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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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第九話 風の向かう先

歓迎の宴があった翌朝、私は少しだけ遅く目を覚ました。


前の晩は、屋敷へ来てから初めて、心のどこかが少しだけゆるんだまま眠れた気がした。宴といっても騒がしいものではなかったけれど、椿が次々料理を勧めてきて、紬がそれをほどよく止めて、白嶺が呆れたように見ていて、雲仙様が静かにその様子を眺めていた。その全部が不思議で、少しだけあたたかかった。


妖魔界に来てから、怖いことや知らないことばかりだった。

でも、あの時間だけは、ここにいていいのかもしれないと、ほんの少しだけ思えたのだ。


だからだろうか。

部屋の外から聞こえてきた足音が、いつもより硬く感じられたとき、胸の奥が小さくざわついた。


障子を叩く音がして、紬の声がした。


「燈ちゃん、起きてる?」


「起きてる」


そう返すと、障子が開く。

けれど入ってきた紬の顔を見た瞬間、私はすぐに何かおかしいと思った。


笑ってはいた。

でも、いつものやわらかい笑い方じゃない。どこか、様子をうかがうみたいな顔をしている。


「……どうしたの?」


私がそう聞くと、紬は少しだけ間を置いた。


「いや、その……燈ちゃんには関係ないって言えば、たぶんそうなんだけど」


「関係ないって言いながら、そういう顔してる時はだいたい関係ないことじゃないよ」


自分でも少し生意気な言い方だったかなと思ったけれど、紬はむしろ困ったように笑った。


「さっき、椿にも似たようなこと言われた」


「じゃあやっぱりそうなんだ」


「うん……まあ、うん」


紬は部屋の中へ入ってきて、障子を静かに閉めた。


「白嶺が、呼ばれたんだ」


「呼ばれた?」


蒼耀(そうよう)様に」


その名前を聞いても、私はまだすぐには表情を変えられなかった。

白嶺の父で、天狗の首長で、宥和派の重鎮。そういう人だとは知ってはいる。


でもその“知っている”は、雲仙様や椿や紬みたいに、声や顔のある知り方じゃない。まだ名前だけが先にある感じだった。


なのに、紬がその名を口にしたとたん、部屋の空気だけは少し変わった。


「……白嶺、嫌そうだった?」


自分でも驚くくらい、すぐにその言葉が出た。


紬はそれを聞いて、小さく頷く。


「嫌そう、っていうか……」


そこで言葉を探すように視線を落とす。


「白嶺って、あんまり顔に出ないでしょ」


「うん」


「でも、出ないなりに、すごくわかりやすい時があるんだよ」


私は黙ってその先を待った。


「呼びに来た傀儡が“蒼耀様がお呼びです”って言った瞬間、空気が変わった」


紬は静かに言った。


「顔色が変わるとか、露骨に嫌な顔をするとか、そういうのじゃないんだけど……なんていうか、ぴんって張るんだ。もともと張ってる人なのに、さらに一段、固くなる感じ」


それはなんとなく想像できた。

白嶺はいつも静かで、整っていて、どこか隙がない。けれどその隙のなさが、時々、冷たさじゃなくて“ほどけない何か”に見えることがあった。


「椿は?」


「露骨に顔しかめてた」


それを聞いて、私は少しだけ納得した。

椿なら、嫌なものを嫌だと顔に出すだろう。


「白嶺は、もう行ったの?」


「うん。さっき」


紬は部屋の隅に視線をやって、それからまた私を見た。


「燈ちゃんには、今日は屋敷の奥へ行かないようにって。白嶺から」


「……私に?」


「うん」


それだけで、胸の中が少し重くなる。


たぶん白嶺は私を守るつもりでそう言ったんだろう。

でも同時に、“近づけたくない場所”があることも伝わってきた。


「蒼耀様って」


私は少しだけ迷ってから聞いた。


「そんなに怖い人なの?」


紬はすぐには答えなかった。

それから、やっぱり困ったように少しだけ眉を下げる。


「怖い、って言い方が合ってるかはわからない」


「じゃあ、どんな人?」


「……燈ちゃんが今、屋敷で普通に過ごせてるのって、雲仙様が“ここにいていい”って言ってくれたからでしょ」


「うん」


「蒼耀様は、そういう“いていい”を簡単には言わない人だよ」


私は小さく息を呑んだ。


それは、怒鳴るとか、殴るとか、そういうわかりやすい怖さじゃない。

でも、ずっとずっと拒まれる方がつらいことだってある。


「白嶺は……平気かな」


口にしてから、自分で驚いた。

私はたぶん、白嶺が苦手だった。綺麗で、冷たそうで、何を考えているかわからなくて。けれど今は、その人が少しでも嫌な思いをしているかもしれないと考えるだけで、胸のあたりが変に落ち着かなかった。


