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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: NN
第二章

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22/22

第二十話 語らぬ人

夜になると、雲仙様の屋敷は昼とはまた違う顔を見せる。


昼間の屋敷は、整えられた静けさの中に人の気配がある。傀儡が行き交い、紬が忙しなく回廊を渡り、白嶺の風が遠くをかすめ、椿の足音が唐突に近づいてくる。誰もがそれぞれの用事を抱え、張りつめた空気の中でも、たしかに日々は流れているのだとわかる。


けれど夜は違った。

灯りの数が減り、回廊の奥行きが深くなる。青白い霊力灯の明かりは昼よりも淡く感じられ、庭石の影は静かに伸び、渡る風の音だけがやけに耳に残る。屋敷全体が、美しい殻のように静まってしまう。


私はその夜、ひとりで庭を見ていた。


中央区の整った光も、外縁区の崩れた祠も、どちらも同じ都の中にあるのに、まるで別々の場所みたいだった。帳面の上では整った都と、帳面からこぼれ落ちる都。その二つが、私の中ではまだうまく重なってくれない。


縁側に座り、膝を抱える。

夜風は冷たくはないが、昼より少しだけ肌を撫でる温度が低い。


白嶺は書庫の方にいるらしかった。

今日もまた文官の記録を洗っているのだろう。紬は帳場の整理があると言っていたし、椿は鍛錬のあと酒を飲んで「だからあたしは弱くない!」と怒鳴っていた。雲仙様は、今日は姿を見ていない。


私はひとりきりだった。

けれど、不思議と寂しくはなかった。夜の屋敷には、誰もいないのではなく、見えないところにそれぞれの気配がある。そういう静けさだと、もうわかるからだ。


その時、回廊の向こうで衣擦れがした。


傀儡の足音ではない。

紬の軽さとも違う。白嶺の風でも、椿の荒っぽい足音でもない。もっと静かで、流れるみたいな気配だった。


私はそっと顔を上げる。


回廊の角から現れたのは、明清だった。


私は思わず背筋を伸ばした。

外縁区でも名を聞いたばかりだ。中華風の衣を崩しなくまとい、肩の力だけが妙に抜けている人物。


「失礼。驚かせてしまいましたか」


声音はやわらかい。

敬語も穏やかで、響きだけなら親切な人みたいに聞こえる。けれど私は、目の前の人物を前にしてすぐに安心できるほど幼くはなかった。


「……少し」


正直に言うと、明清はふっと口元をやわらげた。


「それは失礼いたしました。夜の回廊で、不意に話しかけられれば驚かれますよね」


そう言いながら、すぐ近くまでは来ない。

縁側から二、三歩離れたところで立ち止まっている。その距離感が、かえって読めなかった。


私は膝を抱えたまま、明清を見る。


「何か、用ですか」


「用、と申しますと少々身構えさせてしまうかもしれませんね」


明清は少し考えるように首を傾けた。


「お顔を見に来ただけ、ではいけませんか」


いけません、とは言いにくい。

でもそれをそのまま信じるのも違う気がした。


私が黙っていると、明清は小さく笑った。


「警戒心がおありなのは結構なことです」


その言い方が、褒めているようでもあり、試しているようでもある。

私はどちらとも決められなかった。


「外縁区をご覧になったそうですね」


明清が言う。


私は少しだけ目を見開いた。


「……知ってるんですか」


「ええ、まあ。都というものは広いようでいて、案外、すぐに風の噂が回るものです」


風の噂。

それが本当にただの噂なのか、明清自身が何か別の形で知ったのか、私にはわからなかった。


「おつらかったでしょう」


明清は静かに続ける。


「中央の美しい道や、雲仙様のお屋敷の静かな庭を知ったあとでは、なおさら」


私は少しだけ唇を結んだ。


つらかった。

たしかにそうだ。怖かったし、苦しかったし、見なければよかったとは思わないのに、知らないままではいられなくなった。


「……はい」


「そうでしょうね」


明清はうなずく。


「ですが、ああいうものは、一度見えてしまうと、もう前のようには戻れません」


その言葉に、胸が少しざわついた。

戻れない。まさにその通りだったからだ。


「あなたは、見なかったことにできますか?」


明清の問いは穏やかだった。

でも私には、その穏やかさが少しだけ怖かった。優しい声のまま、芯のところを触ってくる。


「……できません」


私は答える。


「したくないです」


「そうですか」


明清はそこで初めて、ほんのわずかに目元を和らげた。


「それは、結構なことです」


「結構、ですか」


「ええ」


明清は夜の庭へ一度だけ視線を流した。


「都は美しいところです。美しく整えられているからこそ、外側に押しやられるものもまた、美しく見えなくなる」


私は息を潜めて聞く。


「見えないままでも、生きていける方はおられます。むしろその方が、賢く、穏当に暮らせることもあるでしょう」


やわらかな声だった。

けれどその言葉の奥には、どこか冷たい現実があった。


「ですが、見えてしまった方は違う」


明清は私を見る。


「帳面の都だけで満足することは、もう難しいでしょうね」


私は膝の上で指を組んだ。

帳面の都。白嶺たちと話した言葉を、この人ももう知っているんだろうか。あるいは偶然なのか。どちらにしても、その言葉を口にされるだけで、私の中では何かが少しざらついた。


