第19話 窓ぎわの三篠森・Nちゃん
今回は経過や状況の報告ではなく、珍しくほのぼの回、そして回想回だ。
今回のテーマは“恩師”である。俺も弟も両親のすごさからすれば落ちこぼれもいいところだが、俺は恩師に恵まれ、弟にはそういう人がいなかった。
能書きから行こう。
『窓ぎわのトットちゃん』を読んだ。映画化されるということもあったし、生前は理科教師だった祖父の本棚。歴史書や学術書、科学の本ばかりの棚に一冊、異彩を放つ『窓ぎわのトットちゃん』。流行りに乗るような祖父ではなかったし、祖父の勤めていた学校は確か理系の学校だったので……理系の高校生が本を読まないって言ってるんじゃないが、なんか毛色が違った。
黒柳徹子氏は発達障害であるとする説がある。実際『窓ぎわのトットちゃん』、先日読み終えた『続・窓ぎわのトットちゃん』でも「普通じゃねぇな……」と思う描写はたくさんあったのだが、『窓ぎわのトットちゃん』では小学校を退学になった後のトモエ学園で出会った小林先生を生涯の恩師と仰いでいるのがヒシヒシと伝わってくる。それが大きな支えとなっているのだ。
弟は高校に入れなかった。
学力不足だ。そして単位制のサポート校に通うことになるのだが、弟にとってはそれがコンプレックスであり、今でも
「俺をあんな所に入れやがって!」
と恨み辛みを母にぶつけ、母は「あの子をあそこに通わせたのは間違いだった」と悲しんでいるが、じゃあどうすればよかったのか。中卒即ニートか。弟は黒柳徹子氏にとっての小林先生のような存在に出会えなかったのだ。
じゃあ一方の俺は?
俺も実は高校を出ていない。
難関や一流ではないが、アバンギャルドな校舎の進学校に通っていた。一学期は無遅刻無欠席であったが、一年生の夏休みに極度の睡眠障害を発症。眠れないし、一度眠ると起きられない。二学期以降はほとんど通学できず、当然気持ちも落ち込み、学校側の配慮もあったが出席日数不足をクリアできず留年した。俺自身は睡眠が治る見込みがないと思っていたので、在学させたいという両親の気持ちを押し切って中退した。
だから弟がおかしくなったのは、俺がこの時高校を辞めたせいである。今まで隠してきたが、俺のせいなのである。今でも弟は
「兄貴がニートやってたんだから俺だってやっていいだろ」
と言っている。
その後、二年間は睡眠障害との闘病。終わりの見えないニート生活。
そして18歳になった時、母が「予備校の説明会に行く」というのでこれは自分を変えるチャンスと思いついていき、即入学した。翌年(周りが大学一年生の年)に俺は高卒認定試験9科目をクリアして大学受験に臨む。この頃は睡眠障害もよくなっていたため、草野球に精を出す。
草野球、自転車長距離旅、ポケモン、モンハン、小学校だけ一緒だった親友で当時浪人だった親友とパチスロ。そして草野球に精を出し過ぎ、そしてブランクの長さが災いし、父が期待した「早稲田大学、ダメなら立教大学」をクリアできず……。
まぁ妹に学年を追いつかれたが、俺は大学に行ったのである。
予備校時代も俺のようないわくつきの若者が集う予備校だったので、昼は時間のあるお水のお姉さん、刺青の入った外国人もいた。みんな事情があったのだろうから必死だったが、俺のようにただ怠けていたからあの予備校に通わなければならなかった人間は少なかった。
あの予備校では生徒一人一人に担任がつく。名前は当然伏せるが、俺はそこで一人目の恩師と出会った。女性の先生で元気が良すぎてハスキーボイスだったが、声が大きいのは授業だけでなく西武ライオンズの応援も理由の一つだった。
現代文・古文・漢文の先生であったが、俺は現代文だけならナンバーワンであったので気に入られていた一方、古文・漢文、他の科目のサッパリさはどうにかしようと何度も諭されたにもかかわらず、あの先生の声に応えなかったなぁ……。
既に↑で言っているとおり、父からの要望は「早稲田、ダメなら立教」。
この程度で特定はできないだろうが父が早稲田で、なおかつ「巨人よりも王・長嶋が好き。王よりも長嶋が好き。野球よりも長嶋が好き」。そんな父は長嶋茂雄の母校である立教に俺を入れたかったのだ。
俺の大学は低偏差値だが歴史は長く、特殊な事情で女子が非常に多く、学生数が少ない。だがそんな校風のおかげか、すれ違ったらビビるようなチンピラやヤンキーはおらず、無気力なゾンビが集まる大学だったが、これが俺の性にあっていた。
周囲より二年遅れで入ったこの大学、それでも父は入学後一年くらいは
「今すぐやめて勉強しなおし、早稲田か立教に入れ」
と言っていた。だが何度も言うが性に合っていた。
拙作『アブソリュート・トラッシュ』の最近影の薄いヒロイン望月鼎の通う大学は、通っている学生の雰囲気のモチーフが俺の母校である。
そこで俺は生涯の恩師に出会った。
俺の学科は人数が非常に少ない上に、専門性の高い学部学科の多い我が母校において何にも特化していないため、ここでも俺は落ちこぼれであった。
三篠森・N、大学一年生。2011年の4月である。2011年の3月11日の14時46分は大学の入学祝で親戚に貰った小遣いで服を買いに行き、余りでパチスロを打っていて被災したのでそこでパチスロとはきっぱり縁を切った。
そして新入生キャンプはナシになり、9月に日帰りバーベキューに変更になった。
さて我が母校我が学科の『基礎演習』なる科目は全学科生を四分割し、四人の教員で少人数で基礎の学力を学ばせるというものであり、俺の担当はいつも笑顔なイケメンだが言動が非常に厳しく、シビアで恐れられている先生だった。俺は春学期はその先生に怯え続けた。ただしこの先生は理不尽なことは絶対に言わないし、出来ないことを無理に求めない。だが手抜きやサボり、遅刻はガンとして許さない。
そして迎えた9月のバーベキュー。当時まだ酒が飲めた俺は前日、中学時代の友人と明け方まで『攻殻機動隊SAC』『東のエデン』『水曜どうでしょう』などのトークをしていたためとても飯が食えるコンディションじゃなく、キャンプ地までのバスで吐かなかったのが奇跡であった。
どこの山奥かもしれぬ場所でバーベキューが始まり、女子にご飯をよそってもらったりお肉をとってもらったりするが箸が進まず……。
しかし、このバーベキュー会場から離れた場所に喫煙所があったことは確認済みだったため、俺は一人下山してタバコを吸った。そして戻ってきてすぐ、イケメン先生に見つかり、
「どこへ行っていたの?」
と訊かれたので
「祖父と電話してました」
と出来の悪いウソをつく。当然見破られる。笑顔で。
「タバコでしょう?」
「ヘェ……タバコです……」
「僕もタバコ吸いたいんだけどね。近くの喫煙所に一人で行くのは嫌だったから、一緒に行かない?」
と誘われた。そこで俺はタバコを吸える年齢であることを明かし、浪人時代は何をしていたのかと訊かれてブックオフで北斗神拳を学んでいたと答えた。
「何か使える奥義はあるの?」
「自分の健康を壊せます」
それで俺は気に言ってもらえた。何かと気にかけてもらえるようになり、喫煙所で『北斗の拳』『キン肉マン』『攻殻機動隊』などのトークで盛り上がるようになり、1年生も終わりが見えてきた。俺は2年生からイケメン先生のゼミに入ることに決めた。
そこからは本当に気にかけていただき、ゼミの終わる18時から21時まで喫煙所で院生や非喫煙者の俺の友人、後輩も交えて話したりした。人生で一番楽しい時間だった。
オープンキャンパスで公開授業をやれと指名されたり、『超常現象研究会』に人数が足りないから助けてやれと言われたり、後輩のフィールドワークの引率を任されたりと……。
だが俺はまた落ちこぼれた。
先生の授業はサボらなかったが、他の授業はサボっていた俺は四年生の後期まで履修を詰め込み、四年後期の取得単位で卒業単位にピタリ賞。当然就活をする時間はなかった。
二度目のニート突入。10月に父の縁故で就職が決まるまでも先生に会いに行ったが、
「とてもじゃないが観られる姿じゃなかった」
と後に言われた。
2019年にも諸事情で突如職を失う(契約職員として入職したが、突如契約打ち切りを言い渡され、その時に自分が育休代替だったと知らされる)。
その間も先生には会っていたが、
「とてもじゃないが観られる姿じゃなかった」
と後に言われた。
とはいえ、社会的に死んだも同然の痛恨の無職、多分お気に入りであったはずなのに落ちこぼれた痛恨の無職を見捨てず、食事に誘ってくれたり「暇ならキャンパスにおいで」と誘ってくれたのは有難い話だ。
俺にとっての小林先生はあの先生だった。
予備校の先生も当然恩師だ。
大学も低偏差値で所謂Fランだが、今でも付き合いのある友人と今でも付き合いのある恩師、恩師の縁で今でも食事をする後輩と、とても恵まれていた。
そういう訳で、恩師と出会った大学生活。決して高度な学びを得られる場所ではなく、人にはあまり言えないくらいのレベルではあるが、それでも俺はあの大学に行けてよかった。
多分、一般的に想像される名門大学でも同じように恩師となる人物はいるだろうが、俺が出会った恩師はあのイケメン先生だった。
そういう人がいればよかったのにな、弟にも。そういう人がいなかったから、弟の時間は中学生で止まっている。