第23話 三篠森・N、自死遺族になる。
弟が死んだ。自殺だった。
妙な気配はあったのだ。転職後のタイムスケジュールがぴったりとあっていた俺は、通勤中にすら眠気を覚えなかったが、今日は眩暈がするくらいの眠気に襲われ、電車の中で眠ってしまった。乗換駅は終点である。転職前は終点であるこの駅に着くと自然と目覚めたのだが、今日は危うくそのまま折り返しになるところだった。
乗り換え先の地下鉄は、いつも乗る便に間に合わず一本見送った。すると母から電話がかかってきて、「弟が死ぬ」と。
ちょうど、この頃祖母も余命一か月もないだろうと宣告されていたので、そちらだろうと覚悟はしていたが、弟だった。
俺と電話が繋がっている時はまだ心拍があったそうだが、俺は地元に帰って父に電話すると父にはもう弟の他界が告げられていた。
死んでしまった。
……。
……。この回を出すのがいつになるのかはわからない。わからないが、俺は弟が他界した晩にこれを書いている。弟が逝去して12時間程度だが、実感らしい実感はない。まだ湧かない。不謹慎やネタ稼ぎと思われるかもしれないが、今日しかない感情もあると思う。何よりじっとしていられないため、キーボードに向かっている。
朝、母は病院? か 警察? から戻ってこられず、俺は一足先に実家につくと、弟の遺書があった。母が仕事から弟の病院へ直行したならば、俺が遺書の第一発見者かもしれない。
そこには生きることに限界を感じ、友人、弟のボクシングのトレーナー、訪問看護師への感謝と謝罪、まだまだ書きたいことはあるが書けない、という旨が認められていた。家族については言及がなかった。
詳しいスケジュールは俺も把握していないが、検視の問題があり、今日中に俺がやれることはいっさいない。葬儀業者への連絡等も全て母がやってしまい、俺の出番がない。しかし母の号泣は止まらない。
出番らしい出番と言えば、この随筆では人畜無害な人物と描かれがちだが社会的地位は高いが弟級にぶっ飛んでいるノンデリカシーサイコパスの父と母を引き合わせないことである。
父は東京に来るなり食事の心配をし、母が食事など出来ない状態だとわからない。
俺が連れだして隔離せねば、と思うと「町中華に連れていけ」とわがままを言う。今日、人が死んでいるのに。母は父のその無神経さに再び号泣してしまう。
俺が連れだした町中華でも野球の話をしていたり、帰りに食事をとる気力のない母にゼリー飲料を買おうとコンビニに寄ると「アイス食いてぇ」とアイスをねだり、買い物カゴにウイスキーを入れている。そもそも町中華で残す程大量に注文し、生ビールも二杯飲んでいるのだ。
さすがにそれは不謹慎だろうと、普段は父の言いなりの俺も異を唱えると、
「それとは話が別」
「お母さんはそんなことで怒るのか?」
「部屋で隠れて飲む」
「男親の気持ちぐらいわかれ」
「俺はあいつとは何年も会っていない」
と俺には理解不能の言動を繰り返していた。
ちなみに離れて暮らしている妹(それでも都内)は、ショックで動けなくなり、今日は家に戻らず恋人と過ごすという。その妹に、一番つらい母を一人にして町中華なんか行ってるんじゃねぇよと憤慨されたが、母から事情を話してくれたようで「父の頭がおかしい」ということで許しを得た。
俺は午前中に家で一人になり、弟の部屋に入って一人で嗚咽を漏らす程泣いた。
だがその感傷は一瞬にして消え去り、淡々と、淡々とこのあと帰ってくるであろう母と無神経の父をどう隔離するかばかり考えていた。
この辺りから急激に体力が失われ、立っているだけで眩暈がし、椅子から立ち上がれないくらいの立ち眩みに襲われる。
それでも俺にはやらねばならないことがある。まずは喪服や持病の薬などをアパートから実家に移送し、しばらく実家で過ごすことで母を一人にしないように用意する。
あとは伸びすぎた髪を切りに行った。奇しくも弟も同じ美容院に通っていたので、弟の担当者様に弟の他界を伝えた。
今は本当にすることがない。
ただただひたすらに泣きじゃくる母が変な気を起こさないようにすること、無神経の父が余計なことをしないよう引き離すこと、今は穏やかになった妹が父の無神経行動で短気時代に戻ってしまわないことなど、俺は家族の板挟みである。ずっとそうだった。ずっと俺は両親がケンカをしないかと、顔色ばかり窺ってきた。
これを書いている時点で、俺は風邪一週間突入である。一時は39度まで熱が上がり、咳が止まらず喉も爆痛、鼻もビシャビシャ。コロナは二度検査したがかかっておらず、インフルでもなかったが、今日の夜からまた咳が止まらず呼吸するだけで喉と肺に何かが絡む。
……。
とても困ったことに、弟に対する俺の感情はまだほとんど湧いていない。
だが弟が非常に苦しかったのだということはわかった。その苦しさを分かっていたはずなのに、のんべんだらりとしていた医療関係者への怒りは正直禁じ得ない。
そのうち書こうと思っていたことを今日書く。
弟の医師はヤブ医者だ。
Xでは書いたが、以前弟の主治医に会いに行くことにした。
しかし、北欧式のオープンダイアローグというものを採用している医師は、
「弟さんのいないところではお会いできません」
と俺と合うことを拒否。なので俺は自分の活動をまとめたUSBを母に託した。このUSBには、口下手な俺が自分のカウンセリングや保険相談所、包括支援センターなどに相談に行くとき、口頭での説明を省略するために作成した我が家の現状がファイル一つあたり3000~5000字でまとめられている。ここに関し、医師にどうこうしてほしいとか何を望むとかは一切書いておらず、直接医師に宛てたものすらない。母にもそれを説明している。
その上で、医師は変わらず
「お兄さんとは会ったことがないので」
「弟さんのいないところでは読めません」
と受け取り拒否。会ったことがないから直訴したのに、それすら拒否だったのだ。それを知った俺は一人激高し、Xにて大逆鱗クラッシュを発動させた。
Xでも書いたが、
・他人に危害を加える。
・本人も死にたいほど悩んでいる。
・自分で判断・行動できない
この状態の人間に対し、「本人の意思を尊重する」というのは明らかに無責任ではないだろうか。こちらの方が人権……我が家のケースでは人命の軽視ではないだろうか。
弟は常日頃から「兄貴(俺)を殺す」という傍らで、自分の辛さも十分すぎる程に主張しており、
「死ぬ勇気がないから殺してくれ」
「眠れない」
「一度眠ったらもう目覚めたくない」
と母に言っていた。
↑の状態は7年続いていた。7年間医師は何をやっていたんだ。自分がやりたい慈善活動や本の執筆をするよりも、自分を頼ってやってきた患者や患者家族によりそい、正常な判断を下すことは出来なかったのだろうか。
正常な判断を促すのではない。正常な判断を医師が下すことだ。その権限、あるいは義務が、医師にはなければならないのではないだろうか。ここから先は嫌味でもなんでもない。医師という世界中どこをとっても最高の教育を受けてきた各国の秀才にして碩学である方々は、とても頭が良いのである。だからこそ、そうでない人間を導かねばならない。時には「促す」ではなく「下す」でなければならない。特に正常な判断力を失っている人間を相手にするメンタルの医師には特にそれが強く求められる気がする。
睡眠の薬が合わないから眠れないのなら、変えてやることは出来なかったのか。確かに、変化を極端に嫌う弟は薬を“自分の意思”で変えることを拒否した。
だからといって効き目のない薬を処方して、それで医師は仕事をしていた気になっていたのか。一般の人間に薬の知識などなく、それを適切に処方することが医師の役目だろう。その判断を促すことだってできたはずだ。
しかもこの医師は「促す」すらしていなかった。ただただひたすらに、弟に対して「尊重する」……即ち「任せる」であった。
拙作『アブソリュート・トラッシュ』でも少し触れたことがあるが、ちょうど俺ぐらいの年齢から始まって弟の年で終わった“ゆとり教育”も、この医師が採用していた患者の意思を尊重する“オープンダイアローグ”も、最終的には自己判断に委ねられる。
だがそれは権利の自由、自由の権利のもとに、自己判断という“自己責任”に帰結すると俺は思っている。
極端な話だが、大谷翔平と全く同じ身体能力を持ち、漠然と野球選手になりたい人間……大谷Bがいたとして、大谷Bにやる気がなければ大谷翔平にはなれない。大谷翔平はゆとりの中にあって自らの判断で鍛錬と自制、求道を選んだ。大谷Bは類まれなる才能を持ちながらも、「本人が望んだから」とテキトーな鍛錬をすればああはならない。一方の大谷翔平は「本人が望んだから」常人には理解の及ばぬストイックを持って大谷翔平として君臨している。これは結局、どちらも自己の判断だ。大谷Bが大谷翔平になれなかったのは自己責任ということになる。
一応大谷翔平には栗山英樹氏のような比較的強い力で導く恩師がいたからこそだが、そう考えると、やはり強い力で指導・教育・判断する大人は必要なのである。
弟の主治医にはそのどれもがなかった。ここまで事態を悪化させたのも、患者の自殺という最悪の事態を以て終わりを迎えたことも、全ては医師の責任であると俺は考えている。
USBの受け取りを拒否されて以降、次回では少し社会派? にオープンダイアローグに対する疑問でも提起しようかと思っていたが、明らかにこれは欠陥である。
目の前で死ぬ程苦しんでいる人間がいても、“自己判断”というきれいごとのもとに“自己責任”を強いるこの療法に一体何の意味があるのだろうか。きれいごとで慈善活動をする前に、目の前で死ぬ程苦しんでいる人間がいるという喫緊の危機を見抜くことは出来なかったのだろうか。
そして、この医師の「意思を尊重する」のとおり、自らの死を願っていた弟は死を選んだのである。それを弟が判断したのだから、弟の不眠は薬を変えたくなかった弟の判断であり、弟の死も不眠も“権利の自由”“自由の権利”として“自己責任”となるのである。
ただただ、どこにもやりようのない、抽象的でかたちのないもやもやと、くっきりとした形で切り抜かれた無責任な医師への怒りが存在し、家族の不和ばかりを気にしていて弟がいなくなったということにまだ直面出来ていない自分がいる。
そのもやもやにはまだ悲しみが付随していない。死ぬ程辛かった弟がもう辛くないことへの安堵がどこかにある。だが一番大きいのは、八つ当たりかもしれないが医師への怒りだ。
この随筆が今後どうなっていくかはわからない。
ただし続きは書く。書かねば気がおかしくなる。