「明清さんは」


思い切って聞く。


「外縁区のこと、知ってるんですよね」


「ええ、存じております」


「じゃあ、どう思ってるんですか」


問いかけたあとで、自分の声が少し硬かったことに気づいた。

でも引っ込めたくはなかった。


明清は少しだけ首を傾げる。


「難しいご質問ですね」


「難しいですか」


「ええ。なにせ私は、善人ではありませんので」


私は思わず黙った。

あまりにもさらりと言われたからだ。


明清は困ったようでもなく、照れたようでもなく、ただ事実を述べるみたいにそう言った。


「外縁区を哀れと思わぬわけではありません。ですが、哀れと思うことと、何かを背負うことは別でしょう」


「……じゃあ、背負わないんですか」


「背負えば潰れると知っている者は、軽々しく背負うとは申せません」


その言葉に、私は外縁区の婆さまの言葉を思い出した。


興味がないのではない。興味を持ちすぎた末路を知っている。

たしか、そう言っていた。


「朱蘭さんのことを、知ってるからですか」


私がそう言うと、明清は初めて、ほんの一瞬だけ沈黙した。


長い沈黙ではない。

でも、今までの会話の流れが静かに止まったと感じるには十分だった。


「……その名を、どこで」


「外縁区で聞きました」


私は正直に答える。


「朱蘭さんが、あそこを気にかけてたって」


明清は少しだけ息を吐いた。


「そうでしたか」


それだけだった。

否定も肯定も、詳しい説明もない。


私は続ける。


「遺言も、知ってるんですよね」


問いかけた瞬間、明清の空気がわずかに変わった気がした。

怒ったわけではない。けれど、それまでのやわらかい会話の表面に、薄い膜みたいなものが一枚張った気がした。


「どなたから、そこまで」


「婆さまって呼ばれてる人が」


「……そうですか」


明清は目を伏せた。

考えているのか笑っているのか相変わらずよくわからない。けれど、少なくとも今はその話題を軽く受け流してはいないのだと私にはわかった。


「知っておりますよ」


やがて、明清は静かに言う。


「ですが、今ここであなたに申し上げることではありません」


私は小さく息を止めた。


「どうして」


「その言葉は、軽く扱ってよいものではないからです」


やわらかい敬語のままだった。

でも、その一文だけは妙にはっきりとした芯があった。


私はそれ以上問い詰められなかった。

ただ、ここで拒まれたのとは少し違うとも感じた。言わないのではなく、まだ言う時ではない、と線を引かれた感じだった。


明清は私を見て、少しだけ口元を緩める。


「ただ」


「……ただ?」


「あなたのような方を、あの方は嫌いではなかったでしょうね」


その言葉に、私は目を瞬いた。


「あの方って……朱蘭さん?」


明清は答えなかった。

けれど答えなかったことが、ほとんど答えみたいなものだった。


「見てしまったものを、見なかったことにしない」


明清は静かに続ける。


「それは、都にとっては厄介で、時に危うく、けれど決して無価値ではありません」


私はその言葉をうまく飲み込めなかった。

褒められているのかもしれない。でも、ただ褒めているだけじゃない気もする。私という存在の危うさごと見ている言い方だった。


「あなたは、案外優しいのですね」


明清がそう言う。


私は少しだけ眉を寄せた。


「優しくなんてないです」


「そうですか?」


「だって、見て苦しくなっただけです。何もできてないし」


「何もできぬと知ってなお、見たことを忘れたくないとお思いなら、それを優しさと呼ぶ方もおられるでしょう」


私は黙った。


何か言い返したかったけれど、うまくいかなかった。

明清の言葉は、やさしいようでいて、少しだけ逃げ道をふさいでくる。正面から否定できない形で置かれるから、受け取るしかなくなる。


「……明清さんは」


私は少しだけためらってから聞いた。


「優しいんですか」


その問いに、明清は珍しく、ほんの少しだけ笑った。


「どうでしょう」


「ずるい」


「ええ。そういうところはあるかもしれません」


あっさり認めるので、私は少し面食らった。


夜風が一度だけ強く吹いた。

庭木の葉が鳴り、霊力灯の火がわずかに揺れる。


明清はそこで空を見上げた。


「あなたは、こちらに残りたいとお思いですか」


不意の問いだった。


私は息を呑む。


「……わかりません」


それが今の正直な答えだった。

この世界は怖い。でも、知ってしまった。外縁区のことも、白嶺や椿や紬のことも、雲仙様のことも。全部を置いて帰る未来が想像できない瞬間もある。けれど人間界の家族のことを思えば、簡単に残りたいとも言えない。