紬はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。


「平気じゃなくても、平気な顔して帰ってくると思う」


「それ、平気じゃないってことじゃない?」


「そうだね」


紬は苦笑する。


「たぶん、そう」


部屋の外を風が通っていく。

障子の向こうで葉が鳴る音がした。


私は畳の上に座ったまま、自分の膝を見た。

呼ばれる。父に。

それだけで空気が変わる。


私には、まだよくわからない。

でも“よくわからない”ままでも、いやな感じだけは胸に残った。


「燈ちゃん」


紬が少しだけ声をやわらげる。


「気になるのはわかるけど、今は待つしかないよ」


「……うん」


「白嶺、こういう時に誰かに口を出されるの、たぶん好きじゃないから」


それも、なんとなくわかった。


助けてほしいって顔をする人じゃない。

たぶん、自分の中に押し込める方を選ぶ。


私は小さく頷いたけれど、そのあともしばらく落ち着かなかった。


紬が気を遣って、お茶を淹れてくれたり、使っていい回廊のことをもう一度教えてくれたりしたけれど、耳に入るのは半分くらいだった。

頭の中では、まだ見たこともない蒼耀という名前と、白嶺の固くなる空気ばかりが結びついていた。





昼を過ぎても、白嶺は戻ってこなかった。


私は部屋にじっとしているのも落ち着かなくて、紬に断って、客間の区画の中を少しだけ歩いた。

迷わないようにと何度も教えられた回廊。見慣れてきた庭。行き交う傀儡たち。昨日までより怖くなくなったそれらが、今日はまた少しだけ知らないものみたいに感じる。


“近づくな”と言われた場所には行かなかった。

でも、行かないからといって気にならなくなるわけじゃない。むしろ見えないところで何かが起きているんだと思うと、余計にそわそわした。


中庭の縁側で膝を抱えるようにして座っていると、椿がやってきた。


「そんな顔してどうしたんだい」


私は顔を上げた。

椿はいつも通りみたいに見えたけれど、その眉のあいだにはうっすらしわが寄っていた。


「……別に」


「別に、じゃないだろ」


椿は私の隣へどかっと座る。


「紬から聞いたよ。白嶺のこと、気にしてんだろ」


そう言われて、私は少しだけ言葉に詰まった。


「だって、紬くんが、空気が変わったって」


「変わっただろうね」


椿は遠くを見るみたいに言う。


「蒼耀に呼ばれて、何ともない顔してられる方が変さ」


「そんなに嫌な相手なの?」


椿はすぐには答えなかった。


代わりに、少しだけ大きく息を吐く。


「あたしは嫌いだよ」


その答えはあまりにもはっきりしていて、私は思わず椿の横顔を見た。


「白嶺の父親だから、ってだけじゃない」


椿の声は低かった。


「話し方は上品だし、怒鳴ったりもしない。けど、ああいうのが一番厄介なんだ。切る時に笑ってるやつっているだろ」


「……怖いこと言うね」


「実際そういう手合いさ」


椿は腕を組んで、足を投げ出した。


「白嶺はあんまり言わないけどね。蒼耀の前だと、あいつ、昔の癖が戻る」


「昔の癖?」


椿は少しだけ眉を寄せた。

言いすぎたかな、という顔だった。


「……あいつんとこ、天狗の中でも特に上下がきつい家でさ」


そこで言葉を切る。


「父親の言うことは絶対。逆らうな、従え、間違ってても口を挟むな。そういうのを、ちっさい頃からきっちり叩き込まれてきた」


私は息を止めた。


白嶺のことを、私は今まで“できる人”として見ていた。冷静で、言葉もきれいで、いつも落ち着いていて、隙がない。

でも、それが最初からそういう人だったからじゃなくて、そうならないと駄目だったからだとしたら。


「……だから、あんまり言い返さないの?」


椿は鼻を鳴らした。


「言い返せないわけじゃない。今の白嶺は、昔のガキじゃないからね」


「でも」


「でも、染みついたもんってのは厄介だろ」


その言い方に、私は何も言えなくなった。


私にも、怖いと体が先に固まる感じがある。

頭ではもう大丈夫だと思っていても、びくっとしてしまう。あれと似たようなものかもしれない。


「椿は、平気なの?」


聞くと、椿は少しだけ笑った。

でもその笑い方は、いつもの明るいものじゃなかった。


「あたしかい?」


「そう。そういう……昔のこととか」


「平気じゃないさ」


あっさりと言う。


「平気じゃないけど、あたしは殴り返してここまで来ただけだよ」


私は黙った。


椿らしい答えだった。

でも、その言葉の中にも、きっと私の知らない痛みがたくさん混ざっている。


