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十一
「なんだ、あの女が好きなのか?」
わしの言葉に、タイマは背を向けたまま、ううん、と低くうなってため息をついた。団扇の柄で頭をかきながら「そうなら、もっと事は単純で良かったんだが」と、つぶやいて苦笑をもらした。
わしは、目を細めて鼻を鳴らすと、さっきのあれは何だ、と問うた。タイマは、ようやっと振り返ってわしを見ると「あれが、結婚には必要な動作だ」と、よくわからぬことを言った。
「最近読んだ恋愛ものの真似をしてみた。あまりうまくゆかん」
「そうだろうな」わしが適当な相槌を打つと、タイマは「知らないくせに、よく言うな」と、快活に笑った。胡坐をかいて、太ももに肘を置くと、頬づえをついてにやにやとする。
「真似をする以外で、人のようには振舞えまい。特に、好きだ惚れたなどと言うものは、どうも。喰えればなあ、わかるかもしれん」
「そうか?あの女の懸想に気づいとったじゃないか」
「それにしたって、熱を出した子供を見て、ああ、顔が赤いから熱があるのだなあ、と言う状態観察によるものさ。共感や、情と言うものでは、ないだろうよ」
タイマはわしの尻尾をなでながら、「だからさあ」と話を続けた。
「良いことだと思われる心を持って、生まれてくる生物はいない訳だよ。人でさえそうだ。倫理だとか、道徳だとかって言うのはさ、つくりだすものなんだよなあ。それを繰り返し行うことで、俺もみんなも助かるってんなら、何度もやっていれば、そのうち身につくってもんじゃないかな。習慣のようにさ。だから、最初は、見よう見真似の聞きかじりで、振舞っていても、そのうちさ、情みたいなものが、一瞬、わくのかもしれんよ」
「わしでもか」
疑わしそうな目を向けて、そうつぶやくと、タイマはにっこりと笑って「お前でも、俺でも、そうかもしれない」と、言った。
「欲望のままに生きるのは簡単だろう?本来の生き方を生きるのは、そんなに難しいことじゃあない。だから、俺は本来と違うものと交わったり、共に生きたりして、違うものになってみても、面白いんじゃないかと、思うのだよ」
「よくもまあ」わしは、呆れたため息をついて、尻尾を振った。尾先が、タイマの頬をくすぐったのか、むずがゆそうに眉をよせていた。
「そんな、骨の折れることを面白がるのは、貴様ぐらいじゃ」
「そうだろうか」
タイマは頬づえをついたまま、団扇で前髪をゆらして、困ったように笑った。
「お前を見ていたら、心のままに振舞うまぶしさ、と言うのも美しいものだと、思ったよ」
「心だと?馬鹿を言え」
わしはタイマの意外な言葉に目を見張った。そのうち、くだらんと、鼻を鳴らしてそっぽを向いて、牙を見せた。
「鬼が心など、持つものか」
タイマはそれでも、快活な笑みを浮かべたまま、「自覚がないのが、なお共感をよせる。ずるいやつだ」と、ふざけたことをぬかした。これ以上は埒が明かないと、背を向けて丸くなった。
わしが心を持っているなど、考えたこともなかった。タイマの言葉にいくらか緊張したが、それもすぐほどけてゆく。戯言だ。だが、わしは「思って」いるのか。
どこで、生物は思っているのだろう。鬼でも、考えて、思っているのだから、「心」がある、とでも言うのだろうか。それこそ、屁理屈の詭弁にすらなっていない、馬鹿げた台詞ではないのか。
それでもわしが、この気違いじみた天狗のそばを離れないのは、なぜなのか。破天荒な言動に、巻き込まれているだけなのか。それとも、タイマの自由な風体が、心地いいからなのか。「心地」いいか。わしは、小さくつぶやいて、くちもとを歪めた。
「さて、そろそろ出ようか」
タイマはうん、と伸びをして着流しの帯を直すと、障子に手をかけた。その白髪頭が、風にゆれるのを見つめながら、わしは体を起こして駆けだした。障子と足の間を、するり、と抜けて庭先へと飛び降りる。
日差しのやわらかさに目を細め、走り出した。
第二章へ続きます。




