♪(13)カッターナイフ
文化祭の準備が始まると、苅野は予想通り教室にほとんどいなくなった。 バレー部でやる模擬店の準備が忙しいと言うのが、本人の主張だった。
勝手にやらせておきたいのは山々だったが、今回1-Dは模擬店と展示をかけもちで活動するため、予算と人員に余裕がない。 全員が係を分担し、朝チーム・昼休みチーム・放課後チーム・宿題チームに時間分担もしてフル回転した。
時間だけでなく、予算も馬鹿にならない。 出費を抑える為に、出来るだけのものを家や学校から持ち寄り、ぎりぎりの個数だけ手作りしたのでここでも手数を必要とした。
当然、バレー部の不参加はクラスの不興を買った。
「なんと言われても参加する暇なんかない。 あたしら全国大会を控えてるのに、クラブで模擬店もするんだ」
苅野は茜に噛み付いた。
「忙しい忙しいって、忙しくなったのは恩田が余計な提案したからだろ。
その分、恩田が働けばいいんだし、文句も恩田が受け付けりゃいいじゃん」
放課後、数人が抗議をして言い争いに発展したので話し合いをさせたら、苅野はさも当然のように言い放った。
茜はみんなの中から司会役に押し出されていた。 ウタコ先生もやって来て、そばで見守ってくれていた。
「参加する暇なんかない」と、苅野。
「バレー部員は全員ですね」茜は確認した。
「当たり前だろ」
「いつの時間でもやれる、アンケート集計にも?」
「寝る暇がなくなるほど忙しいんだぞ」
「当日の当番も?」
「そうだ」
「では持ち寄ったTシャツにペイントしてお揃いで着るのも不要ですね」
「要るかよそんなの」
「前夜祭もバレー部のみで参加ですね」
「そうだ」
「わかりました」
茜は決心して攻撃に移ることにした。
「前夜祭の日のお昼ご飯は先生が全員に奢って下さるそうですけど、バレー部は全員、いないんですから不要ですね」
「えッ」
「それとアンケート参加人数をクラス人数45で表示する予定でしたが、バレー部5人をひいて40人で表示します。食券ノルマの数も40で集計してください。現在担当分担をしているチームは、バレー部を削除して準備の当番を決めてください。 先生、構わないですよね」
「お任せするわ」
ウタコ先生も腹を据えたらしく、動じる様子はなかった。
このいわゆる「締め出し」によって、思いがけない変化が起きた。
同じバレー部のメンバーが、苅野を遠ざけ始めたのだ。
実際は、模擬店というのは当日前日が忙しいので、早い時期からそこまで暇がないわけではないのだ。 他のバレー部員の中にはバレー初心者もおり、苅野のようにレギュラーに食い込む見込みがない者もいる。
それをああまで大っぴらに「暇がない」と言われたら、クラスに参加するわけに行かなくなる。
急ピッチで作業するクラスメートから孤立することは、文化祭そのものから孤立することだった。
次第に、苅野はいつもひとりでいるようになった。
他のバレー部員達は、「苅野のせいで迷惑」と他のクラスメートに愚痴ることで、クラスとの和睦を図ったのだ。 自分から参加させてくれと申し出た者が、参加人数に入れてもらえたのは言うまでもない。
そして、茜がそのことに気付く前に、事件は起きてしまったのだった。
3時間目が始まる時のことだ。
その日、茜は日直だった。 前の時間提出した英語のノートを配るように言われており、仕事を終えて何気なく席に着いた時だ。
突然、焼け付くような痛みを感じた。 お尻と、股間近くの内股の二箇所だった。
脳天を突き上げるような痛み。
咄嗟に立ち上がることが出来なかった。 腰を上げても足に力が入らない。
机につんのめって、その後床にうずくまった。 それでやっと声が出せたのだ。
「いッ‥‥たぁ‥‥」
スカートの裾から落ちてきたものを見て、身震いした。
折ったカッターの刃が二枚。
座席に突き立ててあったのだ。
チャイムの音が間抜けな響きで教室に広がった。
「先生! 恩田さんが」
入って来た英語の教師に、異変に気付いたクラスの誰かが報告している声が、何処か遠くで聞こえた。
這いつくばって顔を上げた茜の目に、苅野の顔が一瞬映った。
こちらを伺いながら、異様に輝く視線で茜をとらえたその表情に凍りついた。
そして、他にもそういう顔をしている人間がいることに、その時気付いてしまった。 そういう気配は、理屈ではなく直感的にわかるものだ。
茜が痛い目に会って、それを愉快に思う者が苅野以外にもいる。
それはふたつのことを示していた。
苅野に新しい仲間ができるかもしれないこと。 そして、その中の誰がやったのかはわからないということだ。
恐怖が、稲妻のように茜の心を直撃した。
入学初日に正座をさされた時の、あの頼りない自分に戻った気がした。
クラス全体が自分を敵視するような、あの恐怖が戻って来た。 いや、もともと何も変わってはいなかったのかも知れない。
茜はあの日と同じ、怯えきった引っ込み思案の子供だった。
初めて入った保健室には、沢口と言う女性の保険医がいた。
