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人気者は大変ですね

作者: 週休七日
掲載日:2026/09/22

(鹿2本目です。)

 彼女の困った顔が好きだ。


 眉尻が下がる。唇が少し尖る。自分でなんとかしようとして、結局どうにもならなくなって、最後に俺を見る。


 普段は俺から話しかけることが多いのに、そのときだけは、彼女のほうから俺を探してくれる。


 あの瞬間が、たまらなくいい。


 だから奈良公園に着いて、鹿せんべいの売り場を見つけたとき、俺は迷わず言った。


「真帆。あれ、買ってみなよ」


「圭介さんは?」


「写真を撮る係」


「なんだか、不公平な予感がするんですけど」


「大丈夫。可愛く撮るから」


「安全の話をしてるんです」


 真帆は俺を睨んだ。

 睨んだつもりらしいが、目元が柔らかいせいで、少し眠そうにしか見えなかった。


 知り合って六週間。

 付き合いはじめて三週間。


 今日は、初めて少し遠出をするデートだった。


 真帆は父親の事務所を手伝っている。

 人の相談を聞く仕事だという。


 職業柄なのか、こちらの話を最後まで聞いてくれる。一度した話をよく覚えていて、「それ、先月の出張のときのお話ですね」と、日付まで間違えない。


 控えめで、真面目で、少し押しに弱い。


 俺とは、相性がいいと思っていた。


 今日の予定も、ほとんど俺が決めた。

 真帆が希望したのは、最後にお茶をする店だけだった。


『そこだけは、私に選ばせてください』


 そう言って予約までしてくれたので、もちろん頷いた。

 たまには、彼女に任せるのも悪くない。



 真帆がせんべいの売り場に近づくと、近くで寝そべっていた鹿が一頭、顔を上げた。


 もう一頭が立った。


 さらに、木の陰にいた一頭が、何かを思い出したような顔で歩き出した。


「圭介さん」


「うん」


「今、私の買い物が共有されました」


「人気者だな」


「まだお金を払ってる途中です」


 真帆は片手で財布を押さえ、もう片方の手でお釣りを受け取った。その脇から、鹿の鼻がすっと伸びてくる。


「早いです。開店前です」


 店の人が笑いながらせんべいを渡した。


 その瞬間、真帆の周囲に、はっきりとした目的を持つ集団が形成された。


「待って。待ってください。一枚ずつ」


 右に一枚。

 左に一枚。


 右から、先ほどの鹿が戻ってくる。


「あなた、さっき食べましたよね?」


 鹿は答えなかった。


 返答の代わりに、一歩近づいた。


「その顔は覚えてます。初めましてみたいな顔しても駄目です」


 俺は少し離れたところでスマホを構えた。


 真帆の背後から、さらに二頭が近づいている。


 いい構図だった。


「真帆、こっち向いて」


「向いたら後ろの方に取られます!」


「モテモテじゃん」


「人気と取り立てを混同しないでください!」


 思わず吹き出した。


 その声に反応した真帆が、鹿の頭越しに俺を見た。


 眉尻が下がっている。

 唇が少し尖っている。


 そう、それだ。


 今日最初の、見たかった顔だった。


「圭介さん。本当に助けて」


 さすがに、その声には応えなくてはいけない。


 スマホをしまい、鹿の輪に近づく。


「ほら。残りを少しずつ配れば――」


 真帆が俺の手を取った。


 柔らかい指が、手のひらを開かせる。


 そこに、残っていたせんべいが全部置かれた。


「担当者が替わります」


「おい」


 真帆は俺の背中に隠れた。


 鹿たちの目線が、いっせいに移動した。


 人生で、これほど短時間に注目を集めたことはなかった。


「ちょっと待て。話を聞こう」


 鹿は聞かなかった。


「まず、何頭いるのか確認させて」


 鹿は増えた。


「真帆」


「はい。写真係です」


「お前、そういうところあるんだな!」


 背後でシャッターの音がした。


 せんべいを配り終わるころには、俺の袖は湿り、上着の裾には謎の力がかかった形跡が残っていた。


