明かされし過去の傷跡・上
ガッシュは今、ここに来たことを猛烈に後悔していた。
扉を開けるなり飛び込んできた赤く染まった部屋に、むせ返るような血の匂い。その中心で座っているのはヴィルヘルムだ。
戦闘の痕跡が至る所に刻まれたその場所にいながら、ヴィルヘルムの姿だけがまるで別世界の住人の如く一寸の乱れもない。
「……う……ぁ」
ヴィルヘルムが腰かけている物体から声が漏れる。
それはロキなのだろう。最早、以前の色男然とした姿はなく、所々部位の欠けた肉体は力なく倒れ伏している。血に染まった身体は赤に侵食され、ロキ本来の色は欠片も見当たらない。
バリっ……バリバリ……ゴクン
ヴィルヘルムの口からは耐えず骨を砕く音が聞こえ、まるで悪夢のようにロキの腕がその中へと消えていく。最後に残った指を弄びながら、ヴィルヘルムは口周りに僅かに付着した赤い液体をペロリと舐めとる。
それは直視するのも憚られる残忍な姿でありながら、何故か目を逸らせない吸引力があった。
「……何してるんだ?」
顔を盛大に引きつらせたガッシュの第一声は些か間の抜けたものであった。いや、そのまま引き返さなかっただけ立派なのかもしれない。
「見て分からぬか?躾だ」
しれっと答えたヴィルヘルムに罪悪感は欠片も感じられない。
手に持ったロキの指をスナック菓子のように口の中へ放り込み、ガッシュに見せつけるようにゆっくりと咀嚼する――獲物をいたぶる肉食獣宛らに。
ヴィルヘルムの金眼がガッシュの全身を値踏みするように見回すが、彼も伊達に英雄王と呼ばれているわけではない。ガッシュの目に浮かぶのは恐怖ではなく呆れの感情だ。
ロキが未だに生きている時点で、ヴィルヘルムが遊んでいるのは明白というもの。それ故の呆れである。
ただし、ガッシュもこれを躾と言い張るには無理があるとは思っている。いや、もしかしたらこれが竜族流躾の仕方なのかもしれない、と彼は強引に自分を納得させた。
「あ~ロキは……その、無事なのか?」
尋ねて見たものの、どうみても瀕死の重体である。先程声をあげたことから推測するに、辛うじて生きてはいるようだが。
「この程度で音をあげる筈なかろう。ロキ、返事をせよ」
ヴィルヘルムの言葉に、目に見えてロキの身体がビクッと震える。
「……はい」
意外なほどハッキリと響いたその声に、ガッシュは安堵の息を吐いた。
ルーファが目を覚ました時に、「加減を間違えて殺してしまいました」ではショックを受けること間違いなしだ。まあ、ガッシュもヴィルヘルムがそんなへまを犯すことはないと信じてはいるが……念のために釘をさす。
「あまりやりすぎるなよ。ルーファに嫌われるぞ」
ガッシュを鼻で嗤ったヴィルヘルムは、再度ロキに問いかける。
「バレなければ良い話だ。そうであろう……ロキ?」
その口調は普段のヴィルヘルムからは考えられぬほど甘ったるい。ただし、ソレはが含むのは媚でも優しさでもない……致死の猛毒だ。
「……決して言いません」
そこには以前の皮肉気な様子は欠片も見当たらず、小刻みに震える姿はまるで小動物のようだ。ロキの仕上がりに満足そうに目を細めたヴィルヘルムはその手をゆっくりと伸ばした。
「良い子だ」
優しくロキの髪を梳くヴィルヘルムの姿は慈しみに満ちている様に見えるが……ロキの震えが一段と激しくなったのは気のせいではないだろう。
(……これが躾の効果なのか)
非常に従順になったロキを見てガッシュは恐れおののく。
彼はルーファが眠った後すぐにメイゼンターグへ戻ったために、ロキとは一言二言言葉を交わしただけだったが……それでもロキが従順とは程遠い性格をしていたことは感じ取れた。
自信に満ち溢れたその姿は強者としての貫禄を感じさせ、ガッシュを睨みつけるその眼光の鋭さは咄嗟に身構えるだけの力があった……筈だ。今では見る影もないが。
現実から目を逸らし、遠くを見つめたガッシュ――とは言っても視線の先にあるのは壁だが――を現実に立ち返らせたのはヴィルヘルムの放った一言。
「それで……やけに帰りが早いようだが、何ぞ起きたか?」
確信をもって問うヴィルヘルムに、ガッシュは咄嗟に目を伏せた。
