第十一話 風は心を運ぶ 〜終章〜
疾走する馬のたてがみをかすめる冬風が、ふと黄昏月のざわめきを思い起こさせた。
セリーヌは、アランディルの婚約者候補から逃れる具体的な行動は何もできなかった。
どう逃れようかと悩んだ。嫌って欲しいと願いながら、訪問を受け入れるしかなかった。
労せずして、婚約者候補から外された。
そこにエルミージュの暗躍があったということを後で知り、涙した。
婚約者候補であった頃、セリーヌはアランディルの待つガゼボに向かう途中、彼を窓から見かけていた。
その時の彼は、他者を痛めつけることが喜びなのかと思える平素とはかけ離れた、柔らかな笑顔を浮かべていた。
セリーヌは、下位貴族の令嬢たちが褒めるほど、彼をかっこいいと思ったことはない。
けれど、いつ頃からか、セリーヌを待つアランディルは、とても穏やかな笑みを浮かべるようになっていた。
独りで微笑んでいる姿を見て——何を空想しているのだろう、と不思議に思った。
青藍の間で、彼のエルミージュへの独白劇を見せられたとき、ガゼボの情景が思い起こされた。
そして、セリーヌには視えないエルミージュと、本当に会えていたのだと彼女は瞬時に理解した。
エルミージュと接する人たちは、みんなあんな顔をしていたからだ。
穏やかな顔で、いつも笑い声が絶えなかった。
みんな、エルミージュに様々な話を聞いてもらいたがっていた。
そんな過去の情景が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。
けれど、あの時セリーヌは
——わたくしは優しくなどない。
エルミージュの存在が、「真実でしたよ」なんて、教えてやらないわ。
あなたなどに渡してなるものですか……
と、ささやかな意趣返しをしたのだった。
それでも、エルミージュがこの世界の者としてアランディルと出会っていたら、婚約者だったら……五年前の、あの出来事さえなかったら。
あんな笑顔を引き出せた彼女であれば、アランディルは変われたかもしれない。
あれほど自己愛が強いアランディルも、彼が耳を傾けることのできる相手からの言葉であれば、己を省みて、より良き方向へ自らを変えていけたのではないか?
王族として、人を統べる立場を、全うできる内面へと成長できたのではないか?
と、考えても仕方のないことを思ってしまった。
人と人との出会いは貴重だ。良くも悪くも作用する。
セリーヌの心はいま回復途中にある。
一体どれだけのものを失っていたのだろう。甘みも感じるようになってきている。
あの日、蔵書閣で、あの本に出会わなければ……雷に打たれたように気づけなければ、今の自分はここにはいないと、不思議さに震えがくる。
あれは、間違いなくエルミージュの仕業だろう。
おそらくエルミージュが、伝えていたのは、
—— あなたは、だめなんかじゃないわ。本来の自分を思い出して、取り戻して。
本当にどうして自分は駄目だと思ってしまっていたのだろう。
わたくしなんてって考える性格ではなかったのに、とセリーヌは思った。
アランディルからの、「お前は駄目だ」という言葉の呪縛が解けたセリーヌは、緑の風が吹く中、エルミージュとの想い出の地へ、リオネルと共に愛馬を走らせた。
「待ちなさいリオネル。わたくしの前を走るなんて」
リオネルは不敵な笑みを浮かべていた。
あの鈴のような音が、シャンシャンと嬉しそうに鳴り響く。
—— なあに? エルミージュ とセリーヌは囁きかけた。




