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転生トンネル

作者: 江戸前餡子

 トンネルの入り口に立った瞬間、冷たい空気が私の肺を刺した。そこに漂う異様な気配は、まるで目に見えない手で私の心臓を握り潰すようだった。苔に侵食された五体の地蔵が、首を失ったまま無言で佇んでいる。薄暗い街灯がチカチカと弱々しく点滅し、湿ったコンクリートの壁に不気味な影を投げかける。遠くでカラスがけたたましく鳴き、鋭い声がトンネルの奥で反響して消える。だが、それらがこの恐怖の源ではない。本能が、全身の細胞が、叫んでいる――ここは本物だ。危険だと。肌が粟立ち、足が勝手に後ずさりする。心臓の鼓動が耳の中でドクドクと響き、喉が渇いた。


家から一時間かけてこのトンネルにたどり着いたのは、部室で耳にした麻美の噂話がきっかけだった――



「ねえ、ゆーちん、信じる?」

キャンバスに向かい、筆を握った瞬間、肩に置かれた麻美の手の感触にビクッと体が跳ねた。彼女の声はいつもより少し低く、どこか興奮を帯びていた。噂好きな麻美が「信じる?」と切り出すとき、それは決まって都市伝説の話だ。私はまたかと思い適当に相槌を打ち、白いキャンバスに筆を滑らせていた。だが、彼女の言葉が耳に滑り込むたび、筆の動きが鈍り、キャンバスに描く線が震え、やがて完全に止まった。私は顔を上げ、麻美のキラキラした瞳を見つめていた。


「モデルみたいな、理想の顔になれるんだって。すごいよね? 行ってみたいと思わない?」

「それは……まあ、思うけど……でも、2組のあの子、急に可愛くなったのって……まさかそれ?」

「そうそう! いーよね、私もモデルみたいな顔になりたいな〜!」


 私の家ではテレビが禁止されているから、芸能人や「モデルみたいな美人」がどんなものか、ピンとこない。絵画ならすぐにイメージが湧くのに。モナリザの微笑み、レオナルドの柔らかな筆致、彼女の神秘的な目元が頭に浮かぶ。


「モナリザみたいな顔になれたらな……」と私が呟くと、麻美がくすっと笑った。

「モナリザかぁ。外国人になりたいなんて、ゆーちん、欲張りさんだねぇ」



 あの時の軽い会話が、なぜか今、胸の奥で重く響く。私はトンネルの入り口で立ち尽くし、麻美の笑い声を思い出し、唇の端がわずかに上がった。だが、すぐにその笑みは凍りつくのだった。


「よし!」


 決心し、トンネルの闇へ一歩を踏み出した瞬間――カラン、カラン。背後で下駄の音が響いた。鋭く、乾いた音がトンネルの壁に跳ね返り、背筋を凍らせる。私は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、小さな旋風が地面を舞い、奇妙な色の羽がゆらゆらと落ちていく。黒とも灰色ともつかない、珍しいがどこか見覚えのある羽――私が密かに餌をやっていた、飛べないカラスの羽に似ていた。心臓が締め付けられるようにドクンと跳ね、息が詰まった。


 確認しようと一瞬思ったが、トンネルの奥から漂う湿った空気が私の体を絡め取り、操られるように足を奥へと進ませた。トンネルは果てしなく長く、コンクリートの壁に滴る水滴の音が耳にこびりつく。蒸し暑い空気とカビと土の臭いが、心の奥に入り込み、恐怖がじわじわと平常心を侵食していった。汗が背中を伝う。だが、走ってはいけない。このトンネルにはルールがある。走れば、整形が荒くなり、人ならざる者のような醜い顔になるという。私は拳を握り、震える足に力を込め、「大丈夫、大丈夫」と呟き続けた。自分に言い聞かせて落ち着かせるというより、何も起きないように願う、懇願に近かった。



「また……首無し地蔵……」


 トンネルの奥に現れた地蔵は、誰かの悪戯だろうか、派手な油絵具で塗りたくられていた。赤、青、黄色――鮮やかすぎる色が、薄暗いトンネルの中で異様に浮かび上がり、まるで叫び声を上げているかのようだった。鼻を突く油絵具の匂い。普段なら落ち着くその匂いが、今は胃を締め付けるような不快感を呼び起こした。思わず声を上げそうになり、慌てて手で口を塞いだ。

 トンネルの二つ目のルール――大きな声を出すと、そこに住む神が怒り、地蔵に変えられるという。私は尻餅をつき、冷たいコンクリートの感触が尾てい骨に響いた。慌てて立ち上がらず、息を殺し、心臓の鼓動が収まるのを待った。


「進もう……」


 心の底から後悔が湧き上がる。なぜこんな場所に来てしまったのか。こんな恐怖を味わってまで、なぜ「綺麗」になりたかったのか。


「愚問だな」


 答えはわかっていた。外見で虐められるのが嫌だったからだ。服に染みついた絵の具の匂いが「臭い」と笑われ、手の鉛筆の煤が「汚い」と蔑まれ、太っていることが「醜い」と嘲られた。人間は自分と違う者を嫌う。そんな浅はかな価値観が、私をここに追い込んだ。だが、それだけじゃない。どこかで、普通の青春を夢見てしまったのだ。笑顔で友達と語り合い、恋をして、幸せを感じる――そんな当たり前の日常を、一度でいいから味わいたかった。だから、私は立ち上がった。足に力を入れ、コンクリートの地面を踏みしめる。だが、数歩進んだところで、頬を伝う汗がポタリと顎から落ちた。視界の端でその色を捉えた瞬間、息が止まった。青い。絵の具のような、鮮やかな青い汗だった。油絵具の匂いで頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。


 戻ったらどうなる? 麻美は教えてくれなかった。戻った先に何が待っているのか、誰も知らない。


「走ったら酷い顔になるなら……戻ったらもっと悪いことが起こるはず……」


 震える足で一歩踏み出す。と、その瞬間、胃の底から這い上がるような感覚に襲われ、膝から崩れ落ちた。ゴボッと喉から何かが逆流し、口から吐き出したものは、赤く透き通ったゼリー状の塊だった。ゼリーなんて食べていないのに、大量に、ドロリと流れ出る。酸っぱい胃酸の臭いが湿気と混ざり、頭をクラクラさせた。大きな声を出すまいと必死に唇を噛んだが、恐怖が抑えきれず、叫び声がトンネルに響き渡った。


「でも……行かなきゃ……!」


一歩、また一歩。だが、今度は皮膚が異様に変化し始めた。腕を見ると、油絵具を塗りたくったような色が広がっていく。赤、青、黄色――まるで地蔵と同じ色だ。突然、鼻の骨の芯から鋭い痛みが走り、鼻血が流れ落ちた。恐る恐る鼻に触れると。今までの、胡座をかいたような横に広い鼻は何処へやら。まるで別人のように高く、細い鼻に変わっていた。


「変わってる……! でも、このままじゃ絵画みたいな人間になるんじゃ――」


 言葉を言い切る間もなく、恐怖が堰を切ったように溢れ出し、抑えきれなくなった私は入り口へ向かって走り出した。だが、走るほどに皮膚の変色は止まらず、全身が絵の具で固められたように重くなる。足が鉛のように重く、筋肉が悲鳴を上げる。


「――ッ!」


 残り数歩のところで、地面に倒れ込んだ。体が石像のように固まり、首さえも動かなくなる。絵の具が這い上がり、眼球だけが動く状態に。


 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない !


 心の中で叫び続ける。死を目の前にして初めて気づいた。私は本当は青春をしていた。虐められ、辛いことばかりだと思っていたけれど、心のどこかで小さな楽しさがしっかりとあった。友達との他愛ない会話、絵を描く時間、飛べないカラスに餌をやるひととき――それが私の青春だった。


 どんなに力を込めても、体はまるで他人のように動かない。


「もう……駄目だ……」


 その刹那、出口から轟く突風が私の身体を空き缶のように吹き飛ばした。宙を舞う中、視界の端に映ったのは、下駄を履いた鼻の長い"何か"。翼が生え、団扇のようなものを手に持つその姿が、最後の記憶だった。



 目を開けると、見慣れた天井が視界に広がっていた。


「助かった……?」


 腕を上げ、皮膚を確認する。見慣れた、陽に当たっていない白い肌。安堵の息が漏れた。制服のままベッドに横たわっていたらしい。スカートのポケットに違和感を感じ、手を突っ込むと、雑に破かれたノートの切れ端が出てきた。そこには一文だけ。


《身体を大切にしろ》


「お母さん……私、どうやってここに?」

「不思議なのよ。知らない青年が由梨を背負って来たの。まさか彼氏?」


 そんなわけ。


「そういえば、変なこと言ってたわ。"今までのご飯のお返し"って」


 そして、お母さんから一枚の羽を手渡された。鳥類とは思えない大きさの、見覚えのある羽。私は確信した。あの飛べないカラスが、私を守ってくれたのだ。


「ありがとう……ありがとう……」


 感謝の言葉が溢れ、自分の身体と日常のありがたみを噛み締めた。だが、頬を伝う涙が布団にポタリと落ちた瞬間、背筋が凍った。


 青い。絵の具の匂いがする、青い涙だった。


「そういえば、由梨、随分綺麗になったわね。鼻もスッキリして、なんかーー」


 耳を塞ぎたくなった。あの悪夢が続いているようで、その場から逃げ出したくなった。


ーー モナリザみたい! ーー

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