人気者は大変ですね
(鹿2本目です。)
彼女の困った顔が好きだ。
眉尻が下がる。唇が少し尖る。自分でなんとかしようとして、結局どうにもならなくなって、最後に俺を見る。
普段は俺から話しかけることが多いのに、そのときだけは、彼女のほうから俺を探してくれる。
あの瞬間が、たまらなくいい。
だから奈良公園に着いて、鹿せんべいの売り場を見つけたとき、俺は迷わず言った。
「真帆。あれ、買ってみなよ」
「圭介さんは?」
「写真を撮る係」
「なんだか、不公平な予感がするんですけど」
「大丈夫。可愛く撮るから」
「安全の話をしてるんです」
真帆は俺を睨んだ。
睨んだつもりらしいが、目元が柔らかいせいで、少し眠そうにしか見えなかった。
知り合って六週間。
付き合いはじめて三週間。
今日は、初めて少し遠出をするデートだった。
真帆は父親の事務所を手伝っている。
人の相談を聞く仕事だという。
職業柄なのか、こちらの話を最後まで聞いてくれる。一度した話をよく覚えていて、「それ、先月の出張のときのお話ですね」と、日付まで間違えない。
控えめで、真面目で、少し押しに弱い。
俺とは、相性がいいと思っていた。
今日の予定も、ほとんど俺が決めた。
真帆が希望したのは、最後にお茶をする店だけだった。
『そこだけは、私に選ばせてください』
そう言って予約までしてくれたので、もちろん頷いた。
たまには、彼女に任せるのも悪くない。
真帆がせんべいの売り場に近づくと、近くで寝そべっていた鹿が一頭、顔を上げた。
もう一頭が立った。
さらに、木の陰にいた一頭が、何かを思い出したような顔で歩き出した。
「圭介さん」
「うん」
「今、私の買い物が共有されました」
「人気者だな」
「まだお金を払ってる途中です」
真帆は片手で財布を押さえ、もう片方の手でお釣りを受け取った。その脇から、鹿の鼻がすっと伸びてくる。
「早いです。開店前です」
店の人が笑いながらせんべいを渡した。
その瞬間、真帆の周囲に、はっきりとした目的を持つ集団が形成された。
「待って。待ってください。一枚ずつ」
右に一枚。
左に一枚。
右から、先ほどの鹿が戻ってくる。
「あなた、さっき食べましたよね?」
鹿は答えなかった。
返答の代わりに、一歩近づいた。
「その顔は覚えてます。初めましてみたいな顔しても駄目です」
俺は少し離れたところでスマホを構えた。
真帆の背後から、さらに二頭が近づいている。
いい構図だった。
「真帆、こっち向いて」
「向いたら後ろの方に取られます!」
「モテモテじゃん」
「人気と取り立てを混同しないでください!」
思わず吹き出した。
その声に反応した真帆が、鹿の頭越しに俺を見た。
眉尻が下がっている。
唇が少し尖っている。
そう、それだ。
今日最初の、見たかった顔だった。
「圭介さん。本当に助けて」
さすがに、その声には応えなくてはいけない。
スマホをしまい、鹿の輪に近づく。
「ほら。残りを少しずつ配れば――」
真帆が俺の手を取った。
柔らかい指が、手のひらを開かせる。
そこに、残っていたせんべいが全部置かれた。
「担当者が替わります」
「おい」
真帆は俺の背中に隠れた。
鹿たちの目線が、いっせいに移動した。
人生で、これほど短時間に注目を集めたことはなかった。
「ちょっと待て。話を聞こう」
鹿は聞かなかった。
「まず、何頭いるのか確認させて」
鹿は増えた。
「真帆」
「はい。写真係です」
「お前、そういうところあるんだな!」
背後でシャッターの音がした。
せんべいを配り終わるころには、俺の袖は湿り、上着の裾には謎の力がかかった形跡が残っていた。
真帆はスマホを見ながら笑っていた。
口元を押さえても、肩が揺れている。