今ならガウディが話すのを躊躇った気持ちがよく分かる。だが……自分は決めた筈だ。ヴィルヘルムを巻き込むことが最良だと。タイミングも場所も今をおいて他にはないのだから。
覚悟を決めたガッシュは顔を上げ、真っ直ぐにヴィルヘルムを見た。
「メイゼンターグに賊が侵入し、1人の囚人が消えた。その男は禍津教教主ゴードン・デルビエル。ルーファを……」
『ならん!!』
突如、乱入した声がガッシュの言葉を遮った。
怒りを孕んだ目で彼を睨みつけるのはラビだ。
『お前さんは世界を滅ぼす気か!それ以上言うてはならん!!』
ラビの前には幾つもの魔法陣が浮かび、その全てがガッシュへ向けられている。戦闘も辞さない、それがラビの決意の表れだ。だが……その死を厭わぬ覚悟も次の瞬間、朝露の如く霧散することとなる。
「ラビ、下がれ」
ヴィルヘルムの冷ややかな声が響き、魔法陣がかき消される。先程までの遊ぶような雰囲気は一変し、ヴィルヘルムが纏うは紛うことなき破滅の力。
コツ……コツ……コツ……
その歩みが止まったのはガッシュの前だ。
視界が揺れる。否、揺れているのはガッシュ自身。相手がどんなに強敵であろうと怯むことなく立ち向かってきたガッシュの心に恐怖が忍び寄る。
ゆっくりと伸ばされたヴィルヘルムの手がガッシュの眼帯を外し、金色の目がガッシュを捕らえる。
「偽りは許さぬ。ルーファは何をされた?」
目を逸らすことは許されない。ガッシュの口が無意識に動き、掠れた声がまるで別人のように室内に響く。
「禍津教に捕らえられ……暴行を受けた」
次の瞬間、密度を増した魔力に床へと叩き付けられたガッシュは、徐々に高まる圧力にくぐもった声を洩らす。ピシピシと不吉な音を鳴らすのは建物か……それともガッシュ自身か。
荒れ狂う炎を連想させる紅蓮のオーラがヴィルヘルムの身体より吹き上がり、漆黒と深紅の髪が重力に逆らうように宙を揺蕩う。
「……ラビよ、何故黙っていた?いや……そもそも何故そなたが知っている。ルーファが襲われたのは迷宮か?」
ラビは項垂れ押し黙る。それは“肯定”だ。
その当時のラビはいつ死んでもおかしくないほど弱り果て、身動きすら叶わぬ状態であった。ルーファが捉えられたのが魔物が手出しの出来ぬ“安全領域”だったことも、助けられなかった理由の1つだ。
だが、ラビがその事実を口にすることはない。結局、ラビは見ていることしか出来なかったのだから。
「そなたが付いていながら、そのような暴挙を許したというのか!!!」
ヴィルヘルムの顔から一切の感情が抜け落ち、それとは逆に猛り狂った魔力が生き物の如く蠢きラビへと牙を剥く。
ガッシュでさえ立ち上がれぬ魔圧にラビが耐えれるはずもなく、圧迫された小さな身体からは血が噴き出し、ピクピクと痙攣を繰り返すその姿は幾許もなく生命を終えるだろう。
「……っヴィルヘルム!!」
叫ぶと同時に、限界まで身体強化を施したガッシュが床を蹴る。
ガツン!
血が宙を鮮やかに彩り、ガッシュは弾けとんだ自らの腕を押さえた。
殴られた筈のヴィルヘルムは微動だにせず、その白磁の美貌は傷1つ見当たらない。だがそれも予想の範囲内なのか、ガッシュは動揺することなくラビを守るように立ちはだかった。
「いい加減にしろ!ラビはルーファの眷属であって敵じゃないだろうが!!」
蒼い魔力がヴィルヘルムに抵抗するように広がるが、所詮それは山火事にコップ1杯の水で立ち向かうようなもの。瞬く間に消し去られることだろう。
だが……ここにきて奇跡が起こる。
それはただの偶然か、それともラビの窮地を感じ取ったが故の行動なのか……
『……ダメ』
微かに聞こえた声が張り詰めていた空気をフッと緩め、浮かび上がっていた部屋の残骸が音を立てて床へと落ちた。
ヴィルヘルムの部屋は今や見る影もなく荒れ果て、かつての名残はどこにもない。いや、そこは部屋と呼ぶのも烏滸がましいただの廃屋だ。
天を仰ぎ、きつく目を閉じたヴィルヘルムは長く息を吐きだす。身の内に巣くう激情を追い出すかの如く。
「……すまぬ。少し取り乱したようだ」




