フォルテカの奇跡③
フィランセには英傑がいた。
民を導いたカーライルと、軍をまとめ上げたケインが。
シルキスには英雄がいた。
民を守り死闘に身を投じたアイリスとその仲間たちが。
クルルカには愚者がいた。
民を見捨て、彼らの逃げる機会すら奪ったステファンが。
嗚呼、哀れなるかな……彼らに何の差があろうか。
ただ、運が悪かっただけ。所詮、民は上に立つ者を選べはしないのだから。
「お願い。だ、誰か、助けて」
片手に幼子を抱えた男が走る。もう片方の手には……かつて妻だった女の手だけがしっかりと握られていた。
大地が揺れ、バランスを崩した男の腕から投げ出された幼子が……地面から出現した巨大な手に囚われる。
「あ、あ、あああ……」
男はただ震える手を前に伸ばした。
けれどもその手が幼子に届くはずもなく、男はぺたりと地面に尻をつく――その手に妻の腕を抱えて。
その口が呟くのは死んでしまった妻の名か、それとも死にゆく我が子の名なのか。いや、それは些細な問題に違いない。
どちらにせよ汚染獣の腹の中で、彼らは再会を果たすのだから。
鋭い牙の並んだ口が開がかれ、タールのような黒い液体がポタリポタリと石畳を叩く。そこから漂う腐臭は、紛う事なき死の匂い。
泣きじゃくる幼子が声の限りに父を呼び、ハッと我に返った男がヨタヨタと立ち上がる。
「やめて!やめてくれぇぇぇぇぇ!!」
男は食い千切られる我が子を幻視した。
バシュン!
男に訪れる筈であった“死”の運命を捻じ曲げたのは――一条の光。
幻の如く消えた汚染獣に……宙に放り出された愛しい我が子。
「うわああああああああ!」
奇跡の余韻に浸る暇なく、両手を前へと突き出しながら男は走る。
その叫び続ける口からは涎が止めどなく溢れ、赤く充血した目は限界まで見開かれている。血と汗にまみれ、幽鬼を思わせるその顔色は酷いの一言。
だが……それでも彼は父親であり続けた。最後まで我が子を見捨てなかったのだから。
間一髪、幼子を受け止めた男は一度後ろを振り返り、地面に落ちた妻の腕を見る。
「……ごめん」
そのまま両腕で我が子をしっかりと抱いた男は、先程とは別人のように力強く大地を蹴った。
「神獣様、どうかお守りください!」
『見事。その調子ぞ』
ヴィルヘルムに励まされながらルーファは次の矢を番える。
最初に放っていた矢とは違い、内包する力は汚染獣1体を倒せる分だけ。汚染獣にギリギリまで気付かせないことが狙いだ。
ルーファの藤色の目が淡く輝き、過去と未来が入り乱れる。
瓦礫の中を進む汚染獣と、獲物に襲い掛からんと瓦礫から飛び出した汚染獣。
2つの映像が交差して、ルーファに道を指し示す。
「ここ!」
放たれた白銀色の矢は狙い違わず、今まさに獲物に襲い掛からんとしていた汚染獣を貫いた。
ふぅ、と息を吐いたルーファにヴィルヘルムから声が掛かる。
『次は街全体へ矢を降らせよ』
「でも、避けられるんじゃ……」
ルーファは不安気に呟いた。
どうやら汚染獣はルーファの力を感知しているようなのだ。
矢が近づけば地中や瓦礫の中へと身を隠すため、チマチマと1体1体倒している次第である。
その代りと言ってはなんだが、ルーファの力を警戒した汚染獣も派手に動いていないのが救いか。
正に一進一退と言うべき現状なのだが……時間はルーファの味方だ。今この瞬間も、自分達はクルルカへと距離を詰めているのだから。
『飢餓に負けて動き出した汚染獣が相応の数おる。牽制して動きを鈍らす必要があろう。派手に行け』
「分かったんだぞ!」
ルーファは集中する。
そうすれば不思議と音が遠のき、ルーファはクルルカの真ん中にいた。
(……雨を降らせて)
声が聞こえる。
懐かしいような、よく知っているような……そんな声だ。
そしてその声はいつも正しくルーファを未来へと導く。
(……見て)
言われて空を見上げれば、ルーファの力が雨となって降り注いでいる。否、降り注ぐのはルーファ自身。
小さな小さな粒子となりて、ルーファは街へと落ちていく。瓦礫の隙間を抜け、排水溝の流れに身を任せ……ルーファは街を己で満たす。
やがてルーファを恐れた汚染獣が地中深くに潜り込み、街からその姿が消えた。
「より小さく、より細く」
ギリリとルーファは弓を引く。
「ありとあらゆる隙間を満たす……それが最善の未来」
ピイィィィィィィィン
弾かれた弦の音が空気を震わせた。
ルーファが集中したのを見計らい、ヴィルヘルムは他の者へと計画という名の命令を伝える。
『シュヴァリエ、アデルバート、ローゼマリー、汚染獣と戦闘経験のあるそなたらが皆を率いよ。行き先はアンセルムだ」
「「「はっ!!」」」
この3名が竜種最古参。
〈大災厄〉直後に生み出された彼らが最初に戦った敵こそ、汚染獣であった。
生まれたばかりの竜種にとって汚染獣は格上も格上。過酷な戦闘の中で彼らが生き残れたのは、ヴィルヘルムが手ずから鍛えあげたからに他ならない。
その結果、彼らが竜王種へ進化したのもまた必然か。5000年経った今でさえ、彼ら以外に進化へ至った竜種は存在しない。
『そなたらの目的は戦闘経験を積むこと。決して目的を履き違えるでないぞ。害虫駆除はガッシュとロキが行え。良いな?』
「「おう!!」」
ガッシュはリベンジに燃え、ロキも初めての大規模戦闘に残忍に嗤う。
『我が鍛えたのだ。無様な戦いは許さぬぞ。特にガッシュは瘴気の排出を確実に行え。もし、戦いを終えて瘴気が体内に残っておったら……分かっておろうな?』
「…………おうふ」
一気にテンションの下がったガッシュが力なく返事をし、次いでヴィルヘルムはロキへと注文を出す。
『ロキは接近戦を鍛えよ。遠距離攻撃は禁止ぞ。一発でも攻撃を喰らえば鍛え直す故に、そのつもりで戦うことだ。良いな?』
「…………はぃ」
こちらも興奮が冷めたのか黒く染まっていた眼球が元に戻り……いや、どちらかと言えば涙目である。
そもそも確実に数百万体はいるであろう汚染獣相手に接近戦を挑むこと自体無謀であるというのに……再教育は確実だと言えよう。
テンションマックスな竜種と、お通夜かと言わんばかりに悲壮な顔つきのガッシュとロキ。
そこには汚染獣に対する危機感など微塵も感じられない。いや、それも当然のこと。
ヴィルヘルムがいる限り、彼らの勝利が揺らぐことはないのだから。
「あ、あの。わたくし達は何処へ向かっているのでしょうか?」
おずおずと切り出したのは、今まで事の成り行きを見守っていたキアラだ。
彼女の得ている情報はフォルテカに汚染獣が攻めてきたことだけ。その規模も、今国がどうなっているのかも全く知らないのだ。
彼女の質問に答えるように、直接脳内に映像が流される。
赤く燃え上がる壁の向こうに蠢くおぞましき獣たち。
死せる大地を地鳴りの如き足音が揺らし、瘴気渦巻く大気に身の毛のよだつ咆哮が響き渡る。
キアラの目に映るのは、どこまでも続く終わりなき汚染獣の大群。
死だ。それは顕現せし死そのもの。
“死”が見つめている――喰らうために、殺すために、滅ぼすために。
“死”が見つめている――蹂躙するために、虐殺するために、惨殺するために。
奴らの視線の先にあるのは……1つの街だ。
「い、今のは……」
キアラは息を荒げて周りを確認する……が、周りを見回しても汚染獣などいはしない。だが、それは決して幻などではあり得ない。
カチカチと音を立てる歯も、震える身体も未だに恐怖を覚えているのだから。
「キアラ様、クルルカです。あの街はクルルカです」
どこか顔色の悪いアルブレヒトが早口でまくし立てる。
ここで初めてキアラは汚染獣が何処まで迫っているかを知った。クルルカが襲われているのなら、それより東は……あの炎の壁の向こう側。そう、先程見た汚染獣のただ中だ。
キアラは頭を振って湧き上がる恐怖を追い払う。
恐怖で震える暇など有りはしない。今考えるべきことは、これから救える民のことのみ。
キアラの眼が無意識の内に炎の壁へと向く。それこそがフォルテカの生命線。
破られれば絶望がやって来る――破滅をもたらす死の軍勢が。
「竜王様。質問をお許しください。あの炎の壁はいつまで燃えているのでしょうか?」
『安心せよ。我の望む限り消えることはない。そなたはクルルカの民を一箇所に集めることに注力することだ。覚えておけ。我はルーファと違い甘くはない』
それは邪魔になれば殺す、という宣言。
だがヴィルヘルムの言葉にキアラが感じたのは、恐怖でも焦燥でもなく……深い安堵だ。皮肉なことに、絶望の深淵を覗き見たことが彼女の心を強くした。
「わたくしは心得違いをしておりました。小を捨て大に就く、それが国を預かる者の心得だと言うのに……恥ずかしい限りです。貴方様が貴方様の仕事を成すように、わたくしはわたくしの仕事を成しましょう。覚えておいてくださいませ。どのような結果になろうと、わたくしは貴方様に感謝いたしますわ」
しばしの沈黙の後、ヴィルヘルムは一言告げる。
『1つだけ力を貸そう。そなたの声はクルルカの民全てに届く。後はそなた次第ぞ』
人々が奇跡に気付いたのはいつだったか。
遠くに炎の壁が立ち昇った時か、それとも白銀色の矢が汚染獣を消し去った時か。
いや、そのどちらでもない。確かにそれを目撃した者もいたが……それは少数に過ぎなかった。
始まりは“雨”。
晴天の中、白銀色の雨が降り注ぐ。
それは小さな小さな光の粒子。汚染獣を滅ぼすことも出来ぬ弱き光。
されどその雨は絶え間なく降り注ぎ、汚染獣を地中へと追いやった。
雨が大河となりやがて海へと至るように、光の粒子は大地を潤しやがて奇跡へと至る。
一斉に芽吹いた若葉が色取り取りの花を咲かせ、木々が実りをその身にまとう。
傷ついた者には癒しが与えられ、正気を失った者には静謐さがもたらされた。
静まり返った街中で、誰もが空を見上げたのは必然か。
そこに在るのは――天を優雅に泳ぐ赤き神話の竜。
やがて竜は人へと変わり、クルルカの街へと降り立った――その手に1柱の神獣を抱いて。
これが“奇跡”の始まりだ。




