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三篠家離散日誌  作者: 三篠森・N
第2章 三篠家自死遺族編
25/31

第25話 三篠家離散

 弟が死んだ二日後、俺は実家に戻らなかった。この日は何のスケジュールもなく、葬儀は別日であり、家族葬のため通夜もなかった。朝一で前職の上司が俺を心配して連絡をくれた。


 弟は既に実家に変わり果てた姿で戻っており、母は弟が好きだったL'Arc-en-Cielのアルバムを流していた。お経はない。お坊さんを呼んでいないので戒名もなく、斎場も借りていない。

 ただただ母はラルクを流し、弟を和室に安置して別れを惜しんでいたが、無神経の父は起きるなり大谷翔平の試合を観始める。テレビがあるのは和室の隣のリビングである。そして父は耳が遠いので、ラルクがかき消される程の音量で大谷が流れたようだ。

 母は弟が好きだったバンドの音楽を流しているので、音量を控えめにしてくださいと言ったが父は耳が遠い。父と哀しみを分かち合えず、それどころか大谷が一番の父に絶望した母が号泣すると、父は「野球を見るのが悪いのか!」と怒鳴ったようだ。

 そんな家には帰りたくなかった。

 とはいえ、俺も父と同じ穴の狢である。弟は死んだが、俺も、妹も母もこの先を生きていかねばならない。個々に悲しみ方は違うため、母や妹にはそれぞれの形があるだろう。二人はどこかのタイミングで折り合いをつけ、そこを区切りとして次の人生を生きていくようだが、俺はあくまで弟の死も自分の人生の一つと考え……などときれいごとを言ったが、俺はこの日映画を観に行った。先日も話したが「何もしない」「悲しむことに専念する」という選択は俺にはない。何かをして気を紛らわせなければならず、それが俺にとっては物書きであったりしたのだが、一日に物書きをする量にも限度がある。だから映画に行かねば頭がおかしくなると思ったし、それを大谷を見ている父と変わらぬ鈍感や不謹慎と言われることは仕方のないことだと思っている。だが俺はこの選択をしたことを間違っていると思わないし、いくらきれいごとを並べたところで馬鹿野郎扱いは受け入れる。


 さて、実家には戻らなかったと言ったが、それは実家に入らなかったということである。

 この日、実家には母の田舎より叔父と叔母が駆けつけてくれた。祖母も余命いくばくもない中、とてもありがたかった。父はあんなであり、ここまでのところ手続きは一つも手伝わず、飲酒、大谷、昼寝、アイス、町中華、メシの催促しかしていない。

 加えて叔父は俺が尊敬してやまない、祖父から流れる温厚篤実の人物であり、穏やかながら心身ともに豪傑である。

 前時代的な考え方かもしれず、新章に入ってから言い訳の前置きばかりが長くなって恐縮だが、こういう時に頼れる大人の男性がいるというのはとても心強く、叔父が来てくれたという知らせを聞いた時に俺はあまりに頼もしさにアパートで泣いた。

 叔父と叔母は祖母の事情もあって日帰りだったが、俺は実家まで二人にお礼に行った。しかし実家の扉は羅生門となり、俺は敷居を跨ぐことも、その先にいる弟に会うことも出来なかった。

 ……。

 俺はアパートに戻り、物書きをし、映画に行き、帰宅し、また物書きをした。

 映画から帰った後、何を考えていたのか全く覚えていない。ただとにかく咳が止まらず、軽い頭痛がしていたこと、そしてこの時自分が何をしていたのか必死に思い出しているのに、物書きをしていた記憶と同時にゲームをしていた記憶もあるし、自死遺族の方々のブログを読んで今後に備えていた記憶もある。

 重ね重ねだが、弟が死んだのに映画を観て物書きをしてゲームをした馬鹿野郎と思ってくれて構わない。だがそれは全て、自己防衛と正気の担保のためだった。

 実家には弟の友人が何人もやってきてくれたそうだ。弟と接点のない妹の友人もやってきて、朝方まで妹に寄り添ってくれたという。

 父と同じく何一つ貢献せず、やったことと言えばまともな飲み物がない家のためにペットボトルのお茶をいくつか差し入れた程度である。

 この日の俺は全くの無力であり、非力であった。




 〇




 葬儀当日、出棺直前。父が倒れた。

 銀行まで火葬代をおろしに行った父はバス停で倒れ、救急車で運ばれた。家の電話が鳴り、第一報で救急隊員から「お父様が倒れました」と聞いた俺は「はぁ!?」と大声で訊き返した。意識はあり、会話も成り立つが、転倒時に頭部を強打し出血と腫れが激しく、とてもじゃないが葬儀には間に合いそうもないということだった。

 ……。

 ここまで父は一切の悲しみを見せず大画面で大谷を見られる喜びに終始し、ハンデでしかなかったことは本誌既報の通り。

 それどころか葬儀の翌日には田舎に帰らればならなかった。葬儀の翌日に帰らないと、新しく田舎の家に設置する家電の割引期間が終わってしまうためだった。父にとって弟の死は家電の割引の差額より軽かった。

 そもそも父は異常にケチになっており、葬儀の見積もりを見て顔をしかめ、「金がないのにこんなことになって」などと発言し、「弟のスマホを下取りに出して金を作れ」という尋常ならざる発言をしていた。

