♪(14)恐怖と告白
その日の放課後のHPはとんでもないことになった。
ウタコ先生が、カッターの刃の話を聞いて激昂し、真相究明に乗り出したからだ。
「人を傷つける行為はいたずらでなく、犯罪です。 けれどこれを行った人は、そのことがはっきりわかっていないと思います。
このクラスから犯罪者を出すわけには行きません。 きちんとしたことがわかり、その人と話し合いができるまで、部活と下校を禁止します」
そうして、教壇と生徒席の間で、長い長いにらめっこを開始したのだ。
もちろん、そんな場に名乗り出る犯人がいるわけはなく、誰かの名前を出せる者がいるわけでもない。
20分の無意味な沈黙のあと、ひとりひとりを個別に呼び出す面接が始まった。
これは生徒にとって尋問だった。
教室に残されたクラスの面々は、このやり方に怒り狂った。
「今日は病院に行くのよ! 虫歯が悪化したらどうしてくれんのよ」
「ちょっと、電話もかけられないの?」
「部活サボったらベンチに落ちるのにィ」
そうは言っても、ひとりだけ黙って帰ったら、即犯人にされそうでそれも怖い。
「やった人、誰か知らないの?」
こそこそと囁く声がする。
茜はウタコ先生の熱心さをありがたいとは思えなかった。
この場にいる自分と、カッターを仕掛けた犯人だけが当事者で、あとの全員はとばっちりだ。 共同責任と言ったって、知らなかった人は対処のしようがなかっただろう。
巻き添えになった人からすれば、茜もまた加害者になるのだ。
この状態でいたずらに敵を増やして貰っては困る!
「みんな、ごめん! 用事がある人は帰ってもらえるように、先生に頼んで来る!」
茜は立ち上がって宣言すると、臨時の個人面談室になっている音楽準備室に突進した。
いつもこうやって怒りに任せてダッシュで動いてしまう。 それがいいことなのか悪いことなのか、茜自身にもわからない。
準備室のドアを強くノックした。
「先生! 恩田です、お願いがあります」
「まあ! お待ちなさい、まだ他の方と話をしていますのよ」
「失礼します」
構わずドアを開けてしまった。
面接されていたのは、清川という大柄な生徒だった。
服装もきちんとしているし、特別目立ったことをしたこともないので、この時点で茜は、清川の名前をやっと覚えた程度の認識だった。
「お話中すみません。 でも、このまま全員面接をしていたらクラスの雰囲気はもっと悪くなります。 お願いですから犯人探しはやめてください。
もしどうしてもと言うのなら、もっと長期の対処に切り替えて、今日は帰宅させて下さい。
こんなことをしたら明日は更にひどいことが起こると思います」
一気にまくしたてて、先生の顔をはたと見据えた。
「恩田さんの気持ちはわかりますが、これは教師の義務としてやってることで、あなたのためだけではありません。 被害者のあなたが許したから不問にしますと言うわけにはいかないのよ」
ウタコ先生が頑固に言い張った。
「先生は、帰宅した生徒が保護者になんて言うか気にしておられるんですね」
茜はあえて失礼な言い方を選んだ。
「犯人がわからない恐ろしい状況で、次の日手も打たずに登校させようとしたって、保護者に言われるのが怖いんですね!」
「恩田さん!!」
「こういう事って秘密にしたら、かえって騒ぎが大きくなるから、できるだけオープンにすべきでしょう。 それには時間が必要です。 今日だけで終わってパッと解散って、結局情報の封じ込めを狙ってるとしか思えません。 先生のやり方は間違ってると思います。
私はこれから帰ります。 皆さんにも帰ってもらいます。
先生、このクラスは始まったばかりなんです。 今、少しくらいバラバラしたって、きっとそのうちなんとかなります。 ひと晩考えて、プリントでもなんでも配って、じっくり問題を見つめるべきだと思います」
長い沈黙のあと、ウタコ先生はため息をついた。
「わかりました。 今日はこのまま終りましょう。
恩田さんのおっしゃるように、明日みんなで話し合いをします。 保護者に文書も回します。
校長にも報告して、全部を公にします。 それでよろしいのね?」
「はい。 ありがとうございます」
「では教室に戻りましょう。 清川さん、中途半端になってごめんなさいね」
ウタコ先生が立ち上がると、清川も黙ってついて準備室を出て来た。
「ばあか」
耳元で、低い声がはじけた。
一瞬だった。
すれ違いざま、清川が茜の耳元でつぶやいたのだ。
小声だったが、言葉は爆弾のように茜の心に投下されて弾けた。
本当の恐怖が茜に到着したのは、実はこの瞬間だったのかもしれない。
その日の部活はガタガタだった。
遅れて行った上に、茜の体も精神も、練習になるような状態ではなかったのだ。
まず椅子に座るのが痛くてつらい。
座る瞬間、恐怖のために全身に鳥肌が立つ。
山吹の持つギターのネックが背中に触れただけで、びっくりして飛び上がってしまう。
「ばあか」
耳元で弾けたあの声を、何度も脳裏で再生してしまう。
清川がやったという結論には走りたくないが、茜が痛みでうずくまった姿を見て、いい気味だと思った人たちの中に、清川もいたことは確かだろう。
そういう人が、クラスにあと何人いるのだろう。 自分はどれくらい、みんなに嫌われているんだろう。
考え始めると、歌の歌詞を間違える。
「ごめん。 今日、ダメだわ」
あきらめて白旗を上げ、帰らせてもらうことにした。
バス停に行くと、学生ばかりでいっぱいだった。
