6 謁見
しばらくはましろさんの屋敷でお世話になることになった。ここにはましろさん以外に住んでいる人はいないらしく、侍女さんたちはみんな倭国の古い魔術(陰陽道というらしい)で作られた式神なんだとか。あれが人間じゃないなんて信じられない。露丸さんに受け答えしていたときも、歩いているすがたを見たときも、どこも違和感なんてなかったのに。
俺が露丸さんのお父さん、つまり倭国の王様と会うのは明日だ。そこで俺は王様から直接国を厄災から守る任をもらって、本格的に倭国の竜使いになる。他国に知られないように、国民への披露はもっとあと、俺がある程度魔術やら魔導やらを使えるようになってかららしい。竜使いは他国から身柄を狙われる可能性があるんだとか。「私が付いているのだから心配することはないぞ」とましろさんは言ってくれたけれど、気ままに街を探検するのは難しそうだ。ひとりでおびえていれば白緑がすり寄ってきてくれた。すこし安心できた。怖いことだとかなれなくて不安なことはあるけれど、俺はなんにせよしっかり勉強すればいいんだ。
「じゃあ、また明日ね、久」
風呂から上がってしばらく駄弁ったあと、露丸さんは自分の家、というか、屋敷というか、なんにせよ住んでいる場所に帰っていった。露丸さんは好奇心が旺盛らしく、現世での生活を根掘り葉掘り聞いてきた。親兄弟のこと、友人のこと、学校のこと、文化のこと。大したことは教えられなかったけど、しょうもないことでも彼は瞳をきらきらさせていた。楽しんでもらえたみたいでなによりだ。
出された食事は和食っぽかった。白いご飯と、見たことのない魚の煮つけだとか、豆腐だとか、ししゃもだとか、てんぷらとか、ほうれんそうっぽいもののおひたしだとか、味噌汁だとか。一品ひと品の量は少ないんだけど数が多い。見たことのない野菜とか魚とかもあったけれど、味付けは食べなれたものばかりだった。街並みは平安時代を模しているとは言っていたが、風呂場のときと同じですべて当時のままではないらしい。ほっとしていると、あからさまだったらしくましろさんがけらけら笑っていた。
敷かれていた布団に横になる。ましろさんからもらった部屋は、教室より少し狭いくらいの大きさだった。ほかよりも少し天井が高くて、障子を開けると庭がよく見える。白緑が元の大きさに戻っても大丈夫なように配慮がしてあるのがすぐにわかった。とてもありがたい。ここに来てからはずっと白緑に寄り添って寝ていたから、どうなるのか少し不安だった。冷たいけれど暖かいあの感触からはもう離れられない。
床の上で元の大きさに戻った白緑は、俺が寝転んでいる敷布団を囲むように横になった。野原で寝ていたのと同じ形だ。畳があるせいであのときみたいに密着はできないけど、代わりに白緑が顔を近づけてきてくれた。優しい子だなあ。
枕元に合った行燈を消した。真っ暗だった。野宿していたときも思ったけれど、この世界の夜は、俺の知っている夜よりもずっと暗い。街灯がないからだ。月と、星のあかりだけの夜。人気がなく、しんとしていて、すこしの風で擦れる葉や虫が跳んだ音まで聞こえてきそうなほどだった。白緑の顔に頬を寄せる。久しぶりにかぶった布団は柔らかかったけど、白緑の暖かさにはかなわない。
真っ暗な中で、あのきれいな金色と視線が交わった確信があった。白緑がいたからいまこうやって俺は生きていられる。風呂に入ることができて、しっかりした食事にもありつける。ましろさんや、理市さんたちや、露丸さんと出会えた。身に余る役目ももらったけれど、何もやることがないよりずっといい。すべてが白緑のおかげで、そして俺は、これから元の世界に帰るめどが立つまで白緑と生きていくことになる。大切な相棒だった。
「……ビャク、これから、よろしくな」
小さくつぶやくと、甘えた音が返ってきた。まぶたを閉じてそれを聞くと、俺の意識はすぐに飛んで行ってしまう。
***
ぺちぺちぺちぺち。
「中里殿、中里殿。起きてくれ」
ぺちぺちぺちぺちぺち。
「む、駄目か。ならこれならどうだ」
顔全体が突然冷たくなった。沈んでいた意識がいっきに呼び戻されて体が震える。張り付いたまぶたを無理やりこじ開けると、ましろさんと白緑が俺の顔を覗き込んでいた。頬のあたりに持ち上げられた小さな手の手首に青い輪っかが浮き出ているのをみて、じわじわと何が起こったのかを理解する。魔法で水をかけられたのだ。
「お早う、中里殿」
「……おはようございます」
のろのろと顔に触れると、案の定濡れていた。普通に起こしてくれたらよかったのに、と思ったが、そうしても起きなかったからこの手段に出たんだろう。上体を起こすと、白緑が頬にすり寄ってきた。喉を撫でる。
「ゆっくり寝かせてやりたかったのだが、謁見が早まりそうなのでな」
「お手数おかけしてすみません……」
「よいよい。ほれ、身支度を整えたら朝餉だ」
そういってましろさんが俺の背中をたたくと、部屋の襖かすっと開いて侍女さんが三人入ってきた。そのうちの二人は桶と着物の乗ったお盆を持っている。ましろさんに促されて板の間に移動すると、手ぶらだった侍女さんは布団を片付け始めた。昨日はましろさんでも驚いていた、もとの大きさになっている白緑がいても、驚くどころか目を向けることすらしない。……人間でないということを思い知らされた気分になった。
