既葬本能
死んだことがある気がする。
最近、よくそんなことを考える。理由はわからない。
ただ、その感覚だけは、どうしても頭から離れない。
胸の奥が、誰かの手でぐっと掴まれるように痛かった。
耳の奥では、風のような、あるいは血の流れるような音が鳴っていた。
誰かが名前を呼ぶ声。
視界は赤くて、黒くて、世界が溶けていく。
あれでおしまいなんだ――そんな確信だけが残っている。
けれど気づけば、いつも通りの朝だった。
目覚ましの電子音と、カーテンの隙間からこぼれる薄い光。
コーヒーメーカーのスイッチを押す指の感触。
カップの中で立ちのぼる湯気。
どれもあまりに現実的で、夢を見ていたような気にもなってくる。
夢のはずだ。
そうでなければ、今ここにいる自分はなんなんだ。
でも、あの“遠ざかる感じ”だけは、どうしても夢の中のものとは思えない。
あれは確かに、世界が自分から離れていく感触だった。
夜、恋人にその話をした。
「ねえ、俺、一度死んだ気がするんだ」
口にしてみると、思っていたよりも他人事みたいな声だった。
彼女はソファの向かいで、湯気の立つカップを手にしていた。
最初は笑って、「また変なこと言ってる」と言った。
だけど俺が黙ったままでいると、少しだけ眉をひそめた。
「……夢じゃないの? 寝不足だし。最近仕事、大変でしょ?」
彼女の声は、やわらかくて、どこか遠慮がちだった。
俺は曖昧に笑った。
「そうかもしれないな」
そう言いながら、自分でも何を怖がっているのかわからなかった。
彼女は心配そうに僕のカップにコーヒーを注ぎ足した。
テーブルに置かれた瞬間、ふっと花のような香りが立ちのぼった。
香水かもしれない。
あるいは、窓の隙間から入り込んだ風の匂いかもしれない。
けれど、胸の奥がざわついた。
「……なんか、懐かしい匂いがする」
そう呟くと、彼女が小首を傾げて笑う。
「きっと春の匂いだよ。冬が終わったから」
その言葉にうなずきながら、僕は窓の外を見た。
街灯の下で、小雨が滲んでいた。
アスファルトに落ちる水の音が、やけに静かに響いている。
あの日も、雨が降っていた気がする。
けれど、その続きがどうしても思い出せない。
何をしていたのか、どこにいたのかも。
それどころか、“あの日”がいつで、何の日だったのかさえも。
ただ一つだけ、胸の奥に残っている。
――誰かが、泣いていた声が。
気にしないように過ごしていても、死んだ、と思わせるあの感覚はどうしても消えなかった。
胸の奥を圧迫する重みと、耳鳴りのような風の音。
ふとした拍子に、それが蘇る。
電車の揺れ、コピー機の低い唸り、蛍光灯の明滅――どれもが、あの遠ざかる世界の気配を運んでくる。
彼女の前では、できるだけ平静を装った。
けれど、笑うたびに胸の奥がひりつく。
その違和感を見透かされたくなくて、
悲しそうに眉を寄せるその顔を見たくなくて、仕事を理由に帰らない日が増えていった。
夜のオフィスに残り、意味もなく資料を眺め、空調の音を聞きながら時間を潰す。
蛍光灯の白い光が、夜更けとともに冷えていく。
仮眠室の固いソファで夜を明かすこともあった。
週末にはネットカフェへ逃げ込んだ。
薄い壁の向こうから聞こえる息遣いが、やけに近い。
他人の寝息が自分の呼吸に混ざって、世界の境界が曖昧になっていく。
けれど、どこにいても頭のどこかで声がする。
――帰らなくては。
その言葉だけが、呼吸のように途切れず胸の奥で鳴り続ける。
避けているはずの恋人に会いたくて仕方がない。
