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♪(10)人生の3万分の1

 

 「うわあッ、なんてことするんだよ!」

 茜の顔を見た途端、鏡はパニックを起こして叫んだ。

 「伝えに行くだけって母さん言ったじゃん! 俺の部屋、ダメだからね。 明日の支度が途中で、パンツとかヤバいもん転がってっからね。 ああもう、俺パジャマじゃねーかよ!」

 ドタバタと駆け戻る鏡を見て、茜はホッとした。 思ったより元気そう、というよりむしろ全然病人らしくない。

 「ダイジョブ、ダイジョブ。 母さんだって台所ぐちゃぐちゃだもん」

 鏡の母はきゃっきゃと笑い、茜をリビングの応接セットに招いて、自分はお茶を入れに行った。

 

 夕方どこかから戻ってすぐ夕食の支度をしていたのだろう、確かに家の中は結構散らかっていた。

 帰宅時に持って入ってそのままらしいダイレクトメールが、束になってテーブルに投げ出してある。 その下に、読みかけらしい書類の束が無造作に置いてあった。

 何気なくそれを読んでしまって、茜はギョッとした。 「今後の治療について」と題されたその書類は、おそらく説明のために病院から渡されたものだろう。


 「キロサイドは抗がん剤です」

 「短期間に大量に投薬することにより」

 「副作用に吐き気」

 「食事が困難な場合は」

 「感染症にかかりやすいため、無菌室の」

 「肌荒れ、かゆみ、毛膿炎、脱毛など」

 「口内炎の悪化による」

 「骨髄移植の効果も」


 意味はわからない言葉が多かったが、怖くて読んでいられなくなった。

 自分は全く理解していなかったということが、はじめてわかったのだ。 鏡はこれから正体の知れない恐ろしい敵と、命をかけて戦わなければいけない。 その重みを思えば、例え鏡のためであっても、セクシーだなんだとちゃらちゃら浮かれていた自分は、なんと恥ずかしい人間だったろう。


 「お待たせ。ごめんね愛ちゃん、バタバタしてて」

 Tシャツにジーパン姿になった鏡が戻って来た。

 「ちょっといい? ここに立って、ここ」

 窓辺の花台のところに茜を引っ張り出し、鏡はブラインドを閉めて携帯を取り出した。

 「待って、私だけ?」

 「1枚、単独で撮らせて」

 無邪気にはしゃぎながら撮影を始める鏡の顔は、熱があるのか発疹なのか、心持ち赤く腫れていた。

 ふたり一緒の写真は、鏡の母が撮ってくれた。

 

 鏡だけなら簡単だった。 会話をさえぎってでも話を変えて、嘘をついていたことを謝罪することも可能だっただろう。 しかし母親が、忙しい時間帯だろうにずっとリビングにいて一緒に話し込んでいたので、曝露のきっかけがつかめない。


 「いっけね。 8時になったら愛ちゃん叱られちゃうよな。 俺、下まで送ってくるよ」

 鏡が立ち上がったので、茜はこれがチャンスだと思った。

 「だめよ病人のクセに」

 母親が止めたが、鏡は

 「エレベーター降りるまでだから」

 さっさと玄関を出てしまった。


 「ごめんな愛ちゃん。 お袋も強引な人だから、つき合わせちゃって悪いね」

 鏡が謝るので、力いっぱい首を振る。

 「そんなのいいの。 でもね、鏡くん、私ね」

 言いながら振り返ると、鏡の姿はそこから消えていた。

 

 彼は玄関ドアを閉めると、廊下の端っこまで早足で移動していた。

 突き当たりの部屋のドア前で立ち止まり、こちらへ向き直ると、唐突に謎めいたことを始めた。


 「1,2,3,4,5‥‥」

 ゆっくりと数えながら、大き目の歩幅で廊下を歩き出したのだ。

 「‥‥13,14,15‥‥ここで16歩」

 鏡は立ち止まった。

 「何してるの?」

 茜が近寄って尋ねると、

 「俺、今16歳だからここんとこだ」

 そう言って、鏡は歩いた距離を振り返った。

 「短いもんだなあ。 ‥‥ね、愛ちゃんここに立っててくれる?」

 茜を16歩目のところに立たせておいて、鏡はさらにその先に行く。

 

