竜王覚醒
時間が止まったかのような無音の世界に死の化身が顕現する。
黒い黒い漆黒の腕が命を刈り取る鎌となり、闇を溶かした三日月の如き刃が冷たく輝く。
赤い赤い花びらが儚き生命の終わりを告げ、大輪の牡丹が少年の身体に花開く。
堕ちていく少年に赤き竜が叫ぶ。
『マサキイイイイイイイイ!!!』
ヴィルヘルムの叫びにマサキの意識が僅かに浮上した。
(……ああ、そっか)
マサキは理解した――自分がもう助からぬことを。
マサキはこの世界が嫌いだった。
無理矢理召喚されて殺されそうになった出来事を彼は忘れてはいない。
彼は怖かった。行き成り異世界に呼び出され向けられたのは悪意と刃。普通の高校生である彼が恐怖を覚えるのは当然の事だろう。
だが……彼が何よりも恐れたのは自分自身。全ての魔物がワンパン――只の拳の一撃――で死ぬことにこそ彼は恐怖した。
マサキが軽く腕を振るうだけで魔物が爆散し、走る最中にぶつかれば電車にはねられたかの如く潰れてひしゃげた。殺した相手が会った途端襲ってくるような魔物であったからこそ、彼はまだ耐えることが出来たのだ。もしこれが人であったなら……そう考えるだけでゾッとする。
彼の拳は卵よりも軽く人の頭を割るだろう。
彼の蹴りはトマトよりも容易く人の身体を踏み潰すだろう。
一時の感情でさえ、容易く人を殺す刃となる。
マサキが原魔の森を只々さ迷い歩いていたのもコレが理由だ。
人と会わぬように、人を殺さぬように……彼は逃げ続けたのだ。
そしてマサキはヴィルヘルムに出会った。
殴っても殴っても平然と向かって来るヴィルヘルムを見て、彼はこの世界に来て初めて安堵した。ヴィルヘルムの側になら一緒にいられるのではないかと思って。
それから彼はこの世界が少し好きになった。
時には厳しいことも言うけれど、ヴィルヘルムはいつも彼を助けてくれた。彼が皆を助けたいと言えば手を貸し、人が彼に悪意を向ければ怒ってくれた。
口に出して言ったことは無いが彼はヴィルヘルムにいつも感謝していたのだ。ヴィルヘルムがマサキにくれたのは紛うことなき“無償の好意”だったのだから……ちょっと、いやかなり愛情表現が突き抜けてはいるが。
そして次なる出会いが彼の意識を徹底的に変えることとなった。彼は……恋をしたのだ。
ヴィルヘルムの存在が彼のささくれ立った心を癒し、カトレアとの出会いが彼の在りようを決定づけた。
カトレアの小さな背中には世界の命運がかかっていた。そんな重責を背負って尚、毅然と佇むカトレアを彼は美しいと感じた。
それに比べて自分はどうだろうか。
彼は……逃げた。逃げて逃げて逃げて逃げて……逃げ続けた結果ノースティアに辿り着いたのだ。
結局自分は異世界に来て“力”を手に入れても、何一つ変わることが出来なかったのだろう。日本では流されるままに生き、それはこっちでも変わらない。抗うことなく只々流れに身を任せていた。
「仕方がない」それが彼のいつもの言い訳だ。
召喚されたから仕方がない、殺されそうになったから仕方がない。そう言っていつもいつも逃げていた。今ならば分かる。自分には覚悟がなかったのだと――戦う覚悟、そして殺す覚悟が。
もし召喚された時に戦っていれば、一緒に喚びだされた日本人を助けられたかもしれない。一緒に逃げる、その選択肢を切り捨てたのは他でもない自分。一緒に逃げる未来があったのなら……汚染獣に世界が滅ぼされることもなかっただろうに。
ちっぽけで情けない自分……でも2人はこんな自分が好きだと言ってくれた。こんな自分でいいと言ってくれた。カトレアのお腹に子供が宿り、彼の胸の内に芽吹いた想いは増々強くなる。
(……守りたい)
この世界を……否、3人が生きるこの世界を守りたいのだ!