「そんなにいいのが撮れた?」
「はい。すごく」
画面を見せてもらう。
俺が鹿に向かって、必死に両手を広げていた。
何か重大な不正を否認している人のようだった。
「消そう」
「嫌です」
「もっと格好いい写真があるだろ」
「私は、こっちも好きです」
さらりと言われて、少しだけ返事が遅れた。
真帆はその隙を見逃さず、スマホを鞄にしまった。
「これで、おあいこですね」
困っていないときにも、こんなふうに笑うのか。
俺は袖についた汚れを見た。
まあ、これくらいなら安いものだ。
*
昼食の終わりに、俺はスマホを見て、小さく息を吐いた。
向かいに座っていた真帆が、箸を止めた。
「どうかしました?」
「仕事で、ちょっと」
「大丈夫ですか」
「うん。今は、真帆との時間を大事にしたいから」
そう言ってスマホを伏せると、真帆はそれ以上、聞かなかった。
詳しい話をするのは、もう少しあとでよかった。
店を出たあと、着物を貸し出している店の前で足を止めた。
正確には、俺が足を止めて、真帆の手を引いた。
「着てみない?」
「え」
真帆は店先の着物を見て、それから自分の服を見た。
「私、こういうの、あんまり」
「絶対似合う」
「着慣れてないので」
「だから見たい」
「どうして、私が苦手なものばかり提案するんですか」
「反応が可愛いから」
真帆は一度、目を閉じた。
何かを落ち着かせるための時間らしかった。
「圭介さんって、ちょっと性格悪いですよね」
「今気づいた?」
「まだ『ちょっと』にしてるところを褒めてください」
店先に並ぶ着物の中で、真帆の視線が、淡い若草色の一枚に止まった。
白い小さな花が、裾から肩にかけて散っている。
派手ではない。けれど、陽の下ではきっと綺麗だ。
「それ、気になる?」
「……見るだけです」
「着たところも見たいな」
「見るだけって言いました」
しかし、視線は離れない。
「今日しか見られない真帆って、ちょっと得した気分になる」
真帆は俺を見た。
しばらく考えてから、店内の男性用の着物を指さす。
「じゃあ、圭介さんも」
「俺も?」
「自分だけ安全な場所にいるのは禁止です」
どうも、午前中のせんべいの一件で、余計なことを学ばせてしまったらしい。
俺は諦めて店に入った。
入口の脇で地図を見ていた灰色の上着の男性が、少し体をよけてくれた。真帆が小さく会釈した。
先に着替え終えた俺が待っていると、奥の仕切りから真帆が出てきた。
若草色の着物。
控えめに結い上げた髪。
さっきまで隠れていた首筋。
鏡に向かっていたときには平気だったらしいのに、俺を見つけた途端、歩幅が小さくなった。
「……どうですか」
俺は答える前に、もう一度、上から下まで見てしまった。
「何か変ですか」
「いや」
「じゃあ、何か言ってください」
「可愛い」
真帆の頬が赤くなった。
「もう少し、具体的な感想は」
「かなり可愛い」
「量の話じゃなくて」
「困ったな」
「どうしたんですか」
「見せびらかしたいのと、誰にも見せたくないのが、半分ずつある」
真帆は口を開きかけて、やめた。
それから、俺の袖を軽く叩いた。
「そういうの、店員さんがいるところで言わないでください」
背後で、店員さんがたいへん穏やかな笑顔を浮かべていた。
「仲がよろしいですね」
「違……わなくは、ないですけど」
真帆は否定の途中で進路を失った。
俺は笑いをこらえた。
着物を勧めて正解だった。
外に出ると、午後の光が真帆の袖に落ちた。
歩くたびに、白い花が小さく揺れる。
普段より少し遅い歩調に合わせていると、真帆がこちらを見た。
「私に合わせなくてもいいですよ」
「デートで置いていって、どうするんだよ」
「午前中、一度置いていかれましたけど」