 真帆はスマホを見ながら笑っていた。

 口元を押さえても、肩が揺れている。


「そんなにいいのが撮れた?」


「はい。すごく」


 画面を見せてもらう。


 俺が鹿に向かって、必死に両手を広げていた。


 何か重大な不正を否認している人のようだった。


「消そう」


「嫌です」


「もっと格好いい写真があるだろ」


「私は、こっちも好きです」


 さらりと言われて、少しだけ返事が遅れた。


 真帆はその隙を見逃さず、スマホを鞄にしまった。


「これで、おあいこですね」


 困っていないときにも、こんなふうに笑うのか。


 俺は袖についた汚れを見た。


 まあ、これくらいなら安いものだ。



     *



 昼食の終わりに、俺はスマホを見て、小さく息を吐いた。


 向かいに座っていた真帆が、箸を止めた。


「どうかしました?」


「仕事で、ちょっと」


「大丈夫ですか」


「うん。今は、真帆との時間を大事にしたいから」


 そう言ってスマホを伏せると、真帆はそれ以上、聞かなかった。


 詳しい話をするのは、もう少しあとでよかった。



 店を出たあと、着物を貸し出している店の前で足を止めた。


 正確には、俺が足を止めて、真帆の手を引いた。


「着てみない?」


「え」


 真帆は店先の着物を見て、それから自分の服を見た。


「私、こういうの、あんまり」


「絶対似合う」


「着慣れてないので」


「だから見たい」


「どうして、私が苦手なものばかり提案するんですか」


「反応が可愛いから」


 真帆は一度、目を閉じた。


 何かを落ち着かせるための時間らしかった。


「圭介さんって、ちょっと性格悪いですよね」


「今気づいた?」


「まだ『ちょっと』にしてるところを褒めてください」


 店先に並ぶ着物の中で、真帆の視線が、淡い若草色の一枚に止まった。


 白い小さな花が、裾から肩にかけて散っている。

 派手ではない。けれど、陽の下ではきっと綺麗だ。


「それ、気になる?」


「……見るだけです」


「着たところも見たいな」


「見るだけって言いました」


 しかし、視線は離れない。


「今日しか見られない真帆って、ちょっと得した気分になる」


 真帆は俺を見た。


 しばらく考えてから、店内の男性用の着物を指さす。


「じゃあ、圭介さんも」


「俺も?」


「自分だけ安全な場所にいるのは禁止です」


 どうも、午前中のせんべいの一件で、余計なことを学ばせてしまったらしい。


 俺は諦めて店に入った。


 入口の脇で地図を見ていた灰色の上着の男性が、少し体をよけてくれた。真帆が小さく会釈した。



 先に着替え終えた俺が待っていると、奥の仕切りから真帆が出てきた。


 若草色の着物。

 控えめに結い上げた髪。

 さっきまで隠れていた首筋。


 鏡に向かっていたときには平気だったらしいのに、俺を見つけた途端、歩幅が小さくなった。


「……どうですか」


 俺は答える前に、もう一度、上から下まで見てしまった。


「何か変ですか」


「いや」


「じゃあ、何か言ってください」


「可愛い」


 真帆の頬が赤くなった。


「もう少し、具体的な感想は」


「かなり可愛い」


「量の話じゃなくて」


「困ったな」


「どうしたんですか」


「見せびらかしたいのと、誰にも見せたくないのが、半分ずつある」


 真帆は口を開きかけて、やめた。


 それから、俺の袖を軽く叩いた。


「そういうの、店員さんがいるところで言わないでください」


 背後で、店員さんがたいへん穏やかな笑顔を浮かべていた。


「仲がよろしいですね」


「違……わなくは、ないですけど」


 真帆は否定の途中で進路を失った。


 俺は笑いをこらえた。


 着物を勧めて正解だった。



 外に出ると、午後の光が真帆の袖に落ちた。


 歩くたびに、白い花が小さく揺れる。


 普段より少し遅い歩調に合わせていると、真帆がこちらを見た。


「私に合わせなくてもいいですよ」


「デートで置いていって、どうするんだよ」