マサキは目を開いた。
不思議と痛みも恐怖も感じない。それは“死”に呑み込まれたためなのか、それとも感覚が麻痺してしまったからなのか……。
ふわふわ……ふわふわ……
まるで夢の中にいるようだ。このまま再び目を閉じて眠ってしまいたいという欲求が彼の脳裏をよぎるが……自分には最期にやり残したことがある。
右手に力を込めると僅かに感覚が戻って来た。神剣を未だに握り締めていることにマサキは微かに笑った。
「神剣はそなたの牙であり命だ」神剣が手から離れるたびに何度もヴィルヘルムに言われた台詞を思い出したのだ。
その言葉の意味を彼は真に理解した。
この瞬間に牙を手にしているその意味を!
ゆっくりと立ち上がったマサキの姿に、ヴィルヘルムは安堵すると同時に激しい焦りを抱く。
『よせ!動いてはならぬ!』
マサキが動く度に血が溢れ、足元にはそれが池となり広がっている。その量はいつ死んでもおかしくない程だ。
(このままではマサキが死んでしまう!)
必死に手足を動かし地を這いずるヴィルヘルムの姿は“竜王”と思えぬほど無様だ。
彼は自分が死ぬ時は誇り高く戦って死ぬのだと思っていた。常に前を向き毅然として死を受け入れることこそ王者に相応しい死にざまであると。
……何と滑稽であろうか。
ヴィルヘルムはただ知らなかっただけ。
誇りを投げうっても……命に替えても守りたいと思える大切な存在を。誇りなどなくてもいい、無様でみっともなかろうと構わない。
彼が真に望むのは……ただ1人の命。
ピシリ……ピシッピシッ
ヴィルヘルムの身体から絶え間なく響く音は、まるで未来を告げる崩壊の音のようだ。
崩れる手足、拡散していく魔力。彼はただ見届けることしか出来ない己に絶望する。
獲物を弄ぶようにゆっくりとにじり寄る滅びの獣の眼前に、マサキは凛として佇んでいた。
その清涼なる佇まいは瀕死の人間とは思えぬほど静か。
一陣の風が吹き、舞い上がった土煙が獣と人の姿を隠す。
先に動いたのは獣だ。
獣の起こす風圧で2つに割れた土煙が王者を迎える花道の如く道を開け、対するマサキは半ばで折れた神剣を正眼に構える。
その姿は折れた爪楊枝で象に戦いを挑む愚者のよう。
彼は愚者にして勇者。
彼が抱くは信念。
彼が定めるは覚悟。
彼の心を満たすのは“愛”だ。
守りたいと想う心が神剣を創り、守りたいと願う心が神剣を継ぐ。
今ここに真なる神剣が完成する。
神剣とは剣に非ず、其は無形の心なり。
倒したいという思いが刃となり、守りたいという思いが盾となるのだ。
マサキが願うは獣の完全なる消滅……が、獣の力が強すぎた。
マサキの生命を合わせても獣を滅することは出来ないだろう。
ならばどうするか……マサキはただ1つの可能性に賭ける。最も残酷なその方法に。
彼はどんどんどんどん生命を注ぐ。
その手に既に神剣はない……否、彼こそが神剣。
マサキの身体が白銀色に輝き、両腕が鎖となって獣へと絡みついた。
ギャアアアアアアアアアアアア!!!!