「白嶺はね」


椿が続ける。


「殴る代わりに、飲み込んできたんだろうさ」


風が吹く。

庭の木が揺れる。

それだけの音なのに、胸の奥が少し痛んだ。


「……戻ってきたら、何て声かければいいんだろ」


気づいたら、そう言っていた。


椿は一瞬だけ目を丸くする。

それから、少しだけ口元をやわらげた。


「別に、無理に何か言わなくていいよ」


「でも」


「白嶺が欲しいのは、たぶん慰めじゃない」


「じゃあ何?」


「いつも通りじゃないかね」


椿はそう言って、縁側の柱に背を預けた。


「変に気を遣われると、あいつ余計に固まるよ」


「……難しい」


「難しいねえ」


椿は笑った。


「でもまあ、燈はそのままでいいんじゃないかい」


「そのまま?」


「うん。あんた、変に格好つけようとすると、すぐ顔に出るし」


「それ、褒めてないよね」


「褒めてない」


そう言い切られて、私は少しだけむっとする。

でも椿はすぐに付け足した。


「けど、そういうの、あいつには案外いいかもね」


その言い方が妙に落ち着いていて、私はそれ以上何も言えなかった。


それから少しして、紬もやってきた。


「二人ともこんなところにいたんだ」


「そっちこそ」


椿が言う。


「白嶺、まだ戻らないのかい」


「うん」


紬は少しだけ表情を曇らせる。


「長いね」


「長い」


椿の声が低くなる。


私は二人の顔を見比べた。

紬は心配そうで、椿は苛立っている。どちらも強い感情なのに、向いている先が少し違う気がした。


「蒼耀様って」


紬が静かに言う。


「相手を傷つける時、正面から怒鳴る人じゃないから」


「余計にたちが悪いんだよ」


椿がすぐに言う。


「相手の逃げ道だけきれいに潰してくる」


その言い方に、私は急に寒くなった気がした。


叫ばれるより、殴られるより、逃げ道をなくされる方が怖いこともある。

ましてそれが父親なら、なおさらだ。


私たちはそのあと、しばらく何も話さなかった。

誰かが来るたびに無意識にそちらを見たけれど、白嶺はなかなか現れなかった。





白嶺が戻ってきたのは、日がだいぶ傾いてからだった。


最初に気づいたのは椿だった。


「……来た」


その一言に、私も紬も同時に顔を上げる。


回廊の向こうを、白い翼が静かに近づいてくる。

足取りは乱れていない。服も髪も乱れていない。いつも通りの白嶺だ。そう見えるはずなのに、近づいてくるにつれて、胸の奥が少しずつ重くなった。


やっぱり、何かが違う。


白嶺は私たちの前まで来ると、足を止めた。


「ここにいたのか」


声は静かだった。

でも、静かすぎた。


温度がないわけじゃない。けれど、私が知っている白嶺よりも、一段深く閉じている感じがした。


「遅かったね」


椿が言う。


「ああ」


白嶺はそれだけ答える。


「……何かあったのかい」


椿の声が、少しだけ鋭くなる。


「別に」


「別に、で済ませる顔じゃないだろ」


「顔に出ているつもりはない」


「出てるよ」


椿はぴしゃりと言った。


白嶺は少しだけ目を細めた。

でも怒り返したりはしない。ただ、それ以上その話をしたくないと言うみたいに、視線をそらす。


その様子を見て、紬がそっと立ち上がった。


「お茶、淹れてくるよ」


それはたぶん、この場の空気を少しだけ変えようとしたんだと思う。

けれど白嶺は首を振った。


「いい」


「でも」


「いらない」


強い言い方ではない。

でも、はっきりとした拒絶だった。


紬の手が少しだけ止まる。


私は、心臓が変な音を立てるのを感じていた。


こういう時、何て言えばいいのかわからない。

椿は怒っている。紬は困っている。白嶺は閉じている。私はそのあいだで、ただ言葉を探してばかりいる。


「……白嶺」


呼んだのは、私だった。


三人の視線が一斉にこっちを向く。

自分でもびっくりした。


「なに」


白嶺が言う。

その返事は短かったけれど、ちゃんと私に向けられていた。


私は少しだけ迷ってから、ほんとうに思ったままのことを口にした。


「おつかれさま」


言ったあとで、変だったかなと思った。

そんな言葉で何になるんだろう、と自分でも思う。


でも白嶺は、すぐには何も言わなかった。


ほんの一瞬だけ、目を見開いた気がした。

それからゆっくりと、息を吐く。


「……そうだな」


その声はさっきより少しだけやわらいでいた。


椿がその変化に気づいたのか、眉を上げる。

紬も同じように目を丸くしていた。


