輩は、生徒会長の内海 ましろ。
入学式の時から、何度も壇上で挨拶するのを見ている。
もうひとりは、痩せて色黒で、マラソンランナーみたいな体格をした先輩で、下の名前は知らないが、周囲から若草さんと呼ばれていた。 全体朝礼の時に、遅刻者の人数を伝えに朝礼台に立つ人だ。 つまり、風紀委員長ということなのだろう。