いつもはなんともない人混みが、今日はひどく怖いものに見えた。
みんなが自分の方をチラチラ見ているように感じる。
(そんなはずはない、知らない人ばかりだ)
こんな弱気じゃだめだとばかり、頭をひとつ振って、わざと人の多いところに入った。
その途端、腕にチカリと、鋭い痛みを感じたのだ。
「ひ」
小さな悲鳴とともに、カバンを放り出して腕ごと引っ込めた。
ドンと重いカバンが足元に落ちる。
「あいたッ!!」
後ろに立っていた女生徒が飛び上がって叫んだ。
「ちょっとお! 痛あ!」
茜は聞いてはいなかった。
袖をまくって腕を確かめると、緑色の葉虫が一匹、袖口から入り込んでいた。 体にしがみつく虫の足の感触を、カッターの刃の痛みと錯覚したのだ。
ホッとした途端、バスが来て人の波が動いた。
後ろから押されて、茜はまた悲鳴を上げた。 道路に突き落とされると感じたのだ。
人の足に蹴られ、カバンはバス道路に落ちた。
結局バスを乗り過ごし、人がまばらになった停留所に取り残されて、茜は呆然としていた。
自分はこんなに脆かったのか。
こんなに弱かったのか。
糸を一本引っ張っただけでバラバラになってしまうのか。
足元に踏みしめるものが何もないかのように頼りない。
人のいないところを求めて、バス停からズレた場所に立ってみた。
それから深呼吸を何度もしてみた。
落ち着け、落ち着け。 大したことは起こってないじゃないか。
言い聞かせてひとりでうなずく。
その時、目の前の車道で短いクラクションが鳴った。
これにも驚いて飛び上がったが、よく見ると茜の前に、赤い軽乗用車が止まっている。
「愛ちゃん、久しぶりだね!」
鏡の母親が運転席から手を振っていた。
「今から雄大んとこ行くよ。 一緒に来る?」
「いいんですか?」
迷う気持ちはなかった。 鏡に会いたかったし、こんな気持ちのままじゃなく、何か違うことをしてから一日が終るのはありがたかった。
入院病棟は真新しい建物の8階にあった。 病院というので素っ気ない白い廊下を想像していたのだが、新築のそれはマンションのように彩の美しい廊下だった。
看護士詰め所で頼むと、風邪などの症状がないかどうか簡単な診察の後、病室に入れてもらえることになった。
割烹着のような白衣と、給食当番の時みたいな帽子を渡され、マスクまで付けさせられた。
すっかりオバサン風宇宙人、という恰好にされて病室を訪問すると、ナースコールで話を聞いていた鏡は、ベッドに起き上がって待っていてくれた。
「あッ‥‥」
その顔を見て、茜は思わず声を出してしまった。
違う。
鏡の顔は以前と一変していた。 最後に会った時も、少し腫れている気がしたが、今日はそんなレベルじゃない。 頬の形が変わるほど膨らんでいる。
右目は充血して真赤になり、唇の皮膚が乾いて剥がれ落ちたようになっている。
頭にはスノーキャップをかぶっているのでわからないが、眉毛と睫毛が全くなくなっているので、頭髪も残ってないだろう。
知らなかったわけじゃない。 一つ一つの症状は、メールに書いてあったのだ。
結膜炎。 毛膿炎。 脱毛。 皮膚炎、口内炎、発熱による乾燥。
全部書いてあった。 知っていた。
ただ、その文章から、「元気でない鏡 雄大」を、茜が想像できなかっただけだ。 鏡のメールはいつも前向きで、毎日の発見と生きる喜びに満ちていたから、自分みたいに弱音ばかり吐かない鏡は、いつも元気いっぱいなものと思いこんでいた。
いきなり泣いちゃダメだと思い、茜は唇を噛み締めた。
「だから無菌室出るまでは、見舞いはいいって言ったんだよなあ」
むくんだ白い顔の鏡が苦笑した。
「愛ちゃんも、給食ルック似合うよ」
「馬鹿ね、むちゃくちゃダルいんでしょ? 無理しないで横になってよ! なんでそんな元気そうなふり、するのかなあ!」
言ってるうちに涙が出て来た。
鏡は悪びれた様子もなく、ベッドに体を倒しながら笑った。
「元気そうなふりするのは、元気になりたいからに決まってるじゃん。 そういうのはウソって言わないんだぞ」
「元気なふりをしたら、元気になれるってこと?」
「それって夢を実現する時の基本だろ。 理想の自分を頭に描いて、そいつの真似をするんだ。
人はそうやって夢を叶えるもんだって、昔先輩に教えて貰った。 それはウソや演技じゃなくて、努力って言うんだって。
だから時々は元気なふりをしてみるって、いい事なんだぜ」
(理想の自分を思い描いて真似をする。 ‥‥ウソじゃない、努力だ‥‥)
足が震えて立っていられなくなった。
傍にあったパイプ椅子に崩れ落ちるように座った。
「嘘じゃなく努力なんだ」という言葉は、茜の嘘を許そうとしてくれる、優しい言葉に思えた。
自分が、青井愛子ではなく、恩田 茜であることを、今なら言える、今を逃しては二度と口にすることができなくなる。 そう思うと矢も盾もたまらず、次の瞬間には慌てた口調で切り出していた。
「ごめんなさい。 ウソをついてたの。 私の名前は、青井愛子じゃないの。
鏡くんのクラスに、恩田 美登里っていう子がいるでしょう? 私はその子の姉なの。
出来のいい妹と比べられたくなくて、ウソの名前を名乗ってたの。
言おう言おうと思いながら、なかなか言い出せなくてごめんなさい」
握り締めて白くなった掌だけを見つめてうち明けた。
鏡の反応が怖くて、一度下を向くと、それきり顔を見ることが出来なくなってしまった。