私は少しだけほっとして、でも何を続けていいかわからなくて、結局膝の上の手を握りなおした。


白嶺は私たちを見渡してから、縁側の柱にもたれるように立った。

座るでもなく、去るでもなく、そこにいることを選んだみたいだった。


「蒼耀様は……」


紬が慎重に口を開く。


「何か、仰ってた?」


「いつも通りだ」


白嶺は答える。


「回りくどく、無駄がなく、遠回しに逃げ道を潰してくる」


「やっぱりね」


椿が吐き捨てるように言う。


白嶺はその言葉を否定しなかった。


「私のことも、知ってるの?」


そう聞くと、白嶺は一瞬だけ黙った。


「知っている」


その答えだけで、背筋に冷たいものが走る。


「どこまでかはわからない。だが、少なくとも“人間の子が屋敷にいる”ことは知っている」


私は思わず膝を抱えたくなった。

雲仙様に守られているから大丈夫だと思いたい。でも、“知られている”というだけで、また自分が誰かに見られているものになる感じがしてしまう。


「……利用する気かね」


椿が低く言う。


その問いに、白嶺は少しだけ視線を落とした。


「可能ならそうするだろう」


あまりにもあっさりした答えだった。


椿が舌打ちする。

紬も小さく息を呑んだ。


私は何も言えなかった。

利用する。人を。私を。そういう言葉が、白嶺の父の話として当たり前みたいに出てくることが、どうしようもなく怖かった。


「だからこそ、君を近づけたくなかった」


白嶺が私を見る。


「今日、屋敷の奥へ行くなと言ったのはそのためだ」


「……うん」


私は小さく頷く。


その言葉が、命令じゃなくて守ろうとするものだと、今はちゃんとわかった。


「けれど」


白嶺の声が少しだけ低くなる。


「このまま隠して済むとも思っていない」


その言葉に、場の空気がまた張る。


椿がすぐに反応した。


「だったら尚更、蒼耀に好き勝手させるわけにはいかないね」


「わかっている」


「わかってる顔じゃないだろ」


「椿」


「何だい」


「今はやめろ」


白嶺の声は大きくなかった。

でも、その一言に、私はぞくっとした。


怒鳴ったわけじゃない。

けれど、そこにあったのは、普段の冷静さとは少し違う、ぎりぎりの張りつめた音だった。


椿もそれを感じたのか、一瞬だけ口を閉ざす。


白嶺はそのまま視線を逸らした。

そして、何も言わなくなった。


その沈黙の意味を、私はたぶん、少しだけわかった。


本気で怒ると口を利かなくなる。

前に聞いたその話を、私は今ようやく実感として理解した気がした。


紬がそっと間に入る。


「……今日は、もうやめよう」


やわらかい声だった。

でも、そのやわらかさがなければこの場はうまくほどけなかったと思う。


「白嶺も、疲れてるでしょ」


「疲れていない」


「そういう答え方の時は、だいたい疲れてるんだよ」


紬が言うと、白嶺は少しだけ目を閉じた。

否定もしない。その代わり、肩からほんの少しだけ力が抜けたように見えた。


椿が低く息を吐く。


「……今日はもう突っつかないよ」


その言い方も、椿なりの譲り方なのだとわかった。


私は三人の顔を見て、それから白嶺を見た。


父親に呼ばれて帰ってきた白嶺は、やっぱりいつもと違う。

でも、その違いはただ怖いだけじゃなかった。そこには、私の知らない長い時間があって、今の白嶺を形づくっているのだと思えた。


「白嶺」


もう一度、私はその名を呼ぶ。


白嶺がこちらを見る。


「……何か、できることある?」


言ってから、また変なことを聞いた気がした。

でも本当に、そう思った。


白嶺はしばらく黙って、それからほんの少しだけ口元をゆるめた。


「そうだな」


その声は、さっきよりも少しだけ元に戻っていた。


「いつも通りでいてくれ」


私は目を瞬いた。


「それだけでいいの?」


「難しいことの方が困る」


そう言われると、少しだけ笑ってしまう。


「それなら……できる、かも」


「なら十分だ」


そのやりとりを聞いて、椿が小さく鼻を鳴らした。


「やっぱり燈には甘いじゃないか」


「君に言われたくない」


すぐにそう返せたのを見て、紬がほっとしたように笑う。


風が吹いた。

庭の木が揺れ、水面がかすかに波立つ。


題名も知らないこの風が、どこから来てどこへ向かうのか、私にはまだわからない。

でも少なくとも今は、白嶺の中の風が、少しだけこちらへ戻ってきた気がした。

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