二人の充実した世界
「秘密基地」での逢瀬と、毎晩の長い電話。
秘密の関係は、いつしか二人の「日常」になっていた。学校で無関心を装うことへの胸の痛みは、放課後の幸福感をより一層甘美なものに変えるスパイスのようなものだと、葵は思えるようになっていた。
その日のデートは、水族館だった。
悠真が「たまには、ちゃんとデートっぽいことするか」と、電話の向こうで少し照れくさそうに提案してくれたのだ。
改札の前で待ち合わせると、悠真はもう着いていた。黒のパーカーにジーンズというシンプルな格好が、彼の整った顔立ちを際立たせている。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たとこ」
お決まりの台詞を言って、彼はふっと笑う。その笑顔だけで、葵の世界は色鮮やかに輝き出す。
薄暗い館内は、幻想的な青い光に満ちていた。巨大な水槽の中を、大小さまざまな魚たちが悠然と泳いでいる。周りには他のカップルや家族連れもいるのに、悠真の隣を歩いていると、まるで世界に二人きりしかいないような感覚に陥った。
「見て、悠真。あそこの魚、面白い顔してる」
「ほんとだ。お前みたいに、口がずっと半開き」
「ひどい!」
葵が軽く彼の腕を叩くと、悠真は楽しそうに笑う。こんな風に、他愛もないことで笑い合える時間が、葵は何よりも好きだった。
クラゲが漂う、特に暗いエリアに差し掛かった時だった。ふわり、と悠真の指が葵の指に絡められる。驚いて彼を見ると、彼は水槽に視線を向けたまま、聞こえないくらいの声で呟いた。
「暗いから、誰も見えないだろ」
それは、秘密の関係を続ける二人なりの、精一杯の甘え方だった。繋がれた手のひらから、彼の体温がじんわりと伝わってくる。それだけで、言葉はいらなかった。
順路の終わりにあるカフェで、ジュースを飲みながら少し休憩する。窓の外には、海が広がっていた。
「葵はさ、将来どうすんの」
不意に、悠真がそんなことを聞いた。
「将来? うーん……」
考えたこともなかったわけではない。でも、誰かに真剣に話したことはなかった。
「本が好きだから、本屋さんとか、図書館の司書さんとか……憧れるかな。悠真は?」
「俺は、建築士」
少し意外な答えだった。
「家、作るの?」
「まあな。親父が大工だから、小さい頃から現場見てて。最初は反発してたけど、結局、同じような道選んでる」
いつもはあまり自分のことを話さない彼が、家族のことや、将来の夢を話してくれている。その事実が、葵の心を温かくした。私たちは、ただ秘密を共有しているだけじゃない。お互いの内面を、ちゃんと見つめ合っている。
帰り道、夕日に染まる駅のホームで、並んで電車を待つ。
「今日の夜、電話する」
「うん、待ってる」
当たり前になった約束を交わす。電車が滑り込んできて、ドアが開く。二人は違う車両に乗り込むために、ここで別れる。
「じゃあ、また明日」
悠真が、学校の友達に向けるのと同じ、素っ気ない口調で言った。葵も、クラスメートに返すように、明るく手を振る。
「うん、また明日ね」
周りの誰も、二人が恋人同士だなんて夢にも思わないだろう。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。窓の外で、悠真の姿が遠ざかっていく。
それでも、もう不安はなかった。
離れている時間も、私たちの心を繋いでいる。秘密を抱えたこの日常こそが、私たちの、何にも代えがたい「幸せ」なのだと、確信できたから。




