序章
天正10年6月2日。明け方。その寺は燃えていた。
桔梗の旗印の軍勢に取り囲まれた寺の名は、本能寺。
燃え盛る寺の奥の間で、髪は解け、少しすす汚れた
白い寝巻きの男は落ち着いた様子で座っていた。
戦国の異端児、織田信長その人である。
その鋭い眼光で、目の前の燃え盛る襖を見つめている信長。
「光秀のことじゃ。抜かりなかろう。しかしなぜ、光秀が…」
信長には、自分に謀反を起こす光秀の気持ちが
今一つわからなかった。確かに今までことあるごとに
光秀には辛くあたってきた。しかしそれは、光秀に
もっと強く、なってほしいという愛の鞭であると
信長は思っていた。
信長は、ゆっくり目を閉じた。
「すまん光秀。お前にとってわしは厄介ものでしかなかったのか。
是非に及ばず。よし!」
そうつぶやくとすくっと立ち上がり、幸若舞「敦盛」の一節を
舞始めた。
「人間50年〜 下天のうちをくらぶれば〜 夢幻の
ごとくなり〜 一度生を享け〜 滅せぬもののあるべきか〜」
舞いを止め、突然扇子を畳に投げつける信長。
「50まであと1年じゃったのに!それだけが悔やまれる。
それにしても光秀め!なぜ50まで待てなんだ!!」
しかし怒りの火は、本能寺の燃え広がる火に反して
すぐに消えた。
気を取り直した信長は、覚悟を決め小太刀を目の前にかざす。
「もはやこれまで。この首は誰にもやらん!!!」
信長は、小太刀をゆっくり鞘から抜き始める。
鞘から小太刀を抜く途中、突然大きな音がして
本能寺の天井が信長の上に崩れ落ちた。目の前が真っ暗になり
意識が遠のいていく。
何時ほど時が経ったのだろうか。暗闇の世界で
遠くから子供の声が聞こえる。
「変なおっちゃん倒れてる〜。きも〜」
信長は、心の中でふと思った。きっと自分は、本能寺の火に焼かれ
今、魂だけがあの世とこの世の間を彷徨っているのだと。
「わしは、誠に死んだのか? 地獄の鬼どもが騒いでおるのか?」
再び暗闇と静寂が信長を包み込んだ。
しばらくして、ゆっくりと目を開ける信長。
信長は、どう見ても戦国の世とは思えない綺麗に
整備された芝生の上に倒れていた。少し起き上がって
あたりを見渡すと、見たこともないホールのような建物や
噴水が目に入った。人気はなかったが、遠くから恐る恐る
信長に近づいてくる小学3年生ぐらいの男の子が二人いた。
背の高い方の男の子が、怪訝そうな目で信長を見ている。
「おっちゃん、そんな白い着物着て何してんの?」
もう一人の男の子が信長が持つ小太刀を興味深そうに覗き込む。
「それ刀? おっちゃん、ちょっと腕から血が出てるやん。
大丈夫?」
信長は、本能寺で矢がかすめた腕の血が固まっている
ことを確認し、立ち上がり子供達の方へ近づく。
「お主ら、奇妙な着物を着ておるな?ここはどこじゃ」
「あかん。このおっちゃんこわい!お化けや〜」
駆け足で逃げていく子供達。
頭を抱え、混乱している様子の信長。また芝生に座り込み、
一人思い悩む。キリスト教にも詳しい信長の頭には、今の
子供達は天使なのかもしれないという考えが浮かんだ。
「ここはあの世なのか?それとも…」
そうつぶやいて遠くを見ると、バスや自家用車が走っていく。
「馬が引いていない鉄の箱が走っておる。これは南蛮人の
新しい技なのか?」
信長は、天正10年の本能寺から440年ほど経った令和5年の
現在に、何らかの力によりタイムリープしたのだった。