大いなる誤解
ぺらり……ぺらり……
静かな室内にページを捲る音がする。
『え~と、確かこの辺に書いてあった筈なんだけど……あった!病気で身も心も弱った男に優しくして、その心を簡単にゲットする方法』
ルーファは書いてある記述に従い、〈万物創造〉でタライと氷水、そして白いタオルを用意する。準備が整ったところで口に咥えたタオルを氷水の中に浸け、バシャバシャ動かして冷やす。
『こんなものかな?むぅ、け、結構重いんだぞ』
しっかりとタオルを咥えたルーファはふらふらと飛翔しながら、水がザバザバ滴るタオルをソファーで眠るロキの顔の上で離した。
べしゃり!
衝撃で水滴が周囲へと飛び散り、ロキの髪と服が濡れる。白いタオルを顔面に張り付け、微動だにしないロキの姿はまるで死人のようだ。
事実、彼の鼻と口は濡れたタオルによって完全に塞がれ、呼吸をしている形跡はないのだが……超越種たるロキにとっては些細なこと。何の問題もない。
相手が普通の人であったのなら死んでいるだろう殺人治療を施したルーファは、その事実に気付かぬまま本の続きを読む。
『え~と、タオルは熱が下がるまで小まめに換えること……。熱が下がるってどういう意味なんだろ?取り合えず、冷やせばいいのかな?』
可愛らしく小首を傾げたルーファはカラン、と涼しげな音を立てる氷水へと目を向けた。
ここでの重大な問題は、神獣であるルーファが風邪を知らなかったことだろう。
その結果……
現在ルーファの目の前には服も髪もグッショリと濡れたロキが横たわっていた。
ソファーからポタポタと絶えず水滴が滴り落ちている、と言えばそのグッショリ具合が分かるだろうか。
これだけ冷やせばいいだろう、と治療に満足したルーファは再び本のページを捲る。
『え~と、次は……果物をあ~んって食べさせるんだな』
その言葉に、今まで為されるがまま暴虐に耐えてきたロキの手が動き、顔に乗ったタオルを僅かにずらす。そこから現れたのは期待に輝く眼差しだ。
『ロキ、オレはちょっと果物を取って来るから、ここで大人しく寝てるんだぞ!』
部屋を飛び出し、そのままキッチンへ向かおうと駆け出したルーファの狐耳が「ドォン!」という大きな音を捉えたのは、ガッシュの部屋の前だ。
『え!?な、何!?』
ガッシュの部屋の扉を凝視したルーファは、そろそろと扉……ではなく、僅かに崩れた壁へと近付く。
チョロッと鼻先を突っ込んでみたが、瓦礫が邪魔で中がよく見えない。少しその場で悩んだ後、やがて意を決したルーファはそっと中へと侵入していった。
ドン!
再び建物が揺れ、カラリと言う音と共に目の前が開けた。
『……!!!』
ルーファは驚きに目を見開き、その衝撃の光景を見つめる。
(……早く、早く戻らなきゃ!)
震える足を叱咤して、その場を離れたルーファの胸は早鐘の如く鼓動を刻み、まるで自分のモノではないかのようだ。
それでも何とか気付かれることなく、立ち去ることに成功したルーファは、自室の扉を閉めると安堵のあまりペシャンとその場に崩れ落ちた。
「ルーファ!どうした!?」
起き上がったロキがルーファに駆け寄り、その震える身体を抱きしめる。
『ヴィーとガッシュが……』
震える声で2人の名を呟くルーファに、ロキは粗方の事情を察した。
迷宮内を自由に把握できるロキは当然のことながらヴィルヘルムとガッシュの会話を盗み聞ぎしていた。
いや、ヴィルヘルムが盗み聞きを許していたと言う方が正しいか。彼がその気になれば、迷宮の機能を一時停止することも容易いのだから。
ロキの推測はこうだ。
ルーファは、ヴィルヘルムとガッシュが仲良しだと信じている。
何故なら、ガッシュに王位を授けたのはヴィルヘルムであり、ドラグニルがリーンハルトを優遇している事実を知っているからだ。
そのことを念頭に入れて考えれば、何が起きたのかなど自ずと知れるというもの。
ズバリ、ヴィルヘルムがガッシュを痛めつけている場面を見てショックを受けた、というのが真相だろう。
(……さて、どうするか)
ロキは頭を悩ませる。
あれはただの喧嘩だと誤魔化すことも考えたが、どちらにせよこれから先も起こり得ることだ……と言うか、かなりの頻度で勃発しそうである。
ならば早めに知らせた方が傷が浅いだろう、と結論付けたロキは、せめてルーファが傷つかぬように、と言葉を選ぶ。
「ルーファは……見たんだな?」
その言葉に勢いよく顔を上げたルーファは、ロキを凝視する。
『ロキは……知っていたの?2人が……その……』
口ごもったルーファに余程ショックなのだろう、と沈痛な面持ちでロキは頷く。
『いつから知ってたの……?』
「最初からだ」
『そんな!?オ、オレは……今まで気付かなくて……近くに、いたのに……』
ショックで目を見開いたルーファの声が徐々に小さくなり、その目に涙が浮かぶ。
「違うんだ、ルーファ!オレが気付いたのは偶然なんだ。だから、そんなに気に病むな。な?」
慌てて慰め始めたロキにルーファは首を左右に振った。
『……それは言い訳なんだぞ。オレは家族なのに気付かなかった。まさか……』
俯き口を閉ざしたルーファの痛々しい姿に、ロキは己の無力さを噛み締める。
どう慰めていいのかが、彼には分からない。どんなに頭脳明晰であろうと、どんなに精神が成熟していようと、彼には“経験”と呼べるものがないのだから。
例えルーファを抱き締めても、その想いに共感することはない。
例え慰めの言葉を口にしても、それはひどく薄っぺらいもの。
ロキにはワカラナイ――“心”というものが。
先に重苦しい沈黙を断ち切ったのは……ルーファ。
俯いていた顔をあげ、ルーファは真っ直ぐにロキを見つめる。その目は先程までの弱々しいものではなく、何らかの決意に満ちたもの。
ロキは思わずその目に魅せられた。
キラキラと輝く淡い紫色の光はこの世のどんな宝石よりも美しい。この輝きを守れるのなら、自分はどんなことでもしてみせよう――ルーファの望みのままに。
ロキの決意に気付かぬまま、ルーファはその胸に宿る思いを叫んだ。
『まさか……あの2人が秘密の恋人同士だったなんて!!』
「…………はい?」
イケメンは、間の抜けた顔をしてもイケメンだということが、この瞬間証明された。
脳がフリーズしたロキを置いて、ルーファは続ける。
『こんな近くに禁断の愛が転がっていたとは!何たる不覚!!ヴィーが、ヴィーがガッシュと熱いチュウを交わしてたんだぞ!!』
きゃ~、という黄色い悲鳴を上げながら床を転げまわる子狐。この世のどんな宝石よりも美しいと評された目は、実際には邪な妄想で輝いていただけだった。
とにかくルーファは見た!見たといったら見たのだ!