その矛盾した感情が、さらに俺を不安にさせた。
ある夜、残業中に突然、電気が落ちた。
真っ暗なオフィスに、ノートパソコンの液晶だけが小さく明滅している。
その瞬間、胸の中で何かが軋むように締めつけられた。
息ができず、反射的に窓際まで駆け寄る。
外の空気は冷たく、夜風の中に、かすかに線香の匂いが混じっていた。
それは懐かしくも不吉な香りで、
吸い込んだ途端、喉の奥がじんと痛んだ。
その夜を境に、俺は夢を見るようになった。
何度も、同じ場面を。
暗い地面に倒れていく感覚。
冷たい舗装の硬さ。
遠くで誰かが泣いている。
視界の端に、見覚えのあるヒール。
目を覚ましても、鼓動が荒く残る。
夢と現実の境目が、ほんの少しずつ滲んでいく。
彼女の泣き声が頭の奥に焼きついて、離れない。
――彼女は、誰のために泣いているのだろう。
俺か、それとも。
逃げるのは、もうやめようと思った。
理由もなく胸がざわつき、浮かぶ言葉はただひとつ。
――帰らなくては。
その夜、俺は残業を途中で切り上げ、ビルを出た。
外の空気は湿っていて、冷たく、雨上がりの夜風が頬の熱をさらっていった。
アスファルトから立ちのぼる湿った匂いに、かすかに線香のような香りが混じっていた。
人の通りは少なく、遠くで信号機の電子音が規則的に鳴っている。
その合間に、車のブレーキが軋み、傘を閉じる音が乾いた響きを残した。
音と音のあいだに、妙な静けさが挟まっていた。
歩くたびに、靴の裏が冷たい水を踏みしめる。
反射した光が揺れて、足跡の中で波打った。
久しぶりに通るせいか、見慣れたはずの道がどこか違って見える。
街並みは同じなのに、遠近の感覚だけがずれている。
ただ“帰る”という言葉だけが、身体の奥に深く刺さっていた。
その意味が、歩くごとに変形していくのを感じる。
街角を曲がった瞬間、風向きが変わった。
線香の匂いが、急に濃くなる。
鼻の奥に刺さるような甘さと焦げた苦味が混じっていて、息を吸うたびに胸が焼けた。
ふと視線を上げると、通りの向こうに黒い幕を張った建物が見える。
玄関前には白い供花が積まれ、喪服の人々が無言の列を作っていた。
足が止まる。
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
胸の奥に、あのときと同じ圧迫感が走る。
何度も思い出そうとしては、掴み損ねてきた記憶。
その断片が、風の中でひび割れるように蘇る。
息を吸うたびに、空気が重く喉を擦る。
誰かの視線を感じて顔を上げるが、誰もこちらを見てはいなかった。
皆、俯き、静かに何かを見送っている。
濡れた地面に花弁が一枚落ちて、光を反射していた。
俺は列の脇をゆっくり歩き出した。
靴音が濡れた舗装に吸い込まれていく。
鼓動が速い。
――帰らなくては。
その言葉が、脈拍と同じ速さで打ちつづける。
建物を過ぎ、狭い路地へ入る。
風がぴたりと止まり、世界が急に静かになった。
湿った匂いの中に、白い花の香りが漂っている。
鼻をかすめた瞬間、それが夢の中で嗅いだ匂いと重なった。
記憶の奥で、何かが静かに接続する。
“ここだ”と、身体のどこかが呟いた。
アパートの前に着くと、指先が小刻みに震えていた。
鍵穴を探す指がなかなか定まらず、ようやく差し込んだキーをゆっくりと回す。
軋む音とともに、ドアがわずかに開いた。
中は静まり返っていた。
照明は落ちて、カーテンの隙間から街の灯が細く差し込んでいる。
床の上には、どこかから入り込んだ雨粒がひとつ光っていた。
