心の中の闇
暗い暗い闇の中を子狐は走る。
何か得体のしれない怖いモノがルーファを捕えようと徐々に徐々に近付いてくる。
(……重い)
泥の中を進んでいるかのような重たい身体を動かし、懸命に走っていたルーファの足が止まる。行き止まりだ。いや、その言葉は正確ではない。
前には何もなく、ただただ暗い空間だけが広がっているのだが……何故か前に進めない。足に力を入れ踏ん張っても、壁があるかの如く微動だにしない。まるでルーファという存在そのものを拒むかのように。
ズルリ……ズルリ……
音が……近づいてくる。確実に迫りつつあるソレに、ルーファは震えながら振り返った。
闇より尚暗い何かがルーファの前で蠢いている。
ピシリ
突如、空間に亀裂が入る。横一文字に入った疵は、鮮血の如き赤。ルーファの目は吸い寄せられるように赤色のソレを見つめた。
グパァっ!
湿った音と共に亀裂が上下に開かれる。否、それは……口だ。巨大な赤い赤い口。
その時、ゆっくりと開かれた口の中に美しい青灰色の輝きが映った。
『フェン!!』
既に事切れているのか、ルーファが必死に呼びかけても身動き一つしない。徐々に徐々に真っ赤な血の海に沈んでいくフェンの目が……ゆっくりと開かれる。
常に強い力を帯びていた筈の金の目が、弱々しくルーファを見つめる。
『に、逃げ……ろ』
『やめて!やめて!!お願い、やめて!!』
弾かれた様にフェンの元へと走るルーファ。だが、走っても走っても距離が縮まることはない。ルーファに許されたのは、ただ見ていることだけ。フェンの名を叫び続けるルーファの前で……無情にもその口が閉ざされた。
『生きろ!ルーファァァァァァァ…………ブツン』
『いやあああああああああ!!フェン!フェン!!死なないでぇぇ!!』
飛び起きたルーファは我武者羅に身体を動かし、目の前にあったソレに噛みつく。フーフーと毛を逆立て泣きじゃくるルーファを温かい腕が包み込んだ。
「ルーファ、それは夢だ。大丈夫だ。もう怖いことなど何もない」
噛みつかれた指をそのままに、ヴィルヘルムの大きな手がルーファの身体を優しく撫でる。何度も何度も……ルーファが落ち着くまで。
やがて風船のように膨らんでいた毛が元に戻り、ルーファは噛みついていた指を放した。だがその姿は未だ正気とは言い難い。焦点の合わぬぼんやりとした目は未だ夢の中にいるようにも、狂気に侵されているようにも見える。
「ルーファ?」
心配そうに覗き込んだヴィルヘルムに、ルーファが漸く反応を見せる。
『……ヴィー』
涙でぼやけた視界に映るヴィルヘルムが、ホッとしたように頬を緩ませたのが分かった。
キョロキョロと周りを見渡したルーファは、先程見たのが夢だったことを知る。いや……夢であり、現実だ。もう起きてしまった……変えることの出来ぬ過去。
ルーファの心の中には今も尚、モヤモヤとした黒い塊が巣くっている。ソレは時を追うごとに大きく膨れ上がり、ルーファを呑み込まんとしているかのようだ――先程見た夢のように。
悔恨、罪悪感、自責の念。多くの感情が混ざり合い、ルーファの心をグチャグチャに掻き乱す。
『オレのせいなんだぞ……』
口をついて出たのはそんな言葉。それはずっと考えないようにしてきたルーファの思い。
フェンはルーファの所為ではないと言った。それはきっと慰めの言葉だ。ルーファを傷つけないための優しい嘘。何故なら……
『オレのせいでフェンが……し、死んだんだぞ……オレと会わなかったら!オレが頼らなかったら!フェンは死ななかったのに!!』
ルーファがフェンを巻き込んだのだ。
ルーファの甘えがフェンの運命を決めた。
それは慟哭、それは懺悔。
血を吐くかようにルーファは叫ぶ。
『私がフェンを殺したの!!』