あの時、ヴィルヘルムがガッシュの頬を愛おしそうに撫でた後、その唇を奪うのを!
まあ、実際キスはしてないのだが……床上10センチのルーファの目線からはキスしている様に見えたのである。
ちなみに、ルーファとヴィルヘルムはしょっちゅうキスしているが、あれは家族のキスだとルーファの中で分類されている。
ヴィルヘルムとガッシュは家族ではないため、キス=恋人という構図ができあがってしまったのだ。
『オレは家族として2人の恋を応援するんだぞ!!』
立ち上がったルーファの目は決意に燃え、その熱き思いを代弁するかの如く、ぶおんぶおんと激しく尻尾を振っている。呆然とルーファを眺めていたロキが漸く現実へと立ち返り……
ニタァ
邪悪に嗤った。
彼は他人の不幸は蜜の味を地で行く悪魔。ルーファ以外の不幸は望むところだ。そもそもヴィルヘルムに対して良い感情など欠片も持ち合わせていないロキは、徹底的に邪魔してやろうと心に決める。
己の口を手で覆い、湧き上がる愉悦を巧妙に隠すと、ロキは真面目な表情を作り出した。
「いいかルーファ。オレたちは2人の関係に気付かない振りをしなければならない」
苦渋に満ちた声で語りながら、ロキはゆっくりとルーファに背を向ける――当然、気を抜けばにやけそうになる顔を隠すためである。
『え!?何で!?』
驚きに目を見張るルーファを振り返ることなくロキは続ける。
「もしオレ達があいつらの関係に気付いたことがバレたら……あの2人は別れるだろう」
『そ、そんなことないんだぞ!オレは応援してるんだから!!』
「ルーファはそうだろう。しかし世間は違う。あいつらは竜王と英雄王……2人とも立場と言うものがあるんだ。分かるか?もし恋人同士だという事が世間に知れたら……」
『し、知れたら?』
ゴクリ、と唾を飲み込んだルーファが信頼と言う名の眼差しをロキへと注ぐ。
「ガッシュは結婚を強要され、竜族は……ガッシュを排除しに動くだろう。そう!これは謂わば道ならぬ恋。誰にも知られてはいけないものなんだ」
『で、でも、オレ達が他の人に言わなきゃバレないんじゃ……』
意外と冷静な突っ込みにロキは内心舌打ちすると、そのまま作戦2に移行する。
「あああっ!オレは……聞いてしまったんだ!!」
膝をつき両手で顔を覆ったロキは悲痛な叫びをあげる――その姿は世界有数の名優のようだ。
いや、「万能たれ」と創り出されたことを考えれば、ある意味当然のことなのだろう。無駄にハイスペックな男、それがロキなのである!
まあ、迷宮の守護者に必要な技能かと問われれば疑問が残るところだが。
『どうしたの!?何があったの!?』
「実は……ヴィルヘルムがガッシュに話していたのを聞いたんだ。あいつはこう言っていた……もし誰かに我らの関係が知れれば、それが終わりの時ぞ。全てはそなたを守るため。許せガッシュ……と」
『せ、切ない!』
両前足を口に当てて目を潤ますルーファ。それを横目に見ながら、ロキは最後の仕上げをする。
「悪い、ルーファ。悪い……。オレは……知っていながら言えなかった」
目からツツゥと涙を溢し、苦しそうに顔を歪めたロキがルーファに懺悔する。このまま感情で押し流す作戦である。
『ロキ……大丈夫。大丈夫なんだぞ』
聖母の微笑み(?)を浮かべた子狐が、慰めるようにロキの手にそっと前足を重ねる。
『誰にも言えずに1人で苦しんでいたんだね。分かったんだぞ。これはオレたち2人の秘密……ヴィーとガッシュの恋の行く末を温かく見守るんだぞ……あの星に誓って!』
ルーファが前足で指した先には、ひび割れたガラスに映る曇天があった。




