表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

1. Ihr Kampf (1/4)

……「カラッカラッカラッカラッ……」


タイプライターの音が、まるで銃声のようにコンクリートの壁に反響し、部屋の静寂を切り裂く。


「クルツシュタット 1203 移送 ― 再定住施設

 シャフトドルフ 2404 残留人員なし ― 処理完了

 ヴィーバーベルク 432 移送 ― 再定住施設」――チン


まるで小銃の薬莢が排出されるかのように、紙の行が変わる。

もしかすると、このタイプライターのレバーは銃よりも残酷なのかもしれない。


――けれど、そんな思考は、私の白い頭の中では不要なノイズに過ぎない。


狂ってしまいそうなほどに美しいこの世界に生まれて、十七年。

まだ身長も150センチに届かない小柄な少女が、帝国大学を卒業し、この仕事を始めてから五ヶ月。


……その頃からだろうか。


書類の上で踊る数字たちが、時折、私を睨みつけてくるように感じる。


100kmだろか。いや、400kmかも知らない。

遠くから聞こえてくる怨嗟の声――呪いのような声が、私を責め立てるように押し寄せる。


満ち潮の波のように、私の思考へと流れ込もうとするそれらを、

私は死海の果ての塩のように、ゆっくりと流していく。


そうして、塩気を含んだ海水のように流れていく一日を、

銀髪の少女、セリーネは過ごしている。




Erste.


最初に思い浮かんだのは――恐怖だった。


根源的な恐怖。

それはブラックホールのように、事象の地平線の向こうへと、私の自我を引きずり込む。


この身体で、この皮膚で、初めて感じた感覚。

そして、おそらく最後に感じた感覚と同じもの。


――痛み。


今の私の解釈では、それはきっと臍の緒を断ち切られた瞬間だったのではないか、と。

ぼんやりと、そう思う。


温かく包まれていた雲が裂け、そのまま断崖の下へと落とされるような感覚だった。


その後、私が自我を取り戻したのは、その痛みが過ぎ去ってから一年後。

正確には――一年と二ヶ月と三日。


私は確かに死んだ。

間違いなく、死んでいた。


十八年間の命が途切れ、私は温かいアスファルトの上と自由のキスを交わした。


……その結果が、これだ。

あまりにも釣り合わない結果ではないだろうか、と、私は密かに思う。


では、なぜそんな選択をしたのか。

言い訳にもならない言い訳を、ここでしてみよう。


 ――あなたは、自分の人生がファラリスの雄牛の中で、少しずつ焼かれていく罪人のようだと感じたことがあるだろうか。


私の人生は、概ねそんなものだった。


その中の罪人のように、欲に満ちた壺のような人生を送り、

後悔ばかりを積み重ね、

そうやって生き方を浪費してきたことが――


ただ、ただ、恐ろしかった。


けれど、この世界に来ても。

新しい人生になっても。


私は、うまく生きていけるのだろうか。


一度、自分で吹き消してしまった蝋燭に、もう一度火を灯そうとするようなものだ。

言葉にすれば、簡単に聞こえるけれど。


私が初めて“考える”ということをできるようになった頃――


私は、もう一度飛び降りた。


人生で二度目。

いや、この生では一度目、か。


卵から孵ったばかりの雛が、巣から落ちる。

その小さな身体で。


よだかのように――お日様に向かって。


――――


 ――その小さな寸劇を見て、お日様は静かに言いました。


「また、難しい言葉を並べて、自分のしたことに理由をつけるつもりですか?」


その声は、やさしくて、けれど逃げ場のないものでした。


その瞬間、胸の奥で小さな棘のような苛立ちが、ちくりと痛みます。

それを隠すこともできずに、私は口を開きました。


「……では、ひとつ、教えてください」


少しだけ震える声で、そう言います。


「どうして、一度すべてを手放した人間を、

 またこんな場所へ連れてきたのですか?」


するとお日様は、少しだけ強い光を帯びて、答えました。


「自分の足で、歩き直すべきだとは思いませんか」


その言葉は、あたたかくて、けれど逃げることのできない重さを持っていました。


「命を投げ出してしまう人は、今の世の中にはたくさんいます。

 けれど――


 あなたのように、理由もなく考えに沈み、

 自分の欲や弱さに負けて、

 誰かを責め、そして自分を責めて、


 “生きること”そのものを、そっと手放してしまった人には――

 伝えておきたいことがあるのです」


――ああ。


それは、とても静かに、けれど確かに胸の奥へ届きました。


言い当てられてしまったのです。


特別に不幸だったわけでもなく、

寒さに震えるような暮らしをしていたわけでもなく、

大きな病に苦しんでいたわけでもない。


それなのに――


すべてを抱えきれないふりをして、

差し伸べられていた手を振り払い、

静かに逃げ出してしまった。


そんな、臆病な人間だったのです。


だから私は、何も言えませんでした。


「それを“罪”だなんて、大げさに考えなくてもいいのですよ。

 あなたは、取り返しのつかないことをしたわけではありませんから。


 ――少しだけ、にぎやかな場所を離れて、

 静かな田舎道を歩いている。


 そう思えば、それでいいのです」


田舎道の、おだやかな散歩。


今でも、それは的確な言葉だったと思えました。


この世界で出会った家族は、

驚くほどやさしくて、あたたかくて、


満ち足りた日々は、どこか昔の記憶と似ています。


違うものがあるとすれば――

それは、流れている時代くらいでしょうか。


やがて、やさしすぎるお日様は、静かに空の向こうへ去っていきました。


そして――


あのとき、今にも落ちてしまいそうだった私の足は、

気がつけば、そっと止められていました。


それは、自分の力ではなく、

重い鎖に足をそっと包まれているよな。

なんてありがたいことでしょう。


めでたしめでたし。



こうして、私の物語は、

急な坂道を下りるのではなく、


ゆるやかな曲線を描きながら、

静かに続いていくことになったのです。

――――


Zweite.

――国家安全保障局(NSD)第一局 行政事務室


私は、自分の手を通っていく人間たちに、同情を抱かない。

自業自得――そういうものだ。


国家と国家の外交関係において、被害を受けた側は、加害国とその国民にどんな感情を抱くのか。


最初に芽生えるのは――憎悪だ。


ウンターどもは、四十年以上にわたって我々を蹂躙してきた。

経済を侵食し、資源を奪い、

外交の場でも、彼らの“外交官”がまともな言葉を発した試しがない。


一言一句が新聞の見出しになり、酒場の議論の種になる。


そして――彼らの国民性は、救いようがないほどに低劣だ。

観光客という肩書きを持った、ただの海賊。


そんな連中を、どうして我々の隣に置いておけるというのか。


一部の専門家や活動家は、決まってこう言う。


「一部の問題を、全体の問題としてはいけない」


――ならば、こう返してやりたい。


「その“一部”が多すぎた場合は、どうする?」


あいつらの偽善は、反吐が出るほど不快だ。

自分たちは安全な場所で、のうのうと生きているくせに――


「――バンッ」


薄い木製のドアが、激しく開かれる。


その瞬間、頭の中で続いていた議論は途切れ、

部屋のタイプライターの音も止まった。


最初に目に入ったのは、黒い菱形のパッチ。


そこには、はっきりとこう書かれていた。


――SHD(Sicherheitsdienst)


なぜ保安局がこんな場所に来たのか。

入って五ヶ月の新人である私には、理解できなかった。


黒い制服の男が、静かに口を開く。


「赤い裏切り者野郎を捕まえに来た」


――田舎での散歩は、終わりを迎えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