「あれは現場を俯瞰していた」
「写真撮って笑ってました」
そう言いながらも、差し出した手には、すぐに指を重ねてきた。
着物の袖が触れる。
風が吹いて、結い上げた髪から短い毛が一本、頬にかかった。真帆が直そうとしたので、その前に俺が指で払った。
彼女の足が止まった。
「……近いです」
「さっきは鹿ともっと近かったじゃん」
「同じ基準で考えないでください」
「鹿はよくて、俺は駄目?」
「鹿は、こういうこと言わないので」
真帆は顔をそむけた。
横顔まで赤い。
俺は、つないだ手をほんの少しだけ強く握った。
*
塀沿いの、人通りが途切れたところで、真帆が立ち止まった。
「写真、撮りませんか」
「さっきから撮ってるよ」
「私ばっかりです。一緒のを」
俺はスマホを取り出しかけた手を止めた。
「俺、撮られるの苦手なんだよな」
「私は鹿も着物も得意じゃないんですけど」
「……今日、その理屈強いな」
「圭介さんが育てたんです」
真帆は周囲を見渡し、少し後ろを歩いていた男性に声をかけた。
「すみません。写真、お願いしてもいいですか」
丸眼鏡に、灰色の上着。
着物の店の前にいた人だった。
どうやら、同じような道順で歩いているらしい。
「ええ。構いませんよ」
男性はスマホを受け取り、慣れた手つきで横向きにした。
俺が真帆の隣に立つ。
「もう少し、お顔を上げていただけますか」
言われたとおりに顎を上げる。
隣で真帆が、妙にまっすぐ立っていた。
「緊張してる?」
「……ちょっと」
「ほら、こっち」
俺は肩に手を添えて、真帆を引き寄せた。
彼女の耳が、さっきよりも赤くなった。
「圭介さん」
「何」
「近いです」
「彼女なんだから、いいだろ」
丸眼鏡の男性が、小さく咳をした。
真帆は耳だけでなく、首まで赤くなった。
「はい、撮りますよ」
シャッターが切られる。
「念のため、もう一枚」
もう一度。
「ありがとうございます」
真帆は俺より先に男性のところへ行き、画面を確かめた。
男性も、横から覗き込んでいる。
「よく撮れていますね」
「はい。助かりました」
真帆は、ずいぶん丁寧に頭を下げた。
戻ってきた彼女の顔は、まだ赤かった。
「そんなに恥ずかしかった?」
「……かなり」
「俺は、もう少しくっついてもよかったけど」
「もう十分です」
真帆はそう言って、俺の手を引いた。
これ以上からかわれる前に、その場を離れたいらしい。
俺は、たいへん満足だった。
しばらく歩いたあと、道沿いのベンチに座った。
真帆は巾着からスマホを出して、何か短い文章を打った。
「仕事?」
「はい。少しだけ」
「休みの日も大変だな」
「今日は、もうすぐ片づくので」
スマホをしまうと、真帆は小さく息を吐いた。
遠くから、子どもが鹿を呼ぶ声がした。
呼ばれた鹿は、まったく違う方向へ歩いていった。
俺は笑った。
真帆も同じものを見ていたらしく、口元を緩めた。
こういうとき、会話はなくても成立する。
真帆は沈黙を急いで埋めようとしない。
こちらが考えているあいだは、黙ったまま待ってくれる。
そこは、気に入っていた。
「今日、楽しい?」
俺が聞くと、真帆は少し考えた。
「予想してなかったことが、いくつかありました」
「鹿?」
「鹿もです」
「着物?」
「着物もです」
「後悔してる?」
真帆は、自分の袖に咲く白い花を見た。
「いえ」
それから、俺を見た。
「着てよかったとは、思ってます」
今度の笑顔は、照れ隠しではなかった。
俺は、その顔も悪くないと思った。
「また来ようか」
「……また?」
「次は、真帆の行きたいところに」
「苦手なものじゃなくて?」
「できれば、ちょっと苦手なものもあると助かる」
「やっぱり性格悪いじゃないですか」