空気はひんやりと冷たく、部屋全体が薄い膜で覆われているようだ。
花の匂いが満ちている。白く、淡く、逃げ場がないほどに。
靴を脱ぐことも忘れ、奥へ進む。
部屋の中央、机の上に一枚の紙があった。
ペンの跡が掠れ、インクが小さく滲んでいる。
そこには、たった一行。
――先に帰ります。
息が詰まった。
言葉の意味を理解する前に、身体が凍りつく。
部屋の隅で、蝋燭のような小さな光が揺れているのが見えた。
風もないのに、火だけがゆらゆらと揺れている。
炎の輪郭が少しずつ滲み、白い残像が視界に残る。
その光を見つめているうちに、世界の輪郭がふっとほどけていった。
音が遠のき、足元の感覚が溶ける。
胸の奥で、何かが静かに弾けた。
まぶしい白の中で、目を開けた。
最初は、どこにいるのか分からなかった。
天井がぼやけ、耳の奥で機械の音が規則正しく鳴っている。
ひとつ、ふたつ――その音が現実の形をゆっくりと教えていく。
視界の端を白衣が横切った。
ふと目が合った瞬間、男の顔が驚きに揺れる。
彼は駆け寄り、息を呑むような声を漏らした。
「意識が戻った!」
その叫びが部屋を震わせ、すぐに扉の外が慌ただしくなった。
看護師たちの足音、電話の呼び出し音――
重なる声の波の中で、俺はただ息を整えることしかできなかった。
しばらくして、両親が駆け込んできた。
髪には白いものが混じり、肌の色がどこか透けるように薄くなっている。
父は俺の名前を何度も呼び、母は手を握って泣いた。
その手があたたかくて、少し痛いほどだった。
長い時間が過ぎていた。
俺は、ようやく“帰ってきた”らしい。
けれど、そこに彼女の姿はなかった。
枕元の小さな花瓶に、白い花が一輪。
その隣に置かれた写真立ての中で、彼女が静かに微笑んでいる。
背景は春の光。
指先には、あのときと同じ指輪が見えた。
花の香りが、病室の冷たい空気に溶けていた。
あの夜、部屋に漂っていた匂いとまったく同じだ。
胸の奥がきゅっと縮む。
途切れていた記憶の断片が、静かに浮かび上がる。
――車のライト。
――叫ぶ声。
――泣きながら俺の名を呼ぶ彼女。
そうだ。
あの夜、俺は彼女を庇って車にはねられた。
視界が赤く滲み、息ができなくなって、
最後に見たのは、泣きじゃくる彼女の顔だった。
それが、俺の“死んだと思った記憶”だったのだ。
俺はずっと、あの瞬間を夢の底で繰り返していた。
病院の職員たちが去り、部屋に静寂が戻る。
白い天井の光がゆっくりと沈み、モニターの電子音だけが、呼吸の代わりに響いていた。
俺は彼女の写真を見つめたまま、動けなかった。
母がそっと椅子を寄せて座る。
言葉を選ぶように、震える指先で膝を撫でながら話し始めた。
俺が眠り続けていた年月のこと。
季節がいくつも過ぎ、彼女がそれでも通い続けていたこと。
そして、やがて彼女が自分を責め、静かに選んだ最期のこと。
母はそれ以上言えず、顔を覆って泣いた。
言葉は、それだけで十分だった。
俺はようやく理解した。
――あの夜、俺が“帰ろうとしていた”場所。
線香の匂いに導かれたあの道は、
彼女の葬儀への帰路だったのだ。
彼女はずっと、俺よりも先に帰っていた。
そのことを、俺だけが知らなかった。
静かな病室に、再び機械の音が小さく鳴り始める。
目を閉じると、白い光の向こうから、淡い花の香りが流れ込んできた。
優しく、切なく、どうしようもなく懐かしい匂い。
その香りの中で、俺は静かに息を吐いた。
すれ違ってしまった二人の帰り道を思って。




