No.15 記憶に潜る
一番古い記憶、それはあまりにも語る事が無さすぎる。
二部屋しかない小さいアパートの一室。
鼻にこびりつく悪臭。
足の踏み場もないような部屋。
ゴミのない場所には虫や小動物が歩いている。
ゴミに囲まれて寝て、母親が食べ残した残飯を食らう。
思い返してみればよく赤ん坊の時に死ななかったな。
――死んでいればよかったのに。
最初の転機は男装を決意した時だった。
「……お母さん」
まるで蚊の鳴くようなか細い声で少しだけ開けた扉から隣の部屋の母に向かって話しかける。
――お腹空いたよ。
ただそれを伝えたいだけだった。
「誰が勝手に入ってきていいって言ったの? 通信中なの見てわからない? 外にでも出てなさい」
「はい……」
齢三才のキルには母親が全てでそれに従うしかない。
トートはレーベンより成長が早い。
そうは言ってもトートの三才はレーベンの年齢に換算しても五才程度で、子供だという事には変わりない。
母親の言う通り外に出ようとした時、甲高い笑い声が聞こえた。
決して自分には向けられることのない楽しそうな声。
思わず立ち止まり、無意識に聞き耳を立てる。
「ごめんねぇうるさいのが入ってきちゃって。そうそう前ウチにいた子よ、え? 女よ女。男だったらまだ使い道があるから可愛がってあげたのにね。それどういう意味ってそのままの意味よ!」
再び甲高い声が狭い家の中に響く。
「男だったら……」
いつまで経ってもその言葉はキルの頭の中に響き続けた。
それから少しして――
「ちょっと! 何してんの!」
帰宅した母親が悲鳴を上げ、キルは嬉しそうに振り返る。
「こんなに散らかして……ッ!」
頭を抱える母親の足元には濃い紫色の髪の毛が散乱している。
元々地面に引きずっていた髪を肩に当たらない程まで短く切り落とした。
「男の子になろうと思って……どうかな、これで――」
期待の眼差しで目の前の相手を見れば、それは予想していた喜びの表情ではなかった。
「何馬鹿げた事言ってんのよ! これ以上イライラさせないで! 髪の毛なんて気持ちが悪い、一本も残さず片付けなさい」
そう言い放ち、舌打ちをしながら家を後にする愛する人。
キルは床に座り込み、生まれた時から運命を共にしてきた髪の毛を片付け始める。
一回も切った事のない髪の毛の内一本くらいは自分と同い年かもしれない。
しかしそんな事よりキルが気のしたのは――
「……まだ男の子っぽく無いのかな。もっと男の子らしくならなくちゃ、そうしたらきっとお母さんも」
怒られたことよりも男の子になりきれない自分を責めた。
またしばらくしてお父さんと兄弟が出来た。
お父さんはすぐにいなくなった。
残された兄弟が女の子だと知った時は女の子に生まれてしまって可哀想だと心の底から思った。
妹が歩き出した頃には母親は暴力を振るうようになった。
大好きな妹が傷つくのを見たくなくて全て身代わりになった。
「今日はいつもより酷い傷だな……」
六才になった頃には自分で傷の手当てをするようになっていた。
しかしそれもお粗末な物で正直やってもやらなくても同じかもしれない。
包帯などの医療品は全部万引きした物。
母に迷惑はかけられない。
「ねえ」
突然声をかけられて肩をビクつかせる。
薬局の店員に見つかってしまったのだろうか。
恐る恐る振り返れば自分と同い年くらいに見える少年が立っていた。
長めの金髪を後ろに縛っている。
「毎日ここで手当してるよね? その怪我どうしたの?」
「……お前には関係ないだろう、それよりお前誰だよ」
何が目的なんだ。
一歩近づいてくるので一歩下がる。
「僕はそこの孤児院に住んでるんだよ。貸して手当してあげる」
急に早歩きで近づいてきた事に驚き、尻餅をついてしまった。
その隙に包帯を取られて、腕を引っ張られる。
「触るな! ……ッ!」
振り解こうとしたが母から受けた傷が痛み、うまくいかない。
「痛いんでしょ、動かないで。僕はソル。君は?」
返事もしていないのに勝手に包帯を巻き始める。
自分でするより断然上手いその手際をボーっと見つめる。
――折角男に生まれているのに何でもっと男らしい格好をしないのだろう。
それがソルと初めて会った時の感想だった。
人気のない場所が孤児院の横しかなかった為、嫌でも毎日ソルと顔を合わせる。
次第に猜疑心は無くなっていき、ソルに手当てをしてもらうのが日課になっていた。
「ソル、また手当を頼む。毎日悪いな……家で手当してると母さんの機嫌が悪くなるから……」
「いいんだよ、僕が好きでやってる事だから」
万引きした包帯や消毒液を持っていくがソルは何も言わない。
正規の方法で手に入れた物ではない事は最初から気づかれていただろう。
「お姉ちゃん……?」
包帯を巻こうとしていた時、背後から妹の声がした。
「ッ!」
「誰?」
ちょこちょことキルの後ろに隠れる愛しの妹。
姉妹で歩いていると大人に声を掛けられたことがあった為、家に隠れているように言いつけていた。
ここに来るまでに誘拐されなかったのはよかったが――待ってくれ、その言葉を言うな。
終わってしまう。
――嫌われる。
「はじめまして、お姉ちゃんがいつもお世話になってます」
妹がソルに頭を下げる。
「お姉ちゃん? キル女の子だったの?」
目眩がするようだった。
世界が斜めに滲んでいく。
――泣くな、泣くのは女だ。泣くな。
「黙ってて悪かった……その、怒ってるか……? 女だってわかって……嫌いになった……か?」
途切れ途切れに謝罪の言葉を述べる。
次の言葉が怖かった。
――男だったらよかったのに
その言葉が頭の中でグルグル回る。
初めて出来た友達だったのに。
女に生まれたせいでまた嫌われる。
「いや全然、むしろ教えてくれてありがとう」
ソルが柔らかい顔で妹の頭を撫でる。
何で嫌われなかったのかはわからなかった。




