第三章
あれは春の猛風が街を叩きつけるように吹く夜のことであった。
夜の闇を切り裂くように、「火事だ!」という怒鳴り声が、ボロ下宿の薄い壁を通し俺の耳に届いた。起き上がり入口の戸を開けてみると、暗いはずの夜空が紅く染まり、辺りには煙が立ち込め、その匂いが鼻を突いた。何かの燃えさしが明るく火を放ちながらバラバラと頭上を飛び越えていくのを見て、俺は深刻な事態になりつつあることを理解した。
後の調べでは、街の南西部にある旅籠が火元だったようだ。夕餉の火の始末をしくじったことが原因らしい。
火は風に煽られて瞬く間に大きくなり、近隣の藁やら小屋やらに燃え移り火の粉を上空に撒き散らすと、火の粉の降って来た家々の屋根は同時に発火した。火災は風下に向けて扇形に街を舐め尽くし、逃げ惑う人々を焼き殺し、煙に巻いて息を詰まらせ殺した。逃げる先に火の粉が空を飛んで新たな火事を発生させ群衆を挟み撃ちにすると、路上は揉み合いになり、押し倒され踏み殺された者も少なからずいた。
大通りも例外でなく、家財を満載した車が貴族の屋敷から次々と押し出され、深刻な渋滞を引き起こした。我先にと割り込む荷車が後をたたず、あちこちで怒声が響き、殴り合いが発生した。普段の礼節は剥ぎ取られ、目を釣り上がらせた貴族達が車の合間を縫い、他人を掻き分けて北の方角に逃げてゆく。中には女の元にでもいたのか、裸に女物の着物を引っ掛けたまま、裸足でかけて行く男も見えた。当然、乱れた髪はそのままに、帽子も載せていない。火の手が大通りに及ぶと、逃げ遅れ荷車の下に避難していた女子供や、足腰の萎えた老貴族をそのまま蒸し焼きにして殺した。火の粉が着物の裾に取り付き、たちまち燃え上がった女は、金切り声を上げてのたうち回り、髪の焼ける匂いが立ち込める頃には静かに身を縮めると動かなくなった。
夢でも見ているかのような遊離感の中で、俺は恐怖と共に何故か開放感のようなものも感じている自分を認識した。それは生命の危機に晒されたものに特有の一時的な高揚感であったのかも知れない。あるいは、虚構を重ねた世の中が滅びることを、どこかで願う心があったからなのかも知れない。
朝日が昇り、避難していた井戸端の石垣の隙間から抜け出してみると、見渡す限りの焼け野原が朝日を紅く反射し、鴨川までの眺望が開けていた。アオサギが飛ぶ向こうに、比叡の山が遮るものなく見通せた。
ボロ下宿は梁すら残さず崩れ、炭化した柱がまばらに立っている。煤だらけの身体で役所に向かう道すがら、焼け死んだ死体があちこちに残されていた。呆然とうずくまる生存者もいた。
喉の渇きと空腹を覚えながら勤め先に来てみれば、こちらも例外なく焼け落ちている。街並みが変わったので道を間違えたのかも知れないとも思ったが、足元に見覚えのある品々ー筆や硯などーが散乱し、間違いなくそれと知れた。俺たちの仕事である粉飾帳簿も風に舞う煤と化した訳だが、これは却ってすっきりした。
春鳥の音のみ泣きつつあぢさはふ夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ悲しび別る




