No.9 フィー・ディフィシットは
楽しい記憶なんて一つもない。
あるのは暗闇だけ。
クローゼットがフィーの世界の全て。
その中でずっと何も考えないようにして生きていた。
ただ酸素を二酸化炭素に変換するだけ。
その辺に生えてる植物と何も変わりない。
兄か弟がいるらしいが声を聞いた事はあっても会ったことはない。
フィーには生まれつき尻尾がなかった。
それを両親はよく思ってなかったし気味悪がっていた。
どうやって食い繋いでいたかも覚えていない。
微かに聞こえてくる家族の会話で言葉は覚えたが使う機会はなかった。
――その時は突然だった。
父親ではない知らない男が世界の全てだったクローゼットから易々とフィーを連れ出した。
腕を持たれ簡単に持ち上げられる。
何かを言われたが覚えていない。
それから違う家に引きずられて行った。
まともな食事をを与えてくれた。
綺麗な服をプレゼントしてくれた。
無様に伸びていた髪を切ってくれた。
誰だかわからなかったからおじさんと呼んでいた。
そして一年が経った頃に母親が引っ越してきた。
「あ、まだいたんだ」
「……」
久しぶりに会う母に何て話しかけるのが正解かわからず、無い頭を働かせている間に母は私から興味を失い、おじさんと話をしだした。
「ギニア、私離婚したから」
母親と目が合ったのはこの時が初めてでおそらく最後だった。
相変わらずフィーの事は見ず、存在しないものとして扱われるが優しいおじさんがいたから別によかった。
トートに義務教育は無いが、任意で行ける学校はある。
家の近所にある学校をいつも窓から眺めていた。
生徒達の楽しそうな声が鼓膜を、同世代同士で遊んでいる姿が視覚を刺激して自分もあそこに混ざりたいという気持ちが日に日に強くなる。
「おじさん、私学校に行きたいの」
ある日、意を決しておじさんに学校の話をしてみた。
却下される可能性の方が圧倒的に大きかったがそれでも少しの可能性に賭けた。
「あー……まぁいいか。早く大人になれよ」
「ありがとうおじさん」
予想は外れ、二つ返事で承諾してくれた。
いつもおじさんはフィーを外に出したがらない。
腰ほどまである長い髪で隠れていたとしても尾なしを連れて歩くのが嫌だからだと思っていたが違ったみたいだ。
おじさんに許可をもらった次の日から学校に行くことにした。
「人、たくさん……」
学校はフィーにとって未知の世界。
他人事だった世界に自分も入り込んでいる。
ガラス越しのくぐもった声ではなく鼓膜に直接入り込む楽しげな声。
そして習う事全てが新鮮で面白かった。
そこで気づいたのは自分は口数も少ないし、表情も乏しいと言う事。
楽しくても悲しくても表情はそれを映しださない。
「よぉ、お前どこの家の者だ?」
尻尾がない事を不思議に思って話しかけてくる人もいた。
それで沢山構ってもらえたので、家で母親にいないものとして扱われるより構ってもらえる学校の方が何倍も楽しかった。
初めておじさん以外の人に認識された事が嬉しかった。
しばらく学校に通っていろいろな事がわかるようになってきた頃、それも突然の事だった。
「どうしたのおじさん」
両手首を掴まれ、床に押し倒される。
今までこんな事なかったから驚いた。
痛い。
「流石にこんな事までは習わないか」
「何の事?」
最早フィーの言葉に聞く耳は持たず徐に衣服を取り払おうとする。
「えっ……おじさ、やめ――」
身体を捩り抵抗した瞬間、頬を殴られた。
そしてその大きな手はフィーの小さな口を掴むようにして覆い、声を出すことができなくなる。
――ずっと優しかったのに、どうして。
この時生まれて初めて目に涙を浮かばせた。
「フィー、最初に言っただろお前は俺の人形なんだよ。抵抗するな、騒ぐな、泣くな。俺が無理やりしてるみたいだろ?」
頭が真っ白になった。
その後も言われるがまま、されるがままで身体がぐちゃぐちゃになったようだった。
その日からフィーの世界は変貌を遂げた。