目の前に置かれた桶には水が入っていた。顔を洗うのかな。板の間にこぼさないように気をつけて手ですくう。水はひんやりとしていて、背筋が勝手に伸びた。さっきよりもぼとぼとに濡れた顔をどうしようかと迷っていれば、目の前に手ぬぐいが差し出される。侍女さんだ。お礼を言って受け取った。
恥ずかしさでいっぱいいっぱいになりながら侍女さんに着物(露丸さんのものらしい)を着せてもらい、ましろさんと白緑と朝ごはんを食べて、いま。俺は王様の私的区域である内裏に来ている。正直言って、きれいに整えられた庭を楽しむ余裕もない。
「謁見とは言うたが、今回は私的なものだ。場におるのも帝と一部の皇族、国の重鎮と近衛程度しかおらぬ。そう肩ひじを張ることはない」
ましろさんはなぐさめてくれるけれど、俺の緊張は高まるばかりだった。全く問題ないようにましろさんは言うけれど、つまり偉いひとばっかりが集まっているってことだろ? たくさんの人の前に立たされるのも怖いけれど、どっちかっていうと国を支える人たちが集まる場所に行かされるほうがきつい。俺は普通の家庭で育てられた庶民なのだ。露丸さんと会ったときは突然だったからなんとかなった。もし初対面があんな出会いじゃなくって、これからするみたいにちゃんとした場所で、着慣れない服で、ってなっていたらしゃべることすらできなかったに違いない。胃がぐるぐるしてきた。
「うう……吐きそう」
「露丸とまみえたときは堂々としておったのに」
情けないすがたの俺にましろさんは若干呆れているらしかった。隣を歩く彼はべしべしと遠慮なく俺の腰を叩く。しゃんとしろ、と言われた気分になった。できる限り背筋は伸ばしているつもりではある。見てくれだけだけど。
ましろさんは小さな手を指折って言う。
「私がそばにおる、場には露丸もおる。見知った顔があり、そばにはそなたを慕う竜があり、くわえて帝は寛大なおかたと来た。そなたが粗相をしたとしても私がいくらでもかばってやる。たとえ本当に戻したとて、帝は笑ってすまされるだろうが」
なにも不安になることはない、とましろさんはそう締めくくった。まだ出会って二日程度しか経っていないのに、彼はとてもよくしてくれる。倭国に安寧をもたらす竜使いだからなのだろうが、そう感じないくらいに事務的でなかった。表情からはわかり辛いけれど、優しいひとだ。
着物の中でくつろぐ白緑がもぞもぞと動いた。襦袢をつかんでよじ登ってくるのに手を貸してやる。今日は公にならないように小さいすがただが、本格的に俺が竜使いとして発表されるときは元の大きさで、ド派手に演出するらしい。子どもとか怯えそうだけどいいのかな。
白緑の体温を感じて少し安心したところで、やっと目的地に着いた。王様の執務所にあたる紫宸殿という建物だ。扉の前には警備をしているらしい衛兵さんたちがいて、ましろさんに頭を下げる。おもわず手の中にいた白緑を握ってしまって、抗議の声が上がった。もうしわけない。
先に階段を上がったましろさんが、ゆっくり振り返った。金の髪飾りがしゃらんと揺れる。小さな手が俺に向かって伸ばされた。そのうしろで、扉が開いていくのが見えた。
「案ずることはない。そなたは昨日、東宮に対して十分な敬意を払った。同じようにやればいい。中里殿の、思うように動けばいい、話せばいい」
「思うように」
「そうだ。なにをしようと、私がそなたを守ろう。それがそなたに大役を乞うたものとして、そなたを拾った保護者としての私の責務だ」
それでは安心できまいか? こてん、とましろさんは首をかしげて見せた。保護者、と彼はそう言った。言葉通りの意味だろう。彼は右も左もわからない俺を拾った。だから、俺を、責任をもって見ている必要がある。だけれど、俺からすれば、保護者と聞いて思い浮かぶのは親だった。
体の内側が焼けるように熱くなった。不安は吹き飛んで行った。小さな手を握る。白緑とは違う、明確な暖かさがあった。
「ありがとうございます。安心、しました」
「うむ、やっと良い返事を聞けた」
ましろさんはほんのすこしだけ口角をあげた。満足そうな顔だった。なんだかうれしくなってきて階段を上ろうとしたとき、つながった手に力が込められた。彼の手首に、見慣れてきた輪っかが浮かび上がる。衛兵が素早く数歩下がったのが視界の端に見えた。
「え」
「ほれ、行ってこい」
ましろさんは俺の腕を背負うようにして引っ張った。なに、とかなんで、とか、そんなことばすらいう暇がなかった。体の周りに強い風が吹き付けて、視界がぐるりと回る。世界がひっくり返るなかで、なんとか肩にいた白緑を手でかばった。
投げ飛ばされたのだからすぐに地面に落ちると思っていたのに、俺の体はくるくると何度も空中で回転していた。なんで? なんで? もしかしたずっと浮かんだままなのか。混乱が極まって、からだの力を抜いた途端にケツにすごい衝撃が来た。ちょっとはねた気がする。めちゃくちゃ痛い。
俺はいまどこにいるんだ。ゆっくり目を開けると、くすくすと、高いところから控えめな笑い声が聞こえた。
「おやおや、竜使い殿はずいぶん元気なおかたなようだ」
俺は、白に近い金髪をもった、四十代くらいの男の人の前にいた。