花に触れる
あの日からずっと、こわい夢を見てる。
赤い手が、さちの足をつかんできたり、赤い影が追いかけてきたりする夢。
怖くて、助けてママ! パパ! って言おうとしても、声がでない。
はっと目がさめたと思うと、目の前に黒い人がいる。
『ゴミムシめ……』
そういわれて、ビクッとなって、本当に目がさめる。
汗、びっしょりかいてる。
ママには言ってない。言えない。
ママの泣きそうな顔、もう見たくない。さちがだまっていれば、ママ、かなしくないでしょう?
わたし、良い子でいたい。
ママとパパにきらわれたくない。
いまわたしは、ひとりのお部屋だから、こわい夢のこと、ママたちにはバレてないはずなの。
でも、あの日からずっと、ママとパパはやさしい。
大声は出さない。テレビの大きさも、チャイムも、前よりずっと小さな音。
今は春休みだから、学校もない。外に出なくても、なにも言われない。もうさちひとりで、外に出ることはしない。外に出るのは、ママかパパと一緒のときだけ。ママとお買い物にいったり、パパとふらっとお散歩いったりする。
たまに、ハルくんがひとりで遊んでいるのを見かける。ハルくん、ひとりでも怖くないんだ……。さちはひとりだと、怖くてたまらないのに。
神社のうらで見た、あのお花。今もまだ、ひとつ。つくえの上にある。
ひとつしかないのは、あのとき、さちね、あれにさわってみたの。ママが置いたのかなって、思ったから。だって、さち知らないし。
でもあれ、さわったら、パッて黒いお花になって、パチパチって消えちゃったの。
ソーダがはじけるみたいに、パチパチって。
怖くなった。あの夢を、見てるみたいで。
はやくどっかいけって、思ってるのに、ぜんぜんいなくならないの。
「爽知ー、お散歩いこう!」
パパにさそわれて、ふたりでおさんぽに出かける。
「パパ、爽知。帰ってくるときでいいから、おしょうゆ買ってきてくれる?」
ママがにっこりして頼んできたから、パパと一緒にうなずいて、手をつないで、玄関を出た。そしたらそこで、ハルくんとハルくんのママがいた。めずらしく、ふたりでお出かけしたのかな。
「こんにちは、さっちゃん」
「……こんにちは」
ごあいさつをしたら、ハルくんとパパが、なぜかハイタッチしてじゃれてる。それを見てるさちに、ハルくんのママが、頭をなでなでしてくれた。
「さっちゃん、心を強くしてね! 負けちゃダメだよ」
さちと目を合わせて、やさしく言ってくれた。
さちにはなんのことか分からなかったけど、パパとハルくんには分かってるみたいだった。
ぼけっとしてるさちをよそに、ハルくんたちはパパに頭を下げて、おうちに帰っていった。
さちがいつまでもハルくんたちを振り返っていたら、パパに声をかけられた。
「いこう、爽知」
歩きながら、聞く。
「パパ、心を強くって、どうやるの?」
パパ、さちの手をぎゅってにぎった。パパ、ちょっといたいです。
「そうだなぁ。爽知に荒療治はキツいだろうからなぁ。いくつか方法はあるんだけど……」
「じゃあ、どうやってハルくんは強くなったの?」
「うーん。パパはハルくんにも聞いてないから分からないけど、一つだけ」
「なに?」
「ハルくんは、パパやママを信じて、殻を破ったんだろうね」
???
カラを破るのはよくわからない。でも、パパやママを信じるって言うのは、ちょっとだけわかった気がする。
でも、それって……。
「あ、爽知が僕らを信じてくれてないとは思ってないよ? 爽知は信じてくれているけど、それだけじゃまだ、殻は破れない。爽知が、自分の見たい景色を見るためには、自分の力で扉を開けなくちゃいけないんだよ」
「むずかしい……よくわかんない」
パパの顔を見上げられない。上を向くの、こわい。
「こわいと思い続けていたら、何も見えなくなっちゃうからね」
……さち、今声出してたっけ?
「パパは、何でもわかるんだね」
パパの方を見ないで言ったけど、パパは腕を大きく振った。嬉しいときに、よくやってるやつだ。
「パパも分かるけど、ママだって分かってるよ」
……ママ。
さちはこわい夢を見るようになってから、あんまりママの顔を見てない。ママ、すごく痛そうな、泣きそうな顔をしてるの。そんなママを見てたら、さちも泣きそうになっちゃうから……。
「爽知、パパとママにとって、爽知は宝物なんだ。爽知にはこれからたくさんの景色を見て欲しいし、パパたちと一緒に見て欲しいと思う。だから、困っているなら、教えてね」
とぼとぼ歩いてたら、パパが急にさちの前にしゃがんだ。さちの顔を見て、しんけんに、そう言ってくれた。
さちのあたまをなでながら、今度はにっこりする。
「まだまだ手をやきたいねぇ。爽知は周りを気にかける優しい子だけど、自分にも優しくしようね」
そういって、また手をつないで歩く。
さち、パパの言葉に何も返せなかったけど、今じゃなくてもいいよって、言われた気がした。
おうちを出て、ぐるーって一周して、公園の前を通る。
「わぁ、桜吹雪だねぇ」
ピンクのお花は、一枚一枚が風に乗って、思い思いの場所へいく。流れるように、唄うように。公園内は、誰もいなくて、天国みたいだった。
話そうって、思ってなかったのに、勝手に口が動いた。
「パパ……さちね、」
「うん」
「ずっと、こわい夢を見てるの……」
「うん」
「ママにも言えなかったんだけどね……」
「うん」
「黒い人に、追いかけられてるの……」
「……うん」
「どうしたら、いいの?」
うーんと、パパがうなる。
「今日はパパと一緒のベッドで寝ようか! パパが追い払う!」
にかっと、パパが笑う。そんなパパを見てたら、本当に追い払ってくれるかも! って思えた。
パパの言葉が、嬉しかった。
お花のことは言えなかったけど、なんだかちょっとだけスッキリできた。
そうだ。パパと一緒なら、こわくないもん。もっと早く言えばよかった。
おうちに帰ったら、ママにおしょうゆ……って言われた。
今、パパがひとりで買いにいった。