「午前中、一度置いていかれましたけど」


「あれは現場を俯瞰していた」


「写真撮って笑ってました」


 そう言いながらも、差し出した手には、すぐに指を重ねてきた。


 着物の袖が触れる。


 風が吹いて、結い上げた髪から短い毛が一本、頬にかかった。真帆が直そうとしたので、その前に俺が指で払った。


 彼女の足が止まった。


「……近いです」


「さっきは鹿ともっと近かったじゃん」


「同じ基準で考えないでください」


「鹿はよくて、俺は駄目?」


「鹿は、こういうこと言わないので」


 真帆は顔をそむけた。


 横顔まで赤い。


 俺は、つないだ手をほんの少しだけ強く握った。



     *



 塀沿いの、人通りが途切れたところで、真帆が立ち止まった。


「写真、撮りませんか」


「さっきから撮ってるよ」


「私ばっかりです。一緒のを」


 俺はスマホを取り出しかけた手を止めた。


「俺、撮られるの苦手なんだよな」


「私は鹿も着物も得意じゃないんですけど」


「……今日、その理屈強いな」


「圭介さんが育てたんです」


 真帆は周囲を見渡し、少し後ろを歩いていた男性に声をかけた。


「すみません。写真、お願いしてもいいですか」


 丸眼鏡に、灰色の上着。


 着物の店の前にいた人だった。

 どうやら、同じような道順で歩いているらしい。


「ええ。構いませんよ」


 男性はスマホを受け取り、慣れた手つきで横向きにした。


 俺が真帆の隣に立つ。


「もう少し、お顔を上げていただけますか」


 言われたとおりに顎を上げる。


 隣で真帆が、妙にまっすぐ立っていた。


「緊張してる?」


「……ちょっと」


「ほら、こっち」


 俺は肩に手を添えて、真帆を引き寄せた。


 彼女の耳が、さっきよりも赤くなった。


「圭介さん」


「何」


「近いです」


「彼女なんだから、いいだろ」


 丸眼鏡の男性が、小さく咳をした。


 真帆は耳だけでなく、首まで赤くなった。


「はい、撮りますよ」


 シャッターが切られる。


「念のため、もう一枚」


 もう一度。


「ありがとうございます」


 真帆は俺より先に男性のところへ行き、画面を確かめた。


 男性も、横から覗き込んでいる。


「よく撮れていますね」


「はい。助かりました」


 真帆は、ずいぶん丁寧に頭を下げた。


 戻ってきた彼女の顔は、まだ赤かった。


「そんなに恥ずかしかった?」


「……かなり」


「俺は、もう少しくっついてもよかったけど」


「もう十分です」


 真帆はそう言って、俺の手を引いた。


 これ以上からかわれる前に、その場を離れたいらしい。


 俺は、たいへん満足だった。



 しばらく歩いたあと、道沿いのベンチに座った。


 真帆は巾着からスマホを出して、何か短い文章を打った。


「仕事?」


「はい。少しだけ」


「休みの日も大変だな」


「今日は、もうすぐ片づくので」


 スマホをしまうと、真帆は小さく息を吐いた。


 遠くから、子どもが鹿を呼ぶ声がした。

 呼ばれた鹿は、まったく違う方向へ歩いていった。


 俺は笑った。


 真帆も同じものを見ていたらしく、口元を緩めた。


 こういうとき、会話はなくても成立する。


 真帆は沈黙を急いで埋めようとしない。

 こちらが考えているあいだは、黙ったまま待ってくれる。


 そこは、気に入っていた。


「今日、楽しい?」


 俺が聞くと、真帆は少し考えた。


「予想してなかったことが、いくつかありました」


「鹿?」


「鹿もです」


「着物?」


「着物もです」


「後悔してる?」


 真帆は、自分の袖に咲く白い花を見た。


「いえ」


 それから、俺を見た。


「着てよかったとは、思ってます」


 今度の笑顔は、照れ隠しではなかった。


 俺は、その顔も悪くないと思った。


「また来ようか」


「……また?」


「次は、真帆の行きたいところに」


「苦手なものじゃなくて?」


「できれば、ちょっと苦手なものもあると助かる」


