第8節:未来へのノイズ
夜の校長室に、重い足音が響いた。
紬に連れられて現れた校長先生は、青白く照らされた和紙を一目見るなり、眼鏡を外して深く、深くため息をついた。
「……見つかってしまったか。上条くん、君の目をごまかすのは、物理法則を捻じ曲げるより難しいようだね」
「校長先生。あなたは最初から、この和紙に仕掛けがあることを知っていたはずだ。十年前の生徒たちが『墨を弾く触媒』を練り込んだ和紙を贈ったことも、そして特定の環境下で彼らの隠しメッセージが浮かび上がることも」
僕はあえて、追求するような口調で続けた。
「あなたは今日、わざと暖房の設定温度を上げ、沈丁花の鉢を近くに置いた。……つまり、自らの手で祝辞を『白紙』に変えた。これは外部犯による事件ではなく、あなたの自作自演だ。なぜ、明日の式典を台無しにするような真似をしたんですか?」
校長先生は、窓の外で揺れる沈丁花を寂しげに見つめた。
「台無しにするつもりはなかったんだよ。ただ、迷っていたんだ。……十年前、私は彼らに『大人の事情』で、用意された、心のこもっていない祝辞を読まざるを得なかった。彼らはそれを笑って許してくれたが、この和紙を私に託した。……『先生が本当に、自分の心から溢れる言葉を見つけた時にだけ、この和紙は真っ白に戻る』。そう言っていたよ」
「……つまり、校長先生が書いた今朝の祝辞もまた、彼らにとっては『本音』ではなかったということですか」
紬が隣で、小さく声を漏らす。
「その通りだ。私は今年も、波風の立たない、形式美だけの言葉を並べてしまった。……すると、和紙が私を拒絶したんだ。文字を消し、彼らの古いメッセージを浮かび上がらせることで、『そんな嘘はやめてくれ』と突きつけられたような気がしてね」
僕は鼻先でフンと笑った。
「非論理的だ。和紙には意志などない。化学反応は単に環境条件に従っただけだ。……だが、あなたがその『ノイズ』を無視できなかったという事実は、物理的なデータとして僕の前に提示されている」
僕は保冷剤で冷え切った手をポケットに突っ込んだ。
「校長先生。十年前の彼らが望んだのは、あなたの謝罪でも、沈黙でもない。……化学反応を上書きするほどの、圧倒的な『現在の言葉』だ。……白紙になったのなら、また書けばいい。ただし、今度は触媒に弾かれないほどの熱量を持った、あなた自身の言葉で」
僕は手帳から一枚のメモを切り離し、机に置いた。
そこには、和紙の反応を一時的に停止させるための、簡単な中和剤の配合(クエン酸と精製水の比率)が記されていた。
「これを使えば、今夜一晩は『白紙』のまま固定できる。……明日の朝までに、その空白を埋めてください。それが、この事件における唯一の論理的な終結だ」