40代後半の、細身でシャキシャキした動きをする先生だった。
傷口を見せる前に、カッターの刃を見てもらった。
「誰がしたかわかる?」
切り込むような口調で言われ、茜は首を振った。
「心当たりもない! ホントかね」
首を竦める沢口に向かって、もう一度否定の仕草をする。 心当たりだけで人を告発しろと言うのも無茶な話に思えた。
おまけに診察すると言われても、おいそれと店開きできる部位ではない。
「い、いいです」
「いいわきゃないでしょう、第一何しに来たのよ。 見せなさい、破片とか残ってて化膿したら、赤ちゃん産めなくなっちゃうよ!」
「あ、あとで病院行きますし」
「病院ってね。 外科だろ」
「はあ」
「いいのかね。 外科の先生は80%男性だってよ。
看護士さんも見てるから、最低二人の前で下着下ろすことになる。 ここなら私一人、さあどっちがいいの!」
仕方なくベッドに横向きに寝そべり、下着を下ろした。 ギュッと目をつぶって恥ずかしさに耐える。 それだけで神経は磨り減って、痛みはどこかへ行ってしまった。
「こことここ、2箇所だけ?」
横柄な口調と裏腹に、傷口への触れ方は優しかった。
「肛門と膣を外れててラッキーだった。 厚いスカートの布越しだから、傷の方も小さいもんだ。
ただ金属は、破傷風菌が心配だからちょっと念入りにやるが、我慢しなさいよ」
消毒液が沁みる痛さは、さして辛いものではなかった。 刺さった瞬間に死ぬほど痛いと感じたのは、その正体がわからない恐怖からだろう。
今はわかっている、こんなもので死ぬことはない。 ただ恐怖だけは消えずに残っている。
相手の感情の正体がわからない。 苅野はまだわかりやすいと思えたが、それでも何故あそこまで茜を目の敵にするのか理解できないのだ。 増してやあの時感じた、他の何人かの悪意に至っては。
ただ目立つやつが憎らしいのか。
自分に指示する立場なのが嫌なだけか。
茜にだって嫌なやつはいる。 いなくなればいいと思う相手はいる。
でもそのために犯罪に属することをやるのは馬鹿げているし、自分を汚しては溜飲が下がらないことを知っている。 ただ嫌いというだけで、自分の人生を正しくないものにするのは、損だというひとつのハードルがあるのだ。
これをやった相手はそのことがわからないのか。
もしも茜が死んだりしたら、そいつは笑うのか。
自分が犯罪者になるとしてもか。
考えているうちに、体ががくがく震え始めた。
怖かった。
自分とは感性が全く違う人間がいる。 そいつと机を並べて、無防備に日常を過ごさねばならない。
何が刺激になってそいつが凶暴になるのかわからない。
この学校の校風は、そういう恐怖から来ているのではないか、と、不意に思った。
間違っても目立ってしまって、殺されちゃったりしないように。
みんながサボるときは、同じように手を抜いて。
空気のように目立たず、集団には強気で従って。
決まりごとを大切にしたり、先生に気に入られたりは絶対にしてはいけないとキモに命じて。
「あたしらが通ってる頃もいじめはあったけど、変わったよね」
脱脂綿で何度も何度も傷口をぬぐいながら、沢口が言った。
「いじめをするのは、不良グループや頭の悪い連中だった。 口で喧嘩ができる健全な子は、こんないじめはしなかったし、いじめられた子も先生や親にいいつけて、それで解決できたんだが」
「沢口先生って、ここの卒業生なんですか?」
「大昔の、ね。 何年前かは聞くんじゃないぞ」
沢口はにやりと笑って、茜の顔をのぞきこんだ。
「ここだけの話だが、白崎のじいちゃまに“チャンス”ってあだ名を進呈したのは、あたしだ」
治療が終って帰りかけた茜に、沢口は一言言った。
「ひとつ覚えててくれ。 『チクった』という言葉にビビるなよ」
「え?」
何のことかわからず、視線で問い返す茜に、沢口は思いがけず真剣な顔で、
「チクるというのは、もともと仲間を裏切って敵に密通する行為を言う。
だから例えば、あんたの家に泥棒が入ったとして、110番したとしてもそれはチクリじゃない」
「はあ」
「通報されて、泥棒が『お前なんで警察にチクるんだ』って報復に来るか?」
「いえ‥‥逃げますよね、普通」
「そうだ。 つまり、被害届けを出された犯人が『チクった』なんていい出すのは、警察や被害者をナメきってる証拠なんだわね。 今回もし通報していじめがひどくなるなら、学校側のぬるさが犯人を甘やかしたんだ、と学校を責める権利があんたにはあるの」
「でも」
「わかってる、今回はほんとに犯人の見当がついてないのかも知れないけど、覚えときなさい。
自分ひとりで我慢したり、ひとりで戦おうなんて、絶対考えるんじゃないよ」
正直、沢口が何を言いたいのか、この時の茜にはよくわからなかった。
でも、この前ウタコ先生に感じたのと同じ印象を、沢口に抱いた。
(ずいぶん生徒を大人扱いする先生だ)
もしかしたら、この学校の先生の基本的な体質なのかもしれない。
それについていけない子供過ぎる生徒が、増えすぎたのかもしれない。