「やっぱり性格悪いじゃないですか」


 真帆が笑った。


 俺は、つないでいた手の甲を親指で撫でた。


「困ったときは、ちゃんと助けるから」


「せんべいを受け取るみたいに?」


「最後には助かっただろ」


「それは、私が何とかしました」


 少しだけ間が空いた。


 真帆が、静かに言った。


「圭介さんは、人に助けてって言えますか」


 昼食のときのことを気にしているのだろう。


 俺は少し視線を落とした。


「……あんまり得意じゃないな」


「そうですか」


「格好悪いところ、見せたくないし」


「鹿に囲まれた写真、ありますけど」


「それは忘れて」


 真帆は笑わなかった。


 ただ、つないでいる手を少し握り返してきた。


「大事なことは、ちゃんと話してくださいね」


 その言い方は、とても優しかった。


 今日一日を、俺といると楽しい日として覚えてくれる。


 困ったときには頼っていいと、思ってくれる。


 そのつもりで連れてきたのだから、何もかも、うまくいっていた。



     *



 着物を返して、元の服に戻ったあと、真帆が予約してくれていた喫茶店へ向かった。


 駅へ続く大通りから少し入ったところにある、古い家を改装した店らしい。


 個室があるから、落ち着いて話せるのだという。


 ちょうどよかった。


 俺にも、落ち着いて話したいことがあった。


「真帆」


「はい」


「さっき、助けてって言えるかって聞いたろ」


 真帆が俺を見た。


 俺は、つないだ手の力を少し緩めた。


「実は、仕事で困ってて」


「お昼に言っていたことですか」


「うん」


 すぐには続けなかった。


 真帆は、いつものように待ってくれた。


「取引先の都合で、急にまとまった金が必要になった。俺が立て替えれば、来月には戻るんだけど」


「いくら、ですか」


「三百万」


 真帆は黙った。


 俺は急いで首を振った。


「いや、貸してくれって言ってるわけじゃない。真帆にそんな負担をかけたいんじゃなくて」


 そこで、いったん言葉を切った。


 少しだけ、息を吐く。


「ただ、一人で抱えるのが、しんどくなって」


 真帆の指が、俺の手からほどけた。


 俺は彼女の顔を見た。


 眉尻が、わずかに下がっていた。


 唇を結んで、何かを考えている。


 見慣れた、困った顔だった。


「こんなこと話せるの、真帆くらいだから」


 真帆は目を伏せた。


 やがて、喫茶店の小さな看板を指した。


「大切なお話ですよね」


「……うん」


「じゃあ、ちゃんと座って話しましょう」


 俺は頷いた。


 真帆が、もう一度、俺の手を取った。


 今度は、彼女のほうからだった。


 指の絡め方が、さっきよりもしっかりしている。


 俺は握り返した。



     *



 店内には、焙煎した豆の匂いが満ちていた。


 真帆は店員に予約の名前を告げると、奥の廊下へ進んだ。


 木の床が、二人分の足音を小さく返す。


 個室の前で、真帆が立ち止まった。


「圭介さん」


「何?」


「今日、私の困った顔を見て、楽しかったですか」


 まだ、それを言うのか。


 俺は笑った。


「可愛かったよ」


「そうですか」


 真帆は、つないだ手を離した。


「じゃあ、今度は私の番ですね」


 戸が開いた。



 女が、三人いた。



 一人は、紺色のブラウスを着ていた。


 一人は、髪を短く切っていた。


 一人は、以前より少し痩せていた。


 三人とも、知っている顔だった。


 ただし、同じ部屋にいるはずのない顔だった。


「……どうして」


 声が、自分でも驚くほど小さくなった。


 紺色のブラウスの女が、椅子から立ち上がった。


「久しぶり、拓也くん」


 髪を切った女が、俺を見た。


「私は、直人さんって呼んでましたけど」


 最後の一人は、笑わなかった。


「お母さん、退院した?」


 喉が閉まった。


 真帆が、戸の脇に立ったまま、穏やかに言った。


「ご紹介します」


 そんなものは、必要なかった。


