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虚ろなる食餌  作者: つぶり


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第二章

 その少し前から、「上の方が騒がしい」という噂が立っていた。どこそこで誰かが失脚しただの、新しい役職ができただの、人々の口にのぼる話はいつも曖昧で尻すぼみだったが、今回はどうやら俺たちの机の上にまで影を落としていた。

 最初に違和を覚えたのは、役所の門でのことだ。これまでは番人の爺が居眠りをしているばかりで、俺たちは好き勝手に出入りしていた。ところがある朝、見慣れぬ連中が二人、門の前に立っていた。腰にこれ見よがしに武器を下げ、肩で風を切るように歩く、粗野で野暮ったい田舎者たちである。

 彼らは俺たちを品定めするように眺め、何も言わずに通す。どういう権限で立っているのかと尋ねた同僚が、鼻で笑われていた。

「上からの命でな。口出しするでない。」

「上」とは誰か、誰も知らない。名も顔もないまま、ただ「上」として通用する得体の知れぬ存在――それがこの役所を支配し始めていた。

 ほどなくして、連中は役所の中にも踏み込むようになった。ある日、上司の奴がいつものように口元を隠して笑いながら、「お役目ご苦労なことじゃな」とその軍人に話しかけた。おそらく機嫌を取るつもりだったのだろう。だが軍人の一人が机を拳で叩き、「馴れ馴れしく口を利くな。身の程を弁えよ」と怒鳴った。上司の顔は蒼ざめ、女のような笑い声は喉の奥に引っ込んだまま二度と出てこなかった。

 また別の日の朝には、例の連中が役所の奥までずかずかと入り込み、帳簿の保管庫を開け放っていた。泥に濡れた足袋のまま床を踏み、竹刀のような武器で棚を突き回す。埃が舞い、古い紙の匂いが鼻を刺した。

その光景を見たとき、胸の底にざらりとした痛みが走った。俺の祖父の代まで、屋敷にこのような男たちが踏み込むことなどなかった。客といえば文人や貴族筋ばかりで、下座に腰を下ろすときでさえ、衣の皺や膝の角度、扇の向け方までに気を配った。それが「人」である証だった。

 だがいま、目の前の男たちはどうだ。酒臭い息を吐き、帳簿を放り投げ、爪の間の泥を鞘の先でほじくっている。ひとりなどは筆洗いの水で手をすすぎ、「冷てぇ」と笑っていた。その笑い声が、あの頃の静謐で洗練された空気を打ち砕く音のように感じられ、堪らなくなった。

 俺は不用意に声をかけてしまった。

「お手をお清めになってからお取り扱いを……」

言い終えるか否かのうちに、ひとりが低く唸った。

「何だと?」

その目の血走った様を見た瞬間、背筋が凍った。

「お主は、“上”に口を出すつもりか」

「あ、いえ……帳簿が汚れてしまいますので」

「紙切れごときが何だ。国の金じゃ、俺らの命より軽いわ」

 鈍く響く笑い声とともに、机が蹴り上げられた。筆が飛び散り、白い帳面に墨の黒い斑点が散らばった。俺は立ち上がろうとして、自分の膝が震えているのに気づいた。

 貴族の作法では、怒りも喜びも所作の中に沈める。それが人の品格であり、国家の形そのものだと信じてきた。けれど、ここにあるのは理ではなく、ただの力だった。

 その日を境に、筆を持つ手つきまでもぎこちなくなった。墨の匂いが、あの日の泥の臭気と混ざり合い、胸を痛く刺し続けている。


世の中はなにか常なる 飛鳥川きのふの淵ぞけふは瀬になる


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