「ルーファ!!間違えてはならぬ。フェンはそなたのせいで死んだのではない!そなたのために死んだのだ!」
ルーファの言葉を遮るようにヴィルヘルムが叫ぶ。
初めて聞くヴィルヘルムの怒鳴り声に、ルーファは怯えたように身体を震わせた。
「……すまぬ。だが覚えておけ、フェンは自ら戦うことを選んだのだ。そなたを守るためにな。それを否定してはならぬ。それは戦士に対する侮辱ぞ」
ヴィルヘルムはルーファを抱えあげ、その目を覗き込む。
「フェンの望みは何だ?」
『……生きろって、オレに生きろって』
「ならばそれを叶えることが、ルーファの役目だ。フェンに恥じぬ生き方をせよ。助けたことを誇りに思える男となれ」
ポロポロと涙を溢すルーファにキスをして、ヴィルヘルムは続ける。
「忘れるな、そなたは1人ではない。我がいる。1人で抱え込むな」
『でも……でも!苦しくて辛くて……どうしたらいいのか分からないよぉ。ヴィーは……どうやって……』
(……どうやって親友を失った悲しみを乗り越えたの)
そう問おうとしたルーファは躊躇うように口を閉ざした。俯いたルーファをヴィルヘルムは急かすことなく待ち続ける。
耳に痛いほどの静寂の中、ルーファは一冊の本を取り出した。
「勇者と汚染獣」――父とヴィルヘルムの物語。
ヴィルヘルムの腕が伸ばされ、その指がそっと表紙を撫でる――愛しむように優しく。その穏やかな姿とは裏腹に彼の目は暗く沈み、痛みを堪えるかのようにきつく閉ざされた。
「読んだのか……我を恨むか?我がマサキを……そなたの父を殺したのだ」
ルーファはその言葉を否定するように頭を横に振った。
固く強張った声に、ルーファはヴィルヘルムの苦悩を知る。「竜王様は今なお苦しんでおられるやもしれません」そう言ったゼクロスの言葉がルーファの胸に突き刺さる。
『私は……何も知らなかった。知らないことがショックだった!私とヴィーは家族なのに!ヴィーが苦しんでるなんて思いもしなかった!!どうして何も教えてくれなかったの!?』
堰を切ったかのようにルーファの口から言葉が溢れる。
ヴィルヘルムが悪いわけではない。それは分かっている。
そう思いながらもルーファは言葉を、感情を止められないでいる。頭がグルグル回り、グチャグチャに掻き乱された感情が出口を求め吹き荒れる。
『私が弱くて頼りないから?だから話してくれなかったの?だから外へ出してもらえなかったの?どうして私はこんなに弱いの?ちゃんと力が、使え、たら、フェンを……ヒック……助けれた!!私が、もっと、もっと強かったら!!」
ルーファは自分の力が他に類を見ない程強い力だと知っている。保有魔力量も世界随一。
だがそれも使えなければ意味がない。意味がないのだ!!
ルーファにはフェンを助ける力があった。
2人共助かる道があった。
笑い合える未来があった。
その事実を理解しているが故にルーファは自分が赦せない。
ヴィルヘルムは激高するルーファを静かに見つめる。
ルーファが感じているのは己に対する激しい怒りなのだろう。それはヴィルヘルムにも覚えのある感情だ。自分がもっと強ければ、あの時こうしていれば、と。
だが彼はそれに対する慰めの言葉を持ってはいない。いや、慰めの言葉をかけれるほど彼も割りきれてはいないのだ。5千年経った今でさえ、彼はその感情に囚われているのだから。
それはまるで呪いだ。
何故マサキが死に、自分が生きているのか……その思いが彼を呪縛する。
それこそが彼の“弱さ”。
自嘲するように嗤ったヴィルヘルムは深く椅子に腰かけた。
ルーファを撫でようと伸ばした手が途中で止まり、固く握りしめられる。果たして、父親を殺した自分がルーファへ触れる資格があるのか、と。
力なく下ろした手を見つめ、ヴィルヘルムは口を開いた。
「1つ昔話をしよう」