第十話 【回想】鈴の音は心をほどく 〜再生の兆し〜 ※微モラハラあり
※この章にはモラハラ描写が一部あります。 ご注意下さい。
セリーヌの頑張りすぎた混沌の日々が過ぎ去った。
魔導具開発院を退職してから、セリーヌはほとんど邸の外に出なくなった。
朝、カーテンの隙間から光が差しても、彼女のまぶたは重いままだ。
机の上には、飲みかけの紅茶。ページを開いたままの本。
どちらも、数日前から動いていない。
何かをしようとしても、力が出ない。
小さなことでも涙が出て、理由もなく自分を責めてしまう。
逃げたのかもしれない……もう少しだけ頑張れたはずなのに、とセリーヌは心の奥で思う。
そんな考えが浮かんでは消えるのを繰り返し、心の奥がざらざらと痛んだ。
「わたくしはダメなんだ」と思う声が、何度も頭の中で反響する。
けれど、誰も彼女を責めることはなかった。
使用人たちは、彼女をそっと見守り、弟のリオネルも以前と変わらぬ態度で接していた。
その優しささえ、セリーヌには苦しかった。
ある日の午後。
窓の外に降る光を眺めていたセリーヌは、ふと立ち上がった。
足は自然と、長らく訪れていなかった蔵書閣へ向かっていた。
ここは、セリーヌの姉エルミージュがよく居た場所だ。
扉を開けると、エルミージュがいつも座っていた場所があった。
窓から差し込む光で、ステンドグラスが姉を照らす。
光の中で、本を読む姉の邪魔ばかりしていた過去の情景が想い起こされた。
今は扉を開けても、華が咲き誇るような笑顔で迎えてくれていた姉は居ない。
心が冷える……立っていられない想いを抱きながらも、セリーヌはなぜか中に入っていった。
薄暗い部屋には、古い紙とインクの匂いが漂っていた。
背の高い本棚が静かに並び、時の止まったような空気が満ちている。
彼女は何冊かを手に取り、パラパラとページをめくった。
けれど、文字は目の前を素通りしていくばかりで、内容は頭に入らない。
もう帰ろう、と本を棚に戻そうとしたときだった。
——シャン。
かすかな鈴のような音が、どこかで鳴った。
耳を疑うほど小さな音。それでも確かに、空気を震わせた。
同時に、棚の上から一冊の本が落ち、セリーヌの頭に軽く当たった。
「いたっ……」
反射的に手を伸ばし、落ちた本を拾う。
古びた装丁で、題名は擦れて読めなかった。
何気なくページをめくると、そこには一人の女性の話が書かれていた。
夫から心を支配され、支配に気付かず逃げ出すこともできずに生きていた女性の物語。
夫は、外では完璧な紳士だった。
「君のため」「君はダメだね」と言いながら、彼女の選択を奪い、否定する。
そのたびに、彼女は自分が悪いのだと思い込んでいった。
けれど、ある友人が差し伸べた手によって、彼女はようやく気づき逃げ出した。
ページの最後には、ただ一行。
『彼女は、ようやく自分を取り戻した』
セリーヌの視界が滲んだ。
胸の奥で、何かが壊れていくような、溶けていくような感覚がした。
(わたくしも、同じだわ)
声にならない言葉が、喉の奥で震えた。
無意識のうちに、アランディルの言葉に縛られていた。
お前はダメだ、できて当たり前、何ができるんだ?
そんな言葉の呪縛に、無意識に囚われていたのだ。
ポタリと涙が落ちた。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
心の氷が、少しずつ溶けていく音がした。
(わたくしはダメなんかじゃなかった……今すぐ逃げなさいということだったのね)
その日を境に、セリーヌの時間はゆっくりと動き出した。
庭に出て陽を浴びることも増え、紅茶の香りにも気づくようになった。
口に運んだお菓子の甘さも感じることができ、久しぶりに心まで沁み渡る。
それでも、ときどき「わたくしなんて」と呟きそうになる。
そんなときは、深呼吸をして思う——今日は少し疲れているだけだと。
その午後、窓を開けると、風がカーテンを揺らした。
シャ——ン。
また、鈴のような音が聞こえた気がした。
後日。以前なら恐怖で震えただろう通達の知らせも、今のセリーヌは一瞬息を整えるだけで受け止められた。
王宮からの通達が届く――その内容に、思わず手にしていた扇をバキッと折る羽目になるのだった。
やっと関わりを絶ったアランディル第三王子の婚約破棄候補として招請されてしまった。