「わからない、ですか」


「はい」


「それでよろしいかと」


明清は穏やかに言う。


「まだお若いのです。すぐに選ばねばならぬものばかりではありません」


それは慰めにも聞こえるし、保留を許す言葉にも聞こえる。

私は少しだけ肩の力を抜いた。


「明清さん」


その時、不意に後ろから声がした。


振り向くと、回廊の角に紬が立っていた。

湯の入った小さな盆を持っている。たぶん誰かへ運ぶ途中だったんだろう。でも今は、その金色の目がはっきりと明清へ向いていた。


「おや」


明清は少しだけ振り返る。


「紬くん」


「こんな時間に、珍しいですね」


「ええ。少し風に当たっておりました」


「そう」


紬の声はやわらかい。

でも私には、そのやわらかさの奥にわずかな緊張があるのがわかった。


明清はそれを気にした様子もなく、軽く会釈した。


「では私はこれで」


「……はい」


私が返すと、明清は一度だけ私を見た。


「またいずれ、お話しできる時があるでしょう」


それだけ言って、明清は回廊の奥へ去っていく。

足音はほとんどしなかった。気づけば、衣擦れの気配だけが遠ざかっていく。


私はしばらく、その背中が消えた方向を見ていた。


「燈ちゃん」


紬がそばへ来る。


「会ったの?」


「うん」


「何か言われた?」


私はどう答えればいいのかわからなくなった。


優しかった、とも違う。

怖かった、と言い切るのも違う。

でも何かを測られた気はするし、朱蘭のことを知っているのも確かだった。


「……変な人」


結局、そう言うと、紬は少しだけ肩を揺らした。


「だよね」


「でも、ただ変なだけじゃない」


「うん」


「外縁区のこと知ってたし、朱蘭さんのことも、やっぱり」


紬はしばらく黙っていた。


「遺言のこと、聞いた?」


「聞いた。でも、今は言うことじゃないって」


そう言うと、紬は小さく息を吐いた。


「そっか」


その声には、残念と、納得と、ほんの少しの苦さが混ざっていた。


「紬くん」


「なに」


「明清さんって、いい人なのかな」


紬はすぐには答えなかった。

夜風に耳が少し揺れる。


「……いい人、って呼ぶと、たぶん違う」


やがて静かに言う。


「でも、冷たい人とも言いきれない」


私は頷いた。


やっぱり、そうなんだ。


「姉さんみたいに手を差し出す人じゃない。でも、姉さんの残したものを完全には切れない人なんだと思う」


私は明清が去った方向をもう一度見る。

あの人のやわらかな敬語も、瞳の奥の見えなさも、何を知っていて何を言わないのかも、どれもまだ曖昧だった。けれど、曖昧だからこそ気になった。


「あの人はね」


紬がぽつりと言う。


「たぶん、何かを背負わないようにしてる」


「どうして?」


「背負った人がどうなったか、知ってるから」


朱蘭のことだと、私にもわかった。


夜の庭は静かだった。

けれど、その静けさの中には、語られなかった言葉がまだ残っている気がした。


私は湯気の立つ盆を見つめ、それから小さく息を吐く。


「またいずれ、って言ってた」


「明清が?」


「うん」


紬は少しだけ困ったように笑った。


「じゃあ、また来るかもね」


「……来てほしいような、来てほしくないような」


「わかる」


二人は小さく笑った。


完全に安心はできない。

でも完全に拒みたいわけでもない。

明清という人は、そういうふうに私の中へ残った。


夜風がまた吹く。

帳面の都の美しい庭に、外縁区の埃っぽい路地の気配が、ほんの少しだけ混ざったような気がした。


私はその風を胸いっぱいに吸い込み、静かに目を細める。


見てしまったものを、見なかったことにしない。

それは厄介で、危うくて、でも無価値ではない。


明清の言葉は、まだ私の中でうまく形になっていなかった。

けれど、そのまま消えてしまうような言葉でもなかった。


やわらかな声で、言葉を濁したまま、それでも何かだけは残していく。

明清という人は、そういうふうに私の夜へ足跡を落としていったのだった。

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