真帆が笑った。
俺は、つないでいた手の甲を親指で撫でた。
「困ったときは、ちゃんと助けるから」
「せんべいを受け取るみたいに?」
「最後には助かっただろ」
「それは、私が何とかしました」
少しだけ間が空いた。
真帆が、静かに言った。
「圭介さんは、人に助けてって言えますか」
昼食のときのことを気にしているのだろう。
俺は少し視線を落とした。
「……あんまり得意じゃないな」
「そうですか」
「格好悪いところ、見せたくないし」
「鹿に囲まれた写真、ありますけど」
「それは忘れて」
真帆は笑わなかった。
ただ、つないでいる手を少し握り返してきた。
「大事なことは、ちゃんと話してくださいね」
その言い方は、とても優しかった。
今日一日を、俺といると楽しい日として覚えてくれる。
困ったときには頼っていいと、思ってくれる。
そのつもりで連れてきたのだから、何もかも、うまくいっていた。
*
着物を返して、元の服に戻ったあと、真帆が予約してくれていた喫茶店へ向かった。
駅へ続く大通りから少し入ったところにある、古い家を改装した店らしい。
個室があるから、落ち着いて話せるのだという。
ちょうどよかった。
俺にも、落ち着いて話したいことがあった。
「真帆」
「はい」
「さっき、助けてって言えるかって聞いたろ」
真帆が俺を見た。
俺は、つないだ手の力を少し緩めた。
「実は、仕事で困ってて」
「お昼に言っていたことですか」
「うん」
すぐには続けなかった。
真帆は、いつものように待ってくれた。
「取引先の都合で、急にまとまった金が必要になった。俺が立て替えれば、来月には戻るんだけど」
「いくら、ですか」
「三百万」
真帆は黙った。
俺は急いで首を振った。
「いや、貸してくれって言ってるわけじゃない。真帆にそんな負担をかけたいんじゃなくて」
そこで、いったん言葉を切った。
少しだけ、息を吐く。
「ただ、一人で抱えるのが、しんどくなって」
真帆の指が、俺の手からほどけた。
俺は彼女の顔を見た。
眉尻が、わずかに下がっていた。
唇を結んで、何かを考えている。
見慣れた、困った顔だった。
「こんなこと話せるの、真帆くらいだから」
真帆は目を伏せた。
やがて、喫茶店の小さな看板を指した。
「大切なお話ですよね」
「……うん」
「じゃあ、ちゃんと座って話しましょう」
俺は頷いた。
真帆が、もう一度、俺の手を取った。
今度は、彼女のほうからだった。
指の絡め方が、さっきよりもしっかりしている。
俺は握り返した。
*
店内には、焙煎した豆の匂いが満ちていた。
真帆は店員に予約の名前を告げると、奥の廊下へ進んだ。
木の床が、二人分の足音を小さく返す。
個室の前で、真帆が立ち止まった。
「圭介さん」
「何?」
「今日、私の困った顔を見て、楽しかったですか」
まだ、それを言うのか。
俺は笑った。
「可愛かったよ」
「そうですか」
真帆は、つないだ手を離した。
「じゃあ、今度は私の番ですね」
戸が開いた。
女が、三人いた。
一人は、紺色のブラウスを着ていた。
一人は、髪を短く切っていた。
一人は、以前より少し痩せていた。
三人とも、知っている顔だった。
ただし、同じ部屋にいるはずのない顔だった。
「……どうして」
声が、自分でも驚くほど小さくなった。
紺色のブラウスの女が、椅子から立ち上がった。
「久しぶり、拓也くん」
髪を切った女が、俺を見た。
「私は、直人さんって呼んでましたけど」
最後の一人は、笑わなかった。
「お母さん、退院した?」
喉が閉まった。
真帆が、戸の脇に立ったまま、穏やかに言った。
「ご紹介します」
そんなものは、必要なかった。
「あなたの婚約者の皆さんです」
部屋の奥で、誰かが小さく椅子を引いた。
丸眼鏡。
灰色の上着。
さっき、写真を撮ってくれた男性だった。
男性は俺を見て、丁寧に頭を下げた。
「先ほどはどうも。娘がお世話になりました」
「……娘?」
「父です」
真帆が言った。
「父の事務所を手伝っているって、お話ししましたよね」
男性が、机の上に名刺を置いた。
探偵事務所、と書いてあった。
紺色のブラウスの女が、椅子に手をついた。
「私が、こちらにお願いしたの。あなたを探してくださいって」
「最初のご依頼は、お一人からでした」
真帆の父親が言った。
「調査を進めるうちに、ほかのお二人にも行き着きました。皆さん、あなたと結婚の約束をされていたそうですね」
俺は、机の上を見た。
ファイルが三冊、並んでいる。
真帆が、俺の手を取ったばかりの指で、そのうちの一冊を開いた。
母は元気だ。
立て替える仕事もない。
結婚式場には、電話さえしたことがない。
あったのは、相手の顔を見ながら決めた金額だけだった。
返すつもりがないのは、そのときも、今日も同じだった。
「私のときは、五百万だった」
紺色のブラウスの女が言った。
「来月には戻るって」
髪を切った女が、紙を一枚、こちらに向けた。
見覚えのある文章が印刷されていた。
『こんなこと話せるの、君くらいだから』
「言われた」
痩せた女が言った。
「私も」
紺色のブラウスの女が続けた。
真帆が、静かに頷いた。
「私も、先ほど」
目の前の一文が、急に安っぽく見えた。
俺は、今日一日を丁寧に使ったつもりだった。
せんべいを買わせて。
着物を着せて。
恥ずかしがる顔を褒めて。
最後に俺のためならと、思ってもらえればよかった。
同じ言葉を、同じ部屋で並べられることなど、考えていなかった。
「……事情が」
口が、勝手に動いた。
すると、三人の表情が同時に変わった。
怒鳴りはしなかった。
泣きもしなかった。
ただ、その続きをすでに知っている顔になった。
「今日は、こっちの話を最後まで聞いて」
髪を切った女が言った。
俺は、困っている女の顔には慣れていた。
何を言えば安心するか。
どう触れればこちらを見るか。
だいたい、わかった。
だが、俺の言葉で安心するつもりのない女に、何を言えばいいのかは、知らなかった。
真帆の父親が、別の紙を机の端へ置いた。
そこには、俺の本当の名前があった。
今、住んでいる部屋の住所も。
「皆さんからは、すでに警察へ被害の相談をされています。こちらの調査資料も提出する予定です」
男性は、事務的な口調で言った。
「今日ここで、お話しいただけても、いただけなくても、その点は変わりません」
俺は、開いたままの戸を見た。
誰も、立ちはだかってはいなかった。
ここから出ることはできる。
ただ、出たあとに名乗り直せる名前が、もう残っていなかった。
「お待たせして、すみませんでした」
真帆が、三人に頭を下げた。
「ううん」
紺色のブラウスの女が、ゆっくり首を振った。
「ちゃんと、連れてきてくれたから」
真帆は小さく頷いた。
その横顔を見て、俺は初めて、彼女が誰を安心させようとしていたのかを知った。
ベンチで送っていた連絡。
俺の話を、日付まで覚えていたこと。
最後のお店だけは、自分に選ばせてほしいと言ったこと。
彼女は、最初から何度も、自分の仕事の話をしていた。
「……ずっと、演技だったのか」
俺が聞くと、真帆は振り向いた。
「何がですか」
「今日。鹿とか。着物とか」
我ながら、間抜けな質問だった。
だが、聞かずにはいられなかった。
あの赤くなった頬まで作り物だったとは、思いたくなかった。
「鹿は、本当に怖かったです」
真帆は、そこだけ少し不満そうに言った。
「後ろから来るのは、事前に教えてほしかったです」
「じゃあ、着物は」
「着物も、恥ずかしかったですよ」
「……そうか」
「父の前で、肩を抱かれたので」
奥の男性が、静かに咳をした。
俺は、さっきの自分の声を思い出した。
――彼女なんだから、いいだろ。
耳の奥が熱くなった。
「娘も仕事でやっておりますので」
真帆の父親が、穏やかな顔で言った。
「私も、なるべく気にしないようにはしていました」
気にしていた、ということだった。
「お写真は、よく撮れていましたね」
その一言で、さらに顔が熱くなった。
真帆が小さく息を吐いた。
「着物を着てよかった、と思ったのは本当です。あの色、好きなので」
それから、自分の袖を見た。
もう白い花はない。
元の、何の変哲もないブラウスだった。
「今度は、着たいときに着ます」
なぜか、その言葉が妙にこたえた。
俺が言わなければ、できないことだと思っていた。
彼女が困って。
俺を見て。
手を伸ばす。
そういう一日を、俺が作っていたつもりだった。
「……怖くなかったのか」
俺は聞いた。
「俺と、二人で出かけるの」
「怖かったですよ」
真帆は、今度はすぐに答えた。
「だから、父に近くにいてもらいました。行く場所も、人の多いところにしました」
着物の店の前にいた、灰色の上着。
人通りが途切れたところで、真帆が振り返ったこと。
俺は、ようやく思い当たった。
「困ったら、助けてって言えますから」
真帆はそう言った。
俺は、それを弱さだと思っていた。
誰かを頼る女の子は、俺の言うことを聞く。
決められないなら、決めてやればいい。
そう思っていた。
だが、最後のお店だけは、と言った彼女に、俺は何も疑わずついてきた。
俺が彼女を連れ回しているつもりで。
「どうぞ」
真帆が椅子を引いた。
空いている席は、一つだった。
三人の女と向き合う席に、俺は座った。
真帆は隣ではなく、向こう側に立った。
誰も、俺の手を取らなかった。
誰も、俺に助けを求めていなかった。
真帆が一度、目を伏せた。
口元が、わずかに緩んだ。
見覚えがあった。
朝、鹿に囲まれた俺の写真を見ていたときと、同じ顔だった。
彼女は、あの写真を気に入っていた。
あれも、嘘ではなかったのだ。
「人気者は大変ですね」
真帆が言った。
俺は彼女を見た。
その隣で、三人の女がこちらを見ていた。
ようやく、午前中の彼女の気持ちがわかった。
「……人気じゃない」
「はい」
真帆は、この日いちばん晴れやかな顔で頷いた。
「取り立てです」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
鹿に囲まれて困る彼女。
着物姿を褒められて、真っ赤になる彼女。
とても可愛いデートのはずなのに、「彼女が困っている理由」を、彼が正しく理解しているとは限りません。
特に、写真を撮ってくれた男性。
読み返すと、あの場でいちばん頑張っていたのは、お父さんだったかもしれません。
仕事です。
仕事なのですが、娘の肩を抱いた男が、目の前で「彼女なんだから、いいだろ」と言っている。
よく撮れましたね、お父さん。
いろいろな意味で。
彼女の照れも、鹿への怯えも、全部が嘘だったわけではありません。
本当の反応を見ていても、その理由を、自分に都合よく決めつけてしまうことはある。
今回は、その思い込みを、甘いデートの中に忍ばせてみました。
それにしても、朝はせんべいを渡され、夕方には婚約者たちに引き渡される。
彼は一日を通して、真帆さんの引き継ぎ能力を甘く見ていたようです。
困っている人を見つけたら、写真を撮って笑う前に、まず助けてあげましょう。
その写真を、あとで誰が見るかもわかりませんので。