「あなたの婚約者の皆さんです」



 部屋の奥で、誰かが小さく椅子を引いた。


 丸眼鏡。

 灰色の上着。


 さっき、写真を撮ってくれた男性だった。


 男性は俺を見て、丁寧に頭を下げた。


「先ほどはどうも。娘がお世話になりました」


「……娘?」


「父です」


 真帆が言った。


「父の事務所を手伝っているって、お話ししましたよね」


 男性が、机の上に名刺を置いた。


 探偵事務所、と書いてあった。


 紺色のブラウスの女が、椅子に手をついた。


「私が、こちらにお願いしたの。あなたを探してくださいって」


「最初のご依頼は、お一人からでした」


 真帆の父親が言った。


「調査を進めるうちに、ほかのお二人にも行き着きました。皆さん、あなたと結婚の約束をされていたそうですね」


 俺は、机の上を見た。


 ファイルが三冊、並んでいる。


 真帆が、俺の手を取ったばかりの指で、そのうちの一冊を開いた。



 母は元気だ。


 立て替える仕事もない。


 結婚式場には、電話さえしたことがない。


 あったのは、相手の顔を見ながら決めた金額だけだった。


 返すつもりがないのは、そのときも、今日も同じだった。



「私のときは、五百万だった」


 紺色のブラウスの女が言った。


「来月には戻るって」


 髪を切った女が、紙を一枚、こちらに向けた。


 見覚えのある文章が印刷されていた。


『こんなこと話せるの、君くらいだから』


「言われた」


 痩せた女が言った。


「私も」


 紺色のブラウスの女が続けた。


 真帆が、静かに頷いた。


「私も、先ほど」


 目の前の一文が、急に安っぽく見えた。


 俺は、今日一日を丁寧に使ったつもりだった。


 せんべいを買わせて。

 着物を着せて。

 恥ずかしがる顔を褒めて。


 最後に俺のためならと、思ってもらえればよかった。


 同じ言葉を、同じ部屋で並べられることなど、考えていなかった。


「……事情が」


 口が、勝手に動いた。


 すると、三人の表情が同時に変わった。


 怒鳴りはしなかった。

 泣きもしなかった。


 ただ、その続きをすでに知っている顔になった。


「今日は、こっちの話を最後まで聞いて」


 髪を切った女が言った。


 俺は、困っている女の顔には慣れていた。


 何を言えば安心するか。

 どう触れればこちらを見るか。


 だいたい、わかった。


 だが、俺の言葉で安心するつもりのない女に、何を言えばいいのかは、知らなかった。



 真帆の父親が、別の紙を机の端へ置いた。


 そこには、俺の本当の名前があった。


 今、住んでいる部屋の住所も。


「皆さんからは、すでに警察へ被害の相談をされています。こちらの調査資料も提出する予定です」


 男性は、事務的な口調で言った。


「今日ここで、お話しいただけても、いただけなくても、その点は変わりません」


 俺は、開いたままの戸を見た。


 誰も、立ちはだかってはいなかった。


 ここから出ることはできる。


 ただ、出たあとに名乗り直せる名前が、もう残っていなかった。



「お待たせして、すみませんでした」


 真帆が、三人に頭を下げた。


「ううん」


 紺色のブラウスの女が、ゆっくり首を振った。


「ちゃんと、連れてきてくれたから」


 真帆は小さく頷いた。


 その横顔を見て、俺は初めて、彼女が誰を安心させようとしていたのかを知った。


 ベンチで送っていた連絡。


 俺の話を、日付まで覚えていたこと。


 最後のお店だけは、自分に選ばせてほしいと言ったこと。


 彼女は、最初から何度も、自分の仕事の話をしていた。



「……ずっと、演技だったのか」


 俺が聞くと、真帆は振り向いた。


「何がですか」


「今日。鹿とか。着物とか」


 我ながら、間抜けな質問だった。


 だが、聞かずにはいられなかった。


 あの赤くなった頬まで作り物だったとは、思いたくなかった。


「鹿は、本当に怖かったです」


 真帆は、そこだけ少し不満そうに言った。


「後ろから来るのは、事前に教えてほしかったです」


「じゃあ、着物は」


「着物も、恥ずかしかったですよ」


「……そうか」


「父の前で、肩を抱かれたので」


 奥の男性が、静かに咳をした。


 俺は、さっきの自分の声を思い出した。


 ――彼女なんだから、いいだろ。


 耳の奥が熱くなった。


「娘も仕事でやっておりますので」


 真帆の父親が、穏やかな顔で言った。


「私も、なるべく気にしないようにはしていました」


 気にしていた、ということだった。


「お写真は、よく撮れていましたね」


 その一言で、さらに顔が熱くなった。


 真帆が小さく息を吐いた。


「着物を着てよかった、と思ったのは本当です。あの色、好きなので」


 それから、自分の袖を見た。


 もう白い花はない。

 元の、何の変哲もないブラウスだった。


「今度は、着たいときに着ます」


 なぜか、その言葉が妙にこたえた。


 俺が言わなければ、できないことだと思っていた。


 彼女が困って。

 俺を見て。

 手を伸ばす。


 そういう一日を、俺が作っていたつもりだった。



「……怖くなかったのか」


 俺は聞いた。


「俺と、二人で出かけるの」


「怖かったですよ」


 真帆は、今度はすぐに答えた。


「だから、父に近くにいてもらいました。行く場所も、人の多いところにしました」


 着物の店の前にいた、灰色の上着。


 人通りが途切れたところで、真帆が振り返ったこと。


 俺は、ようやく思い当たった。


「困ったら、助けてって言えますから」


 真帆はそう言った。


 俺は、それを弱さだと思っていた。


 誰かを頼る女の子は、俺の言うことを聞く。

 決められないなら、決めてやればいい。


 そう思っていた。


 だが、最後のお店だけは、と言った彼女に、俺は何も疑わずついてきた。


 俺が彼女を連れ回しているつもりで。



「どうぞ」


 真帆が椅子を引いた。


 空いている席は、一つだった。


 三人の女と向き合う席に、俺は座った。


 真帆は隣ではなく、向こう側に立った。


 誰も、俺の手を取らなかった。

 誰も、俺に助けを求めていなかった。


 真帆が一度、目を伏せた。


 口元が、わずかに緩んだ。


 見覚えがあった。


 朝、鹿に囲まれた俺の写真を見ていたときと、同じ顔だった。


 彼女は、あの写真を気に入っていた。


 あれも、嘘ではなかったのだ。



「人気者は大変ですね」


 真帆が言った。


 俺は彼女を見た。


 その隣で、三人の女がこちらを見ていた。


 ようやく、午前中の彼女の気持ちがわかった。


「……人気じゃない」


「はい」


 真帆は、この日いちばん晴れやかな顔で頷いた。


「取り立てです」

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


鹿に囲まれて困る彼女。

着物姿を褒められて、真っ赤になる彼女。


とても可愛いデートのはずなのに、「彼女が困っている理由」を、彼が正しく理解しているとは限りません。


特に、写真を撮ってくれた男性。

読み返すと、あの場でいちばん頑張っていたのは、お父さんだったかもしれません。


仕事です。

仕事なのですが、娘の肩を抱いた男が、目の前で「彼女なんだから、いいだろ」と言っている。


よく撮れましたね、お父さん。

いろいろな意味で。


彼女の照れも、鹿への怯えも、全部が嘘だったわけではありません。

本当の反応を見ていても、その理由を、自分に都合よく決めつけてしまうことはある。

今回は、その思い込みを、甘いデートの中に忍ばせてみました。


それにしても、朝はせんべいを渡され、夕方には婚約者たちに引き渡される。

彼は一日を通して、真帆さんの引き継ぎ能力を甘く見ていたようです。


困っている人を見つけたら、写真を撮って笑う前に、まず助けてあげましょう。


その写真を、あとで誰が見るかもわかりませんので。

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