 電話を受けた俺は、そのハンデである父がこの後に待ち受ける最も辛い時間帯に不在であることをどこか有難く思っている部分があった。


 その前に、前日に映画、ゲーム、物書きなどで自分の気持ちをマネジメント……という不謹慎をした俺は、家の敷居を跨いで弟と対面し、線香をあげた時に「すまなかった」と心の中で謝ると目に浮かぶものがあった。セルフ管理メントのおかげか前々日あった吐き気はほとんどなかった。


 きれいごと、ダブルスタンダードととってくれて構わない。

 今までは弟を憎み、恨み、死んでほしいとまで言った。だが実際に死なれてしまうと全く違うものがあった。

 以前本随筆にも登場したことのある家族ぐるみの付き合いのある一家……K家。K家の面々はご両親と三人兄弟が全員駆け付け、K母は母を、K長女は妹を支え、俺はK父に支えられた。K父もまたインパクトのある豪傑である。叔父も含め、体育会系の人間は頼りになる。葬儀会社がやってくると母と妹はもう立つことも座ることも出来ず泣き崩れてしまった。この日も俺は無力であった。

 やったことと言えば、葬儀会社の人間に、火葬開始のボタンを家族が押さねばならないのなら俺がやるということ、火葬後のお骨の解説は不要であること、骨壺に入れる際にお骨を破壊するのならその場面は誰もいないところでやってくれということを伝えたぐらいだった。

 いよいよ出棺となる。父はいない。

 兄猫のレオはずっと弟のそばにいた。人見知りが激しく、知らない人が来るとすぐに吐いてしまうレオは、入れ替わりやってくる人を静かに見ていた。そして葬式に猫は縁起が悪いというのを分かっていたのか、出棺前に弟を一瞥し、二階の部屋に戻っていった。

 霊柩車には二人までしか乗れなかったので母と妹を乗せ、俺はK家両親の車に乗せてもらった。

 その際には俺が幼少期から両親の板挟みにあっていたことを知るK家ご両親からお言葉をいただき、救いになった。

 火葬場での母と妹の様子を俺は生涯忘れることはないだろう。ここについては話さない。

 ただ、火葬場に現地集合で弟を知る母の友人や弟のボクシングのトレーナーさんにお会いできた。

 このボクシングのトレーナーさんには弟が死んだ日の翌日に会いに行く予定だったが、この日に俺は逃げたために会うことは叶わなかった。ここでようやくお会い出来、感謝の気持ちを述べている時に俺は初めて人前で泣いた。




 〇




 実家に戻ると父はもう病院から帰り、ベッドでひっくり返って眠っていた。体調が悪いのはわかるが、俺が帰宅後すぐに起こしても弟の遺影を見ることも線香をあげることもなく昼寝を続行していた。

 そして母は離婚を決意した。


 再び吐き気を催すようになっていた俺は一刻も早くアパートに帰りたかった。

 弟が好きだった寿司をとることになったが、火葬場の帰りから俺はマトモに喋れないようになっており、簡単な動詞や名詞を間違えるようになり、寿司の注文さえしどろもどろだった。寿司の注文の前に仏具店に買い物に行ったが、「ふくろ」と「くすり」を間違え、「くすりに入れてください」と意味不明なことを口走るくらいだった。


 父はまだ寝ていた。三人で食事をとっている最中、テレビをつけてみることにしたが、夕方のニュースは大谷であった。大谷にとってはとばっちりだが、俺たちはもう大谷翔平はまっぴらごめんだった。

 そもそも野球好きである俺ですら大谷翔平の報道にはうんざりだったのだ。野球選手は大谷翔平だけではないのに、他の選手がいくら活躍しても大谷に押し潰される。世にはびこる大谷ハラスメントはもともとからハラスメントに近いものがあると思っていたが、今後俺と母と妹にとって大谷翔平は見たくもない人物になった。

 その食事の場で、母は離婚を完全決断し、弟の死亡届の提出と同時に離婚届をもらってくることになった。この頃には吐き気も再発し、一刻も早くアパートに帰りたかった。


 三人で寿司を食べ、父の分は残しておいた。のそっと起きてきた父は弟の遺影に手を合わせたが線香はあげなかった。

 俺しかいないところで「あいつの人生の後半はよくなかった」と……。


 父は健康保険証を持たずに緊急搬送されたため、十割負担で医療費を払っていたため差額が発生する。その差額手続きを俺に命じ、戻ってきた差額は俺にくれるという。

 その話をしていたが、父は保険証を紛失したと言っていた。いつからだ、と訊くと一か月前から保険証がないという。どうするつもりだったんだ。


 やってられねぇ。もうこの父とは一緒にいられない。

 帰り際、父に呼び止められ、何かと思えばタバコを買ってこいとのことだった。

 今まではズレた父だと思っていたが、この数日での幻滅はひどく激しいものだった。


 こうして俺はアパートに帰ってきた。

 父が田舎に帰ったら、入れ替わりで俺が実家に戻り、しばらくは実家で暮らして実家から通勤することになる。もしかしたらアパートは引き払うかもしれない。本随筆ではにゃんにゃん回で触れた二匹の猫とも一緒にいたいし、母も支えてやりたいのだが、火葬から帰ってきた後は弟の遺影を見ると吐き気が止まらなかった。この家に戻って暮らしていけるのかが心配になった。

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