ジャラジャラ……ジャラジャラ……音を立て、暴れる獣に幾重にも幾重にも鎖が巻き付く。やがて完全に封じられた獣の上からマサキはヴィルヘルムを振り返った。
その澄みきった眼差しをヴィルヘルムは知っている――死を覚悟した戦士の眼だ。
マサキは願う。共に戦い、共に笑った戦友たるヴィルヘルムに。
「殺れえええええ!ヴィルヘルム!!長くは持たない!!」
その残酷な言葉にヴィルヘルムは幼子のように首を横に振った。
『何故……何故だ!!そなたのおらぬ世界など意味など無い!滅んでしまえばいい!!』
悲しそうに顔を歪めながらも、マサキはヴィルヘルムに笑いかける。
「そんなこと言うなよ!俺は……この世界が好きだ!カトレアがいて子供ができて……お前がいるこの世界が好きだ!俺に守らせてくれ!最期くらい格好つけさせろよ!」
ヴィルヘルムだとて分かってはいる。
マサキが助からぬであろうことも、他に選択肢がないことも。だがそれでも、マサキを殺したくはない。愛する者を自分の手でなど!!
「……守ってくれ。カトレアと子供を。お前にしか頼めないんだ。頼む、頼むよぉ」
辛そうに顔を歪めたマサキの額から汗が流れ落ち、鎖へと変わりつつある彼の身体に罅が入った。膝をつき倒れこんだマサキの涙に濡れた目は、逸らされることなくヴィルヘルムだけを見つめている。
その姿に漸くヴィルヘルムは悟った。自分だけでなくマサキもまた辛いのだと。
自分も死ぬ、マサキも死ぬ。では……どうするか。
嗚呼、その答えは何とシンプルで単純、無慈悲で残酷であろうか。
マサキの最期の願いを叶える――それが自分に出来る唯一の事なのだから。
ヴィルヘルムは魔力を集める――マサキを殺す力を。
自身の魔力はもう殆ど残ってはいない。故に空気中の瘴気を吸収し魔力と分離していく。
身体が黒く染まり腐っていくのが分かる。だが……それでいい。この身体はもう必要のないものなのだから。
ヴィルヘルムが宿すは赫怒。
彼はマサキを殺す運命を呪う。
彼は汚染獣を生み出した世界を憎む。
彼はマサキを傷つけるモノ全てを拒絶する。
ヴィルヘルムが望むは終焉。
運命を破壊する力を。
世界を破滅させる力を。
全てを消滅させる力を。
獣も人も魔物も世界も自分自身をも殺す力を!
その瞬間、彼は確かに欲したのだ。
全てを終わらす力、究極の破壊の力を!
――それこそが“終焉ノ神”。
全ての存在に等しく終わりを齎す力なり。
彼が気付かぬままにその身体は変化する。古竜王種から超越種:神竜へと。
もしこの時点でヴィルヘルムが己の変化に気付いていたのなら、獣のみを殺すことが出来ただろうに。
だが彼は気付かない、気付けない。
彼にとって自分の身体など気にする価値すらないものなのだから。
ヴィルヘルムの口から呼気が放たれる。
それは終焉の呼気。
通った跡には何も残らない。
滅びの獣も彼の大切な親友も。
滅びの瞬間、マサキは微かに笑い満足そうに眼を閉じた。
「ごめん、ごめんな、ヴィルヘルム……ありが……と」
それがヴィルヘルムが耳にしたマサキの最期の言葉となった。
この日、ヴィルヘルムは初めて哭いた。
蒼穹に竜の慟哭が木霊する。
愛を得た竜はそれを失い孤独を知った。
“死”と言う名の救いを得る筈の竜は、それに拒絶され虚無を知った。
ヴィルヘルムはマサキに誓う。
マサキの愛したカトレアと産まれてくる子を己が命に代えても守り抜くと。
だが……生きる意味を見出したヴィルヘルムの心から虚無が消えることは無かった。彼は汚染獣へ対する憎しみ以外の感情を失い、空虚な時を過ごすこととなる。
彼の心に別の感情が宿るのはもう暫く先のこと。
彼はいずれ知るだろう――友情よりも尚深い愛を。
これが愛を知らぬ竜王と独りぼっちの勇者が紡いだ物語――その結末。
ヴィルヘルムのマサキ大好きっぷりが伝わったでしょうか?彼は一途な男ですが、その愛は限りなく重いのです(笑)