 「17,18,19、20‥‥」

 夜風に吹かれながら、鏡の後姿が廊下の先に遠ざかる。

 「37、38、39おっと‥‥ここで40か」

 ちょうどその辺りで廊下の端まで来た。

 「ここでターンして戻ったら、ちょうど80歳ってことか」

 鏡は16歳をポイントマークしている茜を振り返り、皮肉っぽい目つきで笑った。

 「80まで生きてたってこのマンション出ることも出来ないのに、俺ってまだそこまでなんだもんな」

 彼が何を言おうとしているのか判る気がして、茜は言葉が出なかった。

 「80年ってさ、何日くらいあると思う?」

 たずねられて、茜が反射的に暗算をする。

 「3650×8だから、29200。 え? 2万9千2百日?」

 「そう、なんと3万日に満たないんだ」

 「‥‥少ないね」

 「だろ? 80歳までがっつり生きたって、3万弱って日数なんだ。

  俺も計算してびっくりしたよ。 一生ってもっと長いもんだと思ってたからさ」

 「私もそう思ってた」

 「考えたらあせるよな。 今日一日で、一生分の3万分の1楽しめたか?」

 茜は首を振った。

 「俺もだ。 もったいねー」

 「‥‥鏡くん」

 

 「俺、明日入院したらすぐ投薬治療に入るだろ。 抗癌剤をガンガン体にぶち込んで、人体がくたばるより前に癌細胞のブラスト君がくたばるのを、ひたすら祈るわけ。 もしもそれで癌より先に俺がくたばったら、その時点で今日1日の割合は、ええと」

 「か、鏡くん!」

 「16×365だから、全人生の5840分の1だぜ」

 絶句する茜に、少しも深刻でない表情で、鏡はうなずいて見せた。

 「チョー貴重。‥‥な?」

 

 茜は不意に涙が出そうになり、あわててこっそり深呼吸した。

 「それでさ、前回はベッドにいる間、必死で英単語覚えたりしたんだ。 覚えるだけなら疲れないし、なんかやってる感があるだろ。

  でも、今回は愛ちゃんのメアドがあるからもう少し楽しめそうだよ。 パソコン持ち込みの許可が出たから、メールもそこから打てるよ。  言っとくけど、ラブレターだからな。 覚悟しとけよ」

 言いながら、パソコンのメアドを控えたメモ用紙を渡された。


 “loveletter to aiko@docomo‥‥ ” 


 茜の心臓がきりりと痛んだ。

 (言えない!)

 1階のエントランスで手を振る鏡に送られて、何も言えずに通りへ出て来た。

 言えない。 言えなかった。

 鏡の5840分の1日の幸せを壊せなかった。


 それが馬鹿なことだとは重々わかっていた。

 手の中のメモを何度も読み直した。

 ラブレター・トゥー・アイコ。

 

 ここから送られる1通分のメールの価値が、自分にあるんだろうか。

 5840分の1を汚す人間で終るしかないんだろうか。

 考えなきゃいけない。 すぐに考えなきゃいけない。 鏡ならず茜の人生だって、1日は3万分の1程度でしかありえないのだから。


 



 次の日の1時限目から、茜は気合い充分だった。 何かを始めなければという、空回り的な気合ではあったが、少なくともやる気だけは心にみなぎっていた。

 1時限目の数学担当は、美濃という初老の総白髪の男性教師で、歳のせいというのでもないのだろうが、ボソボソと小声で聞き取りにくく、授業の流れもかったるい。

 

 「で。 あ。 問3、解ける人いますか。……あ。 問4もいっしょにやろうか。 同じ要領だからね。

  はい。 問3と問4、出来る人。 いない?」

 クラス全員を見回して待つのだが、その間ぼーっとしているとしか見えない顔つきだ。 食いついてくる生徒は当然いない。


 美濃先生は、おもむろに日誌を取り出し、

 「あー、日直はダレ? 勝俣さんかあ、きのうやったねえ。 じゃあ、今は4月だからあ、4の倍数で4番と8番。 あれ? 4番て、また勝俣さん?」

 最初はいらいらして来るのだが、そのあとどんどん眠くなる。

 それでも「私が解きます」と言う生徒はひとりもいない。 この学校のカラーと言うものが、1年生にすでに根付いているらしい。


 「はい。 問3やります」

 茜はいらいらして、勇気を奮い起こすと手を挙げた。

 クラス全員がポカンとした表情でこっちを見る。

 「よくやるよ」

 「何考えてんだろ」

 そういう表情だ。

 

 茜にしたってそんなことをするのは生まれて初めてなのだが、周りはそんなことは知る由もない。 黒板に字を書く手が震えていた。

 (でも、ラブレターをもらう愛ちゃんは絶対にこういう子だ。

  鏡くんの5760分の1を使わせるんだから、せめて態度だけはウソがない様にしよう)

 自分がついた嘘の代償を支払う方法を、他に思いつかないのだった。


 「ユートーセー」

 休憩時間になるたびに、隣の席から苅野まひるが揶揄する。 数人の付属中仲間が、そのまわりに集まってくる。

 「何張り切ってんのかねえ、うぜーよひとりで目立とうとしていい子ぶって」

 「ワタシなんでもできますう」

 「オトコの子にももてますう」

 「センセに信用されてるのお」

 「うっぜー」

 「うっぜー」


 腹は立ったが、これこそ時間の無駄だと思って黙っていると、

 「無視かよ」

 「おい何とか言えよ」

 「お偉いお方はこんなの相手にできねーってか」

 次第ににじり寄って来て、あからさまに喧嘩を売り始めた。

 その近づいて来る顔をじっと見ていると、今度は

 「何だよ、人の顔ジロジロ見るなよ」

 無視するなといっておいて、矛盾したことでいちゃもんをつけて来る。

 

 逃げ出したかったが我慢した。 その代わり勇気と演技力を振り絞ってにっこり笑ってみた。 こういう時は、突拍子もないことを言って気をそらすのがいいかもしれない。

 「‥‥苅野さんってさ」

 「ああ? 何だよ?」

 「ポメラニアンっぽいね」

 一瞬、その場にいる全員が氷結した。

 

 「ンだとお?」

 苅野が凄んだのも、3秒ばかり絶句した後だった。

 「馬鹿かあ? 人のこと犬だと?」

 「だって、近所にいるポメラニアンが可愛くって。 目が丸くて毛がツンツンでよく吼えるとこが似てる」


 次の瞬間、前触れもなくガツンと殴られた。 手のひらでも拳でもない、掌底と手首の境目辺りを使って、前頭部を強く殴られたのだ。

 ショックで目の前が暗くなり、一瞬で床にペタンと膝を付いた。

 信じられなかった。 小学生でもあるまいに、そんなに直情的に思い切り人を殴る人間がいるとは。


 「人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!」

 苅野が蹴り倒した机が、茜の上へ倒れて来た。

 その上から蹴りつけようとした苅野を、さすがに仲間達が手を引っ張って止めた。

 「相手すんなよ」

 「行こう、チャイム鳴るぞ」

 「まあまあまあまあ」

 苅野をなだめながら一同が遠ざかるのが、机越しに見えた。


 立ち上がれないかと思ったくらい、膝が震えていた。

 茜は咄嗟に周囲を見回したが、誰とも目が合わなかった。 みんな顔を背けてそそくさと自分の席に帰って行く。 おかげで怯えた顔を見られずに済んだことだけが有難かった。

 茜は平静を装ってゆっくりと立ち上がり、机を元に戻した。 体の何箇所かが打ち身でズキズキしたが、痛そうな仕草をするのが悔しくて平気なふりをした。

 

 このままじゃ終らないかもしれない、と思った。 

 

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