初めての友達
原魔の森の中心部に魔湖と呼ばれる湖が存在する。
本来なら魔物が近づくことすら許されぬその場所は、今では見る影もなく荒れ果てていた。
木々がなぎ倒された大地には巨大なクレーターが幾つも穴を穿ち、それはさながら何かの巣穴のようにも見える。
もし上空からこの光景を見る者がいたのなら、我が目を疑うことだろう。
完膚無きまでに破壊された痕跡が、まるで時を巻き戻したかのように修復されていく。これは原魔の森に備わる修復能力だ。木々が大地を覆い、元の姿を取り戻すのも時間の問題だと言えるだろう。
そんな魔湖の片隅に一匹の巨大な竜と人が向かい合っていた。
「つまり、アレか。このまま行けば俺は化け物に変わっちゃうってこと!?」
『そうだ』
男はため息を吐きガリガリと頭を掻きむしると勢いよく立ち上がる。
「女だ!!」
そう叫ぶなり走り出した男を、彼は無言で前足で踏み潰した。
「うおおおおおおお!!放せ!俺は女を抱きに行く!童貞のまま死ねるかっつうの!!」
『まさか童貞なのか?』
雌は強い雄に惹かれるものだ。自分が敗北したほどの力を持つこの男がモテぬことなどあり得ない、と言うのが彼の常識である。
彼としては素朴な疑問のつもりで発した言葉が男の心を木っ端みじんに打ち砕いた。
急に動かなくなった男に彼は慌てて前足を退ける。
『どうした?具合でも悪いのか?』
彼としては珍しく、その声音には心配の感情がハッキリと滲み出ている。
「どうせ俺なんて……モテないし……平凡顔だし……何の取り柄もない男ですよ……ハハッ」
『何故そこまで自己評価が低いのだ?そなたは強いではないか』
逃げられぬようにと両手でガッチリ男を掴んだ彼はベロンベロンと男を舐める。彼なりの慰めである。
無言で男は彼の顔を遠ざけようとするが、如何せん男の腕より彼の舌の方が長いのだ。無駄な足掻きである。
満足した彼は屍の如く動かなくなった男を解放した。
『話は最後まで聞くものだ。我はこのまま行けばと言ったであろう』
彼は先程からアカシックレコードを駆使して助かる方法を検索していたのだ。とは言っても異世界召喚自体、行われたのがここ最近の出来事のようで事例自体が少ないのだが。
それでも彼が調べたところ、汚染獣へ変わらなかった者が複数名存在することが分かった。その共通点がこの世界の住人との間に子を儲けたことだ。
彼の話を聞いた男が復活を遂げる。
「ふっふっふ、つまり俺の行動は何一つ間違ってなかったという訳だな!計算通ーり!!」
再び走り出そうとした男の行動を予測していた彼は、男をパクリと咥える。
「あ、あの……ドラゴンさん?離して欲しいんだけど」
『そなたはどうやら人の話を聞かぬようだ。我も付いて行くといったであろう?それに何処へ向かうつもりだ?永遠に森の中をさ迷うつもりか?』
しょぼんと大人しくなった男を再び解放した彼は、暫し悩む。当面の目的はこの男に交尾をさせることでいいだろう。だが問題は……今現在、交尾が出来る人種が破竹の勢いで滅んでいることだ。
『そなたと一緒に召喚された異世界人は汚染獣へと変わっておる。ガリリアント魔法帝国はソレらに滅ぼされたようだな』
「はあ!?嘘だろ!?」
既に知恵ある汚染獣が数多の汚染獣を従え魔法帝国を呑み込み、その勢いを落とさぬままに東へと進行している。このまま行けば遠からず大陸中が呑み込まれることだろう。
彼は自身の心境の変化を不思議に思う。
先程まではそれもまた良し、と思っていた筈であったが……何故か今は非常に不愉快に感じる。何としてでも汚染獣を駆逐しなくてはならないと思うほどに。
それに彼の懸念は他にもある。子供が出来れば汚染獣にならないことは確実だ。しかしそれは果たして子供が母の胎内に宿った瞬間なのか、それとも産まれ落ちた瞬間なのかが分からない。もし後者ならば、男が汚染獣に変わる確率が高まってしまう。
汚染獣発生のメカニズムを理解した彼は最適解を導き出す。
負のエネルギーを浄化する神獣であれば、男の汚染獣化を防げるはずだ、と。だが汚染獣は神獣を重点的に狙っているためか生存率が芳しくない。神獣の数は既に10体を切っている。急がねばならないだろう。
『我は嘘は言わぬ。行くなら北だ。大陸の西半分は既に手遅れだ。乗れ』
彼が男に背を向けると……
グオオオオオオオオオオオオオオ……
獣の雄叫びのような腹の虫が盛大に鳴り響いた。
「だって仕方ないじゃん。俺、碌な物食べてないし?火なんか起こす技術ないし?草と木の実で生きてましたけど何か?」
もぐもぐと口を動かしながら延々と愚痴を聞かせる男のために、彼はせっせと魔物を解体し焼いていく。とは言ったものの、彼は全く動いてはいない。
風が魔物を捌き、炎が生き物のように纏わりつき肉を焼いているのだ。ついでとばかりに岩塩を削って味を付ける。
彼は強くなるために魔石は喰らうが、他の食べ物は遥か昔に食べたきりなので味付けはアカシックレコード頼みである。
「いやー食った食った!ありがとうドラゴンさん!!あっ、ところで名前何ていうの?俺は伊集院聖輝。こっち風で言うとマサキ・イジュウインになるのかな」
彼が作った木のコップでゴクゴクと水を飲んでいたマサキが尋ねる。
『我に名はない。他の者は我を“叡智ある魔物の王”、もしくは“竜王”と呼ぶ』
「ふ~ん、じゃあ俺が名前つけてもいい?」
嬉々とした様子でせがむマサキに苦笑し、彼は頷く。その尻尾が嬉しそうに左右に揺れていることに彼自身は気付いていない。
「やっぱり強そうなのがいいよね!何てったってドラゴンだし!!やっぱりドラゴン関係の名前がいいかなぁ。ありきたりかなぁ」
うんうん悩み始めたマサキを彼は期待の眼差しで見つめる。
今まで感じていた退屈が嘘のように、彼の心は歓びに満ちていた。
かつて自分が竜王種であった時に戦った強敵との出会いよりも、古竜王種に進化した時の歓びよりも、何故か目の前の男との他愛のない会話が面白いと感じる。彼にとって初めての感覚だ。
「よし、決めた!今日からドラゴンさんはヴィルヘルムだ!苗字はドラグニルで!」
『ヴィルヘルム・ドラグニル?』
「むぅ。何かゴロが悪いな……。そうだ!ヴィルヘルム・セイ・ドラグニルはどうかな?聖輝の聖の字は別の読み方でセイっていうんだ。あ~でも俺の名前じゃ嫌かな?やっぱセンスないかも……たはは」
彼――ヴィルヘルム――は、苦笑いして頬をかくマサキにバクリと噛みつきガジガジと甘噛みする。彼の最大の愛情表現である。ちなみに、これがマサキでなければ上半身と下半身がお別れしていたことだろう。
『気に入ったぞ、マサキ。我は今日からヴィルヘルム・セイ・ドラグニルだ!』
「……そう、それは良かったよ……」
今までになくテンションの高いヴィルヘルムに比べて、涎でベトベトなマサキのテンションは限りなく低い。
「ところでヴィルヘルムって人に化けたりできるの?その姿じゃ街に入れないよね?」
『人化か?可能ぞ』
ヴィルヘルムは〈人化〉を発動させる。彼の身体に黄金色の紋様が奔り、徐々にその巨体が縮み始める。
そこに佇むは1人の美しき偉丈夫。漆黒と深紅の髪がサラサラと風に揺れ、金色の眼が柔らかくマサキを見つめている。
「…………ぜろ」
「今何と申した?」
2メートル近い身長を誇るヴィルヘルムは身をかがめてマサキを覗き込む。ちなみにマサキはギリギリ170センチ(自称)である。
「爆ぜろっつったんだよ!イケメン爆ぜろ!何?何なの?何でそんな美形なの?あれか、俺は引き立て役にもならない路傍の石ですか、そうですか」
そのまましゃがみこんだマサキは地面にのの字を書き始める。
「こいつが側にいたら俺モテないよね?永遠に彼女できそうにないんですけど……そもそもテンプレでいったら、人化したら可愛い女の子でしたとかそういうオチじゃないの?」
ブツブツと文句を垂れ流すマサキにヴィルヘルムの機嫌は急降下していく。感情を失いかけていたのが嘘のように。
「我では不満か?」
ヒヤリとした声が辺りに響き、次いで殺気が木々を揺らながら渦を巻く。ヴィルヘルムの口は笑っているが、その目は冷ややかにマサキを睥睨していた。
「とんでもございません!光栄でござる!!」
ピョンっと飛び上がったマサキは冷や汗を垂らしながら敬礼する。ヴィルヘルムはそんなマサキの髪を手で優しく梳き、耳元で低く囁いた。
「言葉には気を付けよ」
「……あい」
涙目でプルプル震えるマサキに留飲を下げたヴィルヘルムは、地面へ座ると木に背中を預け凭れ掛かる。
「もう眠れ。そなたには睡眠が必要であろう?」
「んじゃ、お言葉に甘えて。ふあ~、久々にゆっくり眠れそうだわ。おやすみ~」
ゴロンと横になったマサキは即座に寝息を立て始めた。
しばらくマサキを見つめていたヴィルヘルムは空へと目を向ける。宝石箱をひっくり返したかのような満天の星空は、とても世界が崩壊を始めているようには見えない。
「ヴィルヘルム・セイ・ドラグニル……我の名」
この日、名も無き“竜王”が初めて名を得た。
ヴィルヘルムが最も気に入っているのはセイというミドルネームだ。それはマサキの名の一部でもあり、彼との繋がりを感じさせる……まるで家族のように。
彼は未だ気付いていない。いや、自分の胸の内に宿るその感情が何なのかを知らない。
永き時を独りで過ごしてきた彼は漸く手に入れたのだ――友情と言う名の“愛”を。
もう一度彼は口の中で己の名を呟く。
それは大切な大切な彼の名前。
ルーファは姿はカトレア似ですが、性格はマサキにそっくりです。