1話
白い寝巻き姿の信長は、素足で初夏の公園をゆっくり歩いていた。
左手には、本能寺で自刃するために抜きかけていた
小太刀をしっかり握りしめて。今は、このわけのわからない世界で
自分の身を守る方法は、これしかないという気持ちが信長の
中に張り詰めていた。
公園に人気は少なかったが、それでも信長とすれ違う人々は
彼の姿を訝しげに見ている。
やがて信長は、公園のはずれにある駐車場にやってきた。
「おお、先ほど動いていた鉄の箱が所狭しと
置いてあるではないか。なぜ動いておらぬのじゃ」
そう言って、信長は目の前の車を覗き込んだり、ボディを
やさしく撫でたりしていた。
すると少し離れたところで、フェラーリのような高級スポーツカーに
セレブ風の30代ぐらいの女性が来て乗りこんだ。
「ブォォォォォォォーン」
エンジンがかかり、その迫力のある音に信長は驚く。
「なんとも力強い鳴き声よ。人がこの鉄の箱に乗ると、こやつらは
吠えるのか?」
走り去るスポーツカーを見送る信長。そうこうするうちに、また一人
メガネをかけた気の弱そうな40代の男が、携帯電話をしながら駐車場に
入ってきた。
「わかりました。次の店はレトロな感じにしたいので、その物件を
もう一度見せてもらっていいですか?ありがとうございます。
では、明日10時に伺いますね」
男は電話を切り、自分の白いBMWに向かって歩いていく。
この男を見つけ、鉄の動く箱のことを聞こうと近づいていく信長。
その時、メガネの男の目の前から歩いてきたチンピラ風の男が、
メガネの男にわざとぶつかった。
「す、すみません」
メガネの男は一言謝り、再び自分の車に向かって歩き始めるが、
チンピラ風の男は機嫌悪そうな顔で振り返り、メガネの男に
近づいて因縁をつけ始めた。
「ちょっと待たんかい!人にぶつかっといて、それだけかい!」
チンピラ風の男は、腕を手で押さえて
「痛。腕、折れたかもしれへぞ。おっ!どうしてくれんねん」
「そんな、おおげさな。謝ったじゃないですか」
「なんやと。お前、ふざけんなや。謝って済む話か。誠意を見せんかい」
チンピラ風の男は怒鳴り、メガネの男の胸ぐらを掴む。すると突然、
チンピラ風の男の背後から声が聞こえてくる。
「お主!やめんか!」
振りかえるチンピラ風の男。
そこには、白い寝巻き姿の信長が立っていた。
「お前誰や!変な格好しやがって」
チンピラ風の男は信長を殴ろうとするが、信長はすかさず小太刀の鞘で
男の鳩尾をつく。
呻くチンピラ風の男。うずくまる男を見下ろし、一喝する信長。
「わしは最初から見ておったぞ。お主にわしは倒せまい!」
チンピラ風の男は鳩尾を手でおさえて、苦しそうな表情。
「覚えとけよ!」
一言残してその場から走り去っていった。
メガネの男は、白い寝巻き姿の信長に近寄っていく。
「ありがとうございました。助かりました」
「何のこれしき。ああいう輩には気をつけるのじゃぞ。
ところで一つ聞いてもよいか?」
メガネの男は、一瞬冷静になり、寝巻き姿の信長に不審なものを感じるが
信長の質問に一応、返事をする。
「は、はい。何でしょうか?」
信長は、何から聞こうか少し頭の中で整理してから口を開く。
「今はまだ天正の世か?それともあの世か?この動く鉄の箱は何じゃ?」
質問の内容を少し理解できないでいるメガネの男だが、丁寧にゆっくりと答える。
「今は令和5年です。そしてこれは自動車ですよ」そう言われて、信長は
難しそうな顔をして頭をかかえる。
「令和?なんじゃそりゃ。何故わしはここにいるんじゃ。自動車?
馬は使わんのか。ああ、もう何もわからん…」
頭が混乱しパニック状態になり、膝から崩れ落ちる信長。
メガネの男は、その場に座り込む信長を労るように話しかける。
「大丈夫ですか。どうかしましました?」
メガネの男は、この男(信長)が何らかの原因で記憶障害などが起き、精神が
混乱している状態ではないかと感じ、ここはこの男(信長)の心を落ちつかせる
ことが先決だと考え、ある提案をする。
「まずは、一度冷静になってから、いろいろ考えましょう。そうすれば
気分も良くなって楽になりますよ。そうだ!まず私と一緒に私の家に帰って、
少し休みましょう。私も仕事が終わって今から帰るところですし」
信長はその男の提案を聞き終わってゆっくりと顔を挙げるが、また
すぐに険しい顔になって男に丁寧に話しかける。
「いや、それは貴殿が迷惑であろう。こんなどこの馬の骨ともわからんわしを
貴殿の屋敷に上げるのは。わしのことは捨て置いていただきたい」
頑なにメガネの男の提案を拒否する信長。
メガネの男は、このような駐車場に帰る場所もわからない男を一人
残すことは絶対できないと思い、座り込んでいる信長の目線までしゃがみ込み
やさしく話はじめる。
「これも私を助けていただいたお礼です。あなたは正義感あふれる
立派なお方だと感じました。だから、今度はあなたをお助けしたいのです。
さぁ、あの車に乗って行きましょう」
メガネの男の指さす先には白いBMW。
「わしが、あの鉄の箱に乗れるのか?」
うなずくメガネの男。
信長は子供のように目をキラキラさせている。
「よし、行こう!ありがたき幸せじゃ!」
信長は、打って変わったように元気になり、すくっと立ち上がり早足で
メガネの男のBMWに向かって歩き始めた。
メガネの男は、信長の勢いに少し戸惑いながら後を追